雲雀が住んでいるらしいマンションに辿り着いたのは陽の沈み切った頃合だった。寒々しいモノトーンの配色が雲雀らしくてちょっとだけ笑う。誰の出入りも無く、夜だからか人の気配も感じさせないエントランスを潜り抜け、エレベーターを使って最上階へと上がる。ちゃっかり一番上な辺りも本当に"らしい"。雲雀が手慣れたように鍵を取り出し、扉を開けて中へと招いてくれるまで、私と雲雀はほとんど喋らなかった。
「入って」
「あ、ありがとうございます」
「服、明日までに乾かさなきゃ不便だろうから、先にシャワー使って。どうせ脱ぐけど、取り敢えず僕の貸すから」
「えーっと……ありがとうございます、お借りします」
 本当に遠慮ないな、この人。色々と言いたい言葉は喉元までせり上がったが、全部纏めて呑み込んだ。今更だ。そもそもの発端さえ、気になるからちょっと試してみようという子供の好奇心のようなもので、それにあっさり乗った私にデリカシー云々で文句を言う資格は無い。雲雀に先導されて暗い廊下を歩き、静まり返った浴室へと立ち入る。物の少ない家だった。用意されたバスタオルもシャンプーも一目で高級品と分かったが、余り使われた形跡は無い。雲雀は常に清潔感があったから風呂には入っているだろうが、モデルルームのような雰囲気とでも言えばいいのか、人の気配の薄い空間だった。まぁ、だからと言って何か不便がある訳でもない。私は小さく溜息を吐いてコックを捻る。熱いお湯を頭から浴びてわざと頭を空っぽにし、さほど時間をかけずに浴室から出た。


「……大きい」
 いつの間にやら用意されていた雲雀のシャツに腕を通すと、意外に余った。袖を追って手を出すもどう見てもぶかぶかで、シャツだけでしっかりお尻まで隠れてしまう状態だった。ちょっとしたワンピース状態だが、流石にこのまま出歩くのはよろしくないだろう。一緒に置かれていたズボンを手に取り、こちらも裾を折って足を通しベルトを使って無理矢理固定した。大分愉快な恰好だが、彼シャツ染みたワンピースよりはマシだろう。簡単に髪を乾かして廊下に出ると、既に電気は付いていてリビングのドアは開いていた。ぺたぺたと素足で明るい方へ向かえば、キッチンのシンクに手を付いた雲雀がちょうどペットボトルの水を飲んでいるところだった。足音で私に気付いたのか、視線だけをこちらに寄越す。
「お先に失礼しました」
 当たり障りない言葉を選んで投げかけると、彼は「うん」と気の無い返事を返してキャップを閉め、半分ほど減ったミネラルウォーターをぽいとこちらに投げて寄越す。唐突の行動に慌てて受け止めれば、雲雀は欠伸をしながら私の隣を通り過ぎ、閉められた廊下への扉へと手を掛ける。彼のトレードマークとも言える学ランはソファに放り出されていた。
「それあげる。見られて困るものもないし、好きにしてなよ。僕もシャワー浴びてくる」
「あ、はい……」
 薄手のシャツだけを纏った彼はいつにも増して細く、華奢だ。幅を取る学ランを肩に掛けていない所為で、腰の薄さがいやに際立っている。受け取ったペットボトルを両手で抱えた儘、私は雲雀を見送りどうしようかと溜息を吐いた。一応、この水は風呂上りの私への気遣い、だと思う。一瞬だけ間接キス、という単語が浮かんだが、それも今更だと軽く頭を振って思考を追い出す。どうせこの後、それ以上のことをたくさんするのだから、こんな事に一々構ってはいられない。気遣いは有難く頂戴して、未だ冷たい水をゆっくり嚥下する。渇いた喉が潤されて心地いい。水を飲みながらゆっくりと室内を見回していると、案外早く扉を開ける物音がして、少しだけ濡れた髪をタオルで拭きながら雲雀が戻ってきた。出て行った時と同じ、黒いスラックスに白いシャツだが、多分着替えているのだろう。妙にかちりとした印象が薄れて、少しだけ柔らかい印象になっている。雲雀が近付くと、ふわりと石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。至近距離で手を伸ばし、私の手元からペットボトルを奪うと雲雀は残りの水を一気に飲み干した。あ、と溢れた声を敏感に拾い上げて、雲雀がついと視線を上げる。
「……まだ飲みたかった?」
「嗚呼……いえ、大丈夫です」
「そう。……ねぇ、怖い?」
 雲雀は距離を詰めてそう言った。空になったペットボトルは、いつの間にかしなやかな指先でやけに丁寧に押し潰されている。がこん、と、後ろ手に放り投げられたそれが宙を舞ってゴミ箱に飛び込んだ。雲雀の瞳が蛍光灯を反射してきらきらと宝石みたいに輝いている。
「……ちょっとだけ」
 素直に答えると、雲雀は少しだけ口角を釣り上げて指の長い手を私の腰に添えた。温度の低い手のひらは風呂上がりの所為か人並まで体温が引き上げられていて、少しだけ調子が狂う。何となく、雲雀も人間なんだなぁ、と思った。何の情緒も感動も無く、互いの唇が重なった。初めてのキスはレモンの味、なんて奇妙な俗説もあったけれど、私と雲雀のキスに味なんて無かった。壁に背を預ける私の方へと身体を傾けて、雲雀は私の顔の横へと腕を付く。触れるだけの静かなキスがしばらく続いたが、その内緩やかに角度を変え、薄く開いた私の咥内へと温い舌が入り込んでくる。やり方なんて分からないから、応える動きは少しだけぎこちない。気持ちいいかと聞かれたら、まだ良く分からないけれど、でも、想像以上にどきどきした。近付いた雲雀の身体は細いのに大きくて、こうして重なれば私の体躯を覆い隠してしまうことに今更気付く。直接脳裏に反響する水音は奇妙に身体の芯を駆り立てて、思わず雲雀の身体に縋り付いて自ら身体を擦り合わせより深く強く、求めた。私の挙動が意外だったのか、黙って口付けていた雲雀が一瞬身体を揺らす。数拍遅れて、壁から腕を離し両腕で私の身体を確りと掻き抱いた。咥内を荒らす舌が歯列をなぞって唾液を混ぜ込み、絡め取られた舌同士が擦れて水音が跳ねる。これが気持ちいいってことなのかな、とぼろぼろと熱で崩れていく頭でぼんやりと思考した。

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