自由な人だとは思っていた。あんまりにも同年代とは違うと思っていたが、何と言うか、この人は本当に中学生なのだろうか。叩き起こされなかった感動より、雲雀が男女のあれそれを赤裸々に綴ったページを淡々と眺めている衝撃の方が強くて言葉が出なかった。
「……本当に中学生ですか」
「何それ、どういう意味」
「普通、何ていうか、こう。もう少し照れたりとかしませんか、そういう雑誌見たら。まぁ雲雀さんなら興味ないって言われても信じますけど……」
「嗚呼、これ?別に、興味はあるよ」
「……え?」
 再び動きが止まる。何だか衝撃的な言葉が聞こえた気がした。興味ある、と言った癖にその空気はやっぱり冬の朝みたいに冴え冴えとしていて、借りた雑誌は科学雑誌だったかな何て現実逃避をした。雲雀は相変わらず何を考えているのか分からない無表情を貫きながら、ついに飽きたのか読んでいた雑誌を丁寧に畳んで私の鞄の上へと放り投げた。
「……性欲、あったんですね」
 あんまりにも堂々とした態度の彼に釣られて、私もつい恥じらいの欠片もない直接的な単語が口から飛び出す。
「そりゃ、人間だし。君だってそうでしょ」
「ええっと……あー、はい、そうですね」
 彼と話しているとまるで学術的な話題のように思えて、思わず肯定してしまう。雲雀は不意に身体を伸ばして私の机へと頬杖を付き、感情の読めない瞳で私をじっと見た。初めての真正面からの視線に、心臓が高鳴る。真っ直ぐな眼光が震えるほどに綺麗だった。
「……どういう感覚なんだろうね」
「はい?」
「気持ちいいのは分かる、何せ三大欲求だ、心地よくなくちゃ種として存続できない。でも、そうやって本能に呑まれる感覚って楽しいのかな」
 数学の難解を分析するみたいに雲雀は言った。白磁の指先は、またつまらなさそうに雑誌をぱらぱらとめくっている。私は半ば反射的に、雲雀が誰かと"そういう"行為をしている場面を思い浮かべた。


 真白いシーツ、散らばったネクタイ、カッターシャツ、そしてリボン。伸ばされる華奢な腕を首に絡ませて、少しだけ眉を顰めた雲雀が吐息を噛み殺しながら僅かに動く。熱っぽい唇からは碌な言葉が吐き出されそうに無かった。しなやかな指先が女の腰を掴む。揺れて、動く。汗で頬に張り付いた髪が深みを増して信じられないくらいに色っぽい。
「っ……、!」
 一瞬の内に自らの脳裏を塗り潰した不純な想像にぐしゃりと髪を掻き乱す。一瞬、自分の想像にぞくりとした。不自然に息を詰めた私に気付いて雲雀が視線を上げた。
「……何?」
「いえ、……何でもないです」
「そう。……ねぇ、君も興味、あるんでしょ?」
 がたん、と音を立てて、雲雀が立ち上がった。無音の教室で椅子が動く音がいやに大袈裟にこだまする。雲雀は開いた儘の雑誌をおもむろに持ち上げて、反射的に身を引いた私にそれを突き出した。
「……試してみる?」
 薄くて形の良い唇がほんの僅か釣り上がり、奇妙に艶やかな笑みを形作る。恐らく意図してやっている訳ではないのだろう、その壮絶な色香に眩暈がして、私は数秒の間雲雀に見惚れた。気付けば私は頷いていた。脳裏に浮かんだ想像の中で、顔の見えなかった女子生徒が消されて私自身が嵌め込まれていく。雲雀が私を抱くと言ったのだ、と今さらながらに認識した。
 どんな感覚なんだろう、と疑問を零すということは、雲雀にも経験が無いということだろう。中学生だし、それは別に可笑しくない。この歳で経験している方がむしろ異端であるくらいだ。でもあの雲雀が何かに対して未知であるという事実が意外で、似合わなくて、でも同時に、雲雀の最初の相手が自分であるということに優越感のようなものを抱いている自分がいた。だってあの雲雀だ、性格と気質は暴力性に満ちて苛烈だが、反比例するように見目は美しく上品で、強烈な強さと孤高の生き様に憧れを抱いている人間も案外多い。そんな特別な人間が見せてくれるという無防備な一瞬に、多分私はその時、どうしようもなく欲情した。


 流石に校内で不純異性交遊は不味い、ということは二人のうちの暗黙の了解だった。頷いた私を見て小さく笑った雲雀は「じゃあ、行こう」と言って雑誌を畳み、元の無表情へと戻って飛び出していた椅子を律儀に戻した。渡された雑誌を鞄に仕舞い込み、タイミングを見計らって歩き出す雲雀の後に続く。戸締りをして学校を出れば、辺りはもうそれなりに暗かった。無言で歩いていく先は、私の普段の通学路ではない。後を追いかけながら、私は携帯を取り出ししなやかに伸ばされた黒い背中へと疑問を放った。
「連絡って、遅くなるって言った方がいいですかね。それとも泊まりですか?」
「君の体力次第だと思うけど……嗚呼でも人体模型だっけ、念のため泊まりって言っておいた方がいいんじゃない」
「人体模型じゃないです。っていうか、泊めてくれるんですね」
「流石にやることやって追い出すほど非道じゃない、君はことさら体力が無いしね」
 そういや着替えとか避妊具とか、どうしよう。友達の家に来たら思いの外盛り上がってそのまま泊まっていくことになった、という当たり障りない連絡を親に飛ばしてからぼんやりと考えた。人気のない道は夜に染まりかけていて、何だか無性に不安を掻き立てる。全身に黒を身に纏った雲雀は一瞬でも目を逸らしたら夜に溶けて消えてしまいそうだった。私は無意識に雲雀との距離を少しだけ詰める。気配だけでそれに気づいたのか、彼は一瞬だけ規則的な足音を乱したが、特に何も言うことは無く静かに歩みを進めていった。

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