革命を失ったヒロイン

腹に突き刺さった刃は、痛くはなく、ただ熱いだけだった。
これが彼の恨みならば、これだけ熱いのも頷ける。彼が抱えていた強い想い。執着。彼の未来のために、幸福のために、すべて自分が受け止めようと、神楽は血に濡れた手を、愛した男の左胸に当てた。


「神楽・・・さん・・・。」


ああ、良かった。
いつもの優しいあなたの瞳。呪縛から解き放たれたのなら、わたくしの愚行も誉れとして誇りに思える。


「なぜ・・・、なぜこんな真似を・・・!私は・・・っ!」


なぜ、あなたが泣くのですか。
わたくしは辛くもない。もう苦しくもない。

肉体という小さな軛から、他ならぬあなたが解き放ってくれたのだから。

お慕いしていました。
もうずっと、出逢った時から。

美しく、誇り高く、孤独なあなたを。

あなたに出逢い、あなたのために死ぬことができる。過ちだけの生涯を、あなたのおかげで、わたくしは誇って死んでいける。

あなた‐‐‐

愛しい、あなた‐‐‐

どうか泣かないで。
幸せになって。

出逢ったあの頃のような、優しい笑顔でいて。

愛したあなたの、ままでいて。


「・・・さ・・・きょ・・・」

「神楽さ・・・」

「あ・・・い、して・・・ま・・・」

「神楽・・・っ!」


ああ、最後の最後に、愛するあなたの腕の中で死ねるなら、思い残すことはない。

それくらいわたくしは、あなたを愛していました。

わたくしは極楽へ逝くことは出来ない。それだけの罪を犯してきた。
もしかしたら、あなたもそうかもしれない。あなたの罪もまた、隠しきれない。だからせめて、どうか‐‐‐


「・・・い・・・き、て・・・」


生きて、善行を積み、その罪が和らぐように。
それでもあなたが地獄に逝かねばならない運命ならば、わたくしがあなたの分まで罪を背負おう。

愛しい、あなた‐‐‐

一年にも満たない、短い数ヶ月でした。

でも、何よりも幸せな日々でした。

どうか生きて、幸せになって。

わたくしの大好きな笑顔で、笑っていて。


「神楽・・・っ、神楽・・・私を置いて逝かないでくれ・・・っ!」


ああ、あなた‐‐‐

どうか、笑って‐‐‐


『死んだか。』


闇の中で、誰かが言った。


『まあ良い。・・・魂さえ手に入るならば、構わぬ。』


喉の奥で笑い、冷たい声がまとわりつくと、身体が急激に重くなり、一気に体温が奪われていった。死んだはずなのに息苦しい。ここが地獄か、と霞む視界を瞬くと、闇の中に鎌を携えた男がいた。


『・・・迎えに来たぞ、我が花嫁よ。』


花嫁、という意味が分からず身を捩るが、思うように動けない。氷に浸けたように冷たい指が、愛しむようにそっと頬を撫でる。身の毛もよだつ、という言葉がこれほどしっくりくることはないだろう。全身が総毛立ち、肌が痺れる。
いや、と声にならない声で叫んだが、男は優美な唇を三日月の形に歪めた。


『死に近い娘よ。そなたはもう遥か昔から、我のもの。・・・共に常世に参ろうぞ。』


男の手が背に回ると、意識の端々から凄まじい速さで闇に塗り替えられていく。食い潰されていく記憶。溶けていく自我。恐怖に涙が滲み、はくはくと口を開いた。その時‐‐‐


『‐‐‐‐っ!?』


男が弾かれたように後方へと滑る。侵食が止み、胸元が熱くなって、薄く目を開くと袷の部分が眩い光を放っていた。
光はますます輝きを強め、袷から抜け出る。それは死の際に胸元に入れていた、天下五剣が一振り、日蓮聖人の護り刀であった数珠丸恒次であった。

光が闇の中で霧散すると、一人の男が姿を現す。柔らかそうな癖のある長い髪。細身の長身で、真っ白な肌の、類い稀な美しさを持った彼は、閉じられた瞼を神楽へ向けた。


『貴様・・・我の邪魔をするか。その娘は幼き頃より我の花嫁であるぞ。』

『・・・この娘は、私が貰い受けます。』


穏やかな、けれど反論を許さない凛とした声だった。その痩躯からひしひしと発せられる清廉な威圧感もさることながら、開いていない瞼から感じる視線さえ神秘的で、彼の長い腕が引き寄せても先程のような嫌悪感はなかった。


『去りなさい、マレビトよ。この娘の魂は、私が隠すと決めたもの。常世との繋がりはいずれ消えるでしょう。』


マレ、ビト?
何だか聞いた覚えがある。けれど、思い出せない。

ぼうっと考えていると、マレビトと呼ばれた男と、神楽を抱く男の間に光が三つ現れる。それは天下五剣に数えられるうちの三振り。マレビトは激しい憎悪を浮かべて、神楽を抱く男を睨み付けた。


『五剣のうち四振りが揃った以上、あなたは常世に帰らざるを得ない。・・・あるべき世界へ帰りなさい。』

暗闇の中に亀裂が入り、真っ赤に染まった空や雲、大地が見える。マレビトはその中に吸い込まれながら、それでも男を睨み、神楽を見つめた。


『貴様ら五剣がいかに揃おうとも、その娘は常世に魅入られている。・・・その娘は、マレビトのものだ。』


すう、と長い人差し指が、神楽を捉える。


『その娘には、マレビトの徴がある。けして常世からは逃れ得ぬ。』


喉をひきつらせて笑う声が、鼓膜の奥で反響した。


『・・・今暫く、預けよう。だがその娘は、我の花嫁だ。』


勝ちを確信した笑みを浮かべ、マレビトは闇の中の亀裂に消えた。完全に閉じきってしまうと、三つの光が神楽と男を囲み、男の長い指が額に触れた。

あなたは、誰?と頭の中に浮かべる。すると男は、悲しげに笑った。


『・・・私は、あなたをずっと見ていました。』


わたくしを?なぜ?
あなたのことを、わたくしは知らないのに。


『・・・憐れな人の子よ。あなたの苦しみは、もう終わったのです。』


苦しみ?
憐れ?

何の、ことだろう。
頭が痺れて、よく分からない。

けれど、この腕の中はとても落ち着く。初めて会う人のはずなのに。


『・・・今は眠りなさい。私がずっと、あなたを守りましょう。』


ああ、聞こえてくる。

たくさんの、声。

哀れ。

憐れ。

あわれ。

アワレ。

わたくしを憐れむ、沢山の声。

なぜ?
なぜみんなそんなに悲しそうな声を出すの?
なぜわたくしを憐れむの?


『・・・憐れな子よ。今度こそ、あなたを幸せにしましょう・・・。』


わたくしは、幸せ、だったわ。



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