長い時間口付けを続けているように思えたが、実際のところ何分続いていたかは分からない。不意に、雲雀は唇を離してゆっくりと身を引く。互いの唇を繋ぐ銀色の糸がぷつりと切れて思い出したように静寂が飛び込んできた。肩を揺らして無くした酸素を取り込んでいる内に、はぁ、と濡れた呼吸を一つ零して雲雀が身体を離す。
「来て」
 水気を含んだような、でもやっぱり硬質なような、その境を揺蕩う不思議な声で小さく零し、半ば強引に私の手を掴んで引っ張る。促されるままにぴんと伸びた背中を追いかけた。

 開かれた扉の先は寝室だった。雲雀のものだとは思うけれど、ここもやはり生活感が欠けている。清涼な匂い、と言えば聞こえのいい、無味無臭の香りがした。掴まれた手がくいと引かれて、思いの外丁寧に一人分としては十分な広さを保つベッドへと投げ出される。柔らかな力に逆らわず、私は背中からベッドに崩れ落ちた。スプリングを軋ませて、雲雀がシーツの上へと膝を付く。射抜くような鮮烈な瞳が目に痛い。未だ凍り付いたような、でも、その芯が徐々に溶かされていっているような、そんな視線を見て、微細な恐怖心はすっかり消え去ってしまった。あ、雲雀の匂いがする。頭を沈ませた枕からふわりと浮かんだ香りに何と無く緊張がほぐれる。雲雀はそのまま片手を伸ばして私の頬をそっとなぞり、乗り掛かるようにして再び唇を重ねた。今度は最初から深く、舌を絡ませて遠慮無しに水音を立てる。また脳髄が溶かされていくような感覚を覚えて、そっと雲雀のシャツを握り締める。空いた片手が首筋を辿って身体の線をなぞり、時折服越しに突き出した肋骨の隙間に爪を引っ掛けた。近過ぎて表情までは分からないけれど、何と無く、雲雀は遊んでいるようにも見える。散々人を人体模型呼ばわりした男だ、直接触れた骨っぽい身体を面白がって触っていても不思議では無い。骨を弄る手はしばらく悪戯に動いていたが、その内満足したのかするりと猫の尻尾の様に離れて今度はシャツの隙間へと差し込まれる。直接肌に触れた指先に私は一瞬だけ肩が揺れたが、雲雀は気にせずに愛撫とも呼べない触れ合いを続けた。
 雲雀恭弥という人間が他人に抱かせる印象と比べれば、随分と優しい手付きだったと思う。でも一般的な男と比べれば、随分と力加減が下手糞だった。一応、彼も自分自身の腕力や握力が常人を遥かに超えているのを自覚しているのだろう。力を抜きすぎて、まるで羽毛のような軽さだった。確かに普段の調子で力をかけられれば、碌な栄養も取っていない私の身体は踏み潰されたミルフィーユみたいに簡単に押し潰されるだろう。武器を振るうだけでコンクリートの壁を粉砕出来る男だ、脆い骨を砕くなんて鉛筆を折るより容易いに違いない。でも雲雀は、それをしない。万一の可能性であってもそれをしてしまわないように、細心の注意を払って私に触れている。不意に、雲雀が私に言った言葉を思い出した。

「……どういう感覚なんだろうね」
「気持ちいいのは分かる、何せ三大欲求だ、心地よくなくちゃ種として存続できない。でも、そうやって本能に呑まれる感覚って楽しいのかな」

 こんなにも力を抜いていたら、彼が確かめたがっていた本能に呑まれる感覚だなんて味わえないのではないだろうか。呑まれるどころか、今の雲雀は平常時よりよほど理性的だ。だからといって、私にはどうすることも出来ないのだけれど。どうせ彼ほどの猛者になったら健康体の女子だって気遣わなければならない程度は似たようなものだろう。それなら、むしろ、いい思いをするのは私だけになってしまうのではないだろうか。
「……あのさ」
 呆れたような、やや不満気な、記憶にない珍しい声が頭上から降り注いだところで、私ははっと我に返った。
「あ、はい……?」
「こういうときに考え事に没頭するの、止めてくれない」
「……すみません?」
 一瞬意味が分からなかったが、数秒遅れてようやく意図を解した。嗚呼、そうだ、あんまりにも平気そうな顔で触れるから、忘れていた。私だけじゃなくて、雲雀も初めてなのだ。興味があると言っても感覚が気になるという類の興味しか持たない男が、わざわざ普通の中学生みたいにそういう本や動画を積極的に見て勉強したりするだろうか。多分、答えは否だ。いや、もしかしたら見ているのかも知れないけれど、それはあんまり想像が付かない。何もかもが初めてなのに、当の相手が心ここにあらずで考え事をしていたら今やっていることが正しいのかすら分からないだろう。身体を這っていた低温の手のひらがするりと離れてサイズの合っていない彼のシャツへとかかる。ボタンを外そうと動く指先がこつりと浮き出た鎖骨にぶつかって、彼が少しだけ眉を顰めた。
「本当に人体模型だね、凄い骨」
「はぁ、すみません……でもほら、デブよりはマシかな、と」
「痩せすぎも問題だって君で実感したよ、女子って大体例外無く脆そうだけど、君は殊更」
 無造作にボタンの外されたシャツが開かれて、彼の言う通り骨の浮き出た身体が空気に晒された。明日の為に全部雲雀に預けてしまっているから、下着も無く素肌そのままだ。雲雀はじっと私の身体を見下ろしてぺたりと肋骨に手のひらを置く。これから抱くっていう女の身体を見て、最初に興味を示すのが肋骨ってどういう思考回路なんだろう。この人、本当に私に欲情してくれるんだろうか、なんて不安が一瞬過ぎった。
「……」
「……、…あの、真顔でただ触られてると、何か不安なんですが」
「僕もさっきそんな気持ちだったよ」
「すみません」
「何か、変な感じ」
「……何がです?」
「何で僕、今、君とこんなことしてるんだろうね」
「喧嘩売ってますか。貴方が誘ったんでしょう」
「そうなんだけどね、でも、君と僕は何か関係がある訳じゃない」
 雲雀の言葉に何か言い返そうとして、でも何も思い付かなくて、私は黙った。確かにそうだ、雲雀とは極稀に話をするだけで、何か関係があった訳じゃない。互いの顔と名前は認識しているけれど、友人でも、ましてや恋人でもない。私達は一体何なんだろう。

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