君を絶対に裏切らない声

「────非術師が猿に見える、かぁ」


お洒落なカフェで、時雨さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
私と傑はその表情に申し訳ないと思いつつも頷く。
時雨さんが大事な話をしたい時に使うというカフェは、落ち着いた音楽とマスターが微かに立てる食器を拭く音しか聴こえない。既に人払いをしてあるのか、客は私達しか居なかった。
そんな室内で、時雨さんがゆっくりと口を開いた


「夏油くんは確か、一般出身だったよな?」


「はい」


「うん、そこが一番ネックになってるのかな。テディちゃんはその点特殊だしなぁ…でもまぁ、君は夏油くん寄りの感性だし、俺の話を聞いて損はないと思うよ」


『はーい』


返事をした私達に一つ頷いて、時雨さんがゆっくりと口を開いた


「先ず、夏油くんに質問だ。呪術師が護るべきものとは何だと思う?」


「……非術師、ですよね?」


「まぁ、それもある。テディちゃんは?」


『自分の命です』


そう返した瞬間、傑に二度見された。
切れ長の目を丸くする傑とは対照的に、時雨さんがくしゃりとした笑みを浮かべて私の頭を撫でた


「大正解!流石ボス、ちゃんとあの後も優先順位の定着をやったもんだ。
良く言えたなテディちゃん。そう、呪術師にとって、一番大事なのはそれだよ」


『ふふ、時雨さんと悟が教えてくれましたから』


「え?刹那が猿じゃなくて自分の命を最優先出来る様になったの…??お赤飯…???」


『ママがバグったwwwwwwwwwwwww』


呆然とした表情でそんな事を言う傑に爆笑すれば、時雨さんが微笑ましいものを見る目を此方に向けていた。
やっぱりこの人はいい人。悟が言うには今もちょこちょこ呪詛師側と悪い話をして色んな情報を集めているみたいだけど、基本的に面倒見の良い人である。


「夏油くん、呪術師が最優先して護るべきは、自分の命だ。
だって非術師は山程居るけど、君達呪術師は少ししか居ないんだから」


「…ですが、非術師の彼等にも、家族は居ますよね?
私達が身を削って護れば、その家族の安寧は護られる。……私達が、我慢すれば」


傑が目を伏せ、呻く様な声でそう吐き出した。
そう。私達が痛みを我慢すれば、きっともっと知らない人達を助けられるかも知れない。
私達が痛みを知覚する事もしなくなれば、もしかしたら呪霊で死ぬ人の桁すらも減らせるかも知れない。
……でもそれで、私達はちゃんと生きていけるんだろうか。
生きていると、言えるんだろうか。


「一方的な我慢なんて、何時か限界を迎えるよ。
例えば君が、非術師を最優先に護ろうとして、不満も痛みも全部我慢したとする。
非術師の産み落とす悪意を呑み込んで、呪霊に襲われる非術師を救って。
ずっとずっと、我慢して助け続けたとする」


す、と太い指が宙でくるくると円を描いた


「最初はきっと上手くいくだろう。だって君は特級だ。実力も判断力も忍耐力もある。
……でもね。我慢して、ずっとずっと溜め込んできた君の負の感情は、最終的には何処に行くと思う?」


「………呪霊に、向かうのでは?」


傑の返事に、時雨さんは緩く首を振った。


「────ずっとずっと溜め込んで、ヘドロみたいになった君の負の感情は、きっと非術師に向かうよ。
真面目な君の事だ、何処かでプツンといって、テディちゃんやボスとは違う道を進んでしまうかも知れない」


「な…っ!!」


『……それって、傑が』


────傑が、呪詛師になるって事?
声に出せず、口を開けては閉じる私の頭を撫でて、時雨さんが鋭い目を傑に向けた。


「これは一般出身の術師に多いんだけどな、言っておくよ。


呪術師は、ヒーローじゃないんだ。


助けてやった誰かが必ずしも君達に感謝をする訳じゃない。国から援助されている事や黙認されている部分はあれど、呪術師という存在が国民に知られている訳じゃない。
そして君達も、必ずしも彼等を救える訳じゃない。
だって、呪霊が何処に出るかなんて100%判る訳じゃないんだ。
君達はどうしたって後手に回らざるを得ないし、慌てて向かった先で、全て終わっていたって可笑しくない。


だって君達は、助けを求めて貰えないと彼等を救う事は出来ない。


況してや君達はまだ学生だ。動ける範囲は通常の呪術師よりも狭い。
それにそうやって助けを求められたって、その場に間に合ったって、必ず全ての命を掬い上げる事が出来るとも限らない。


もう一度言うぞ。
────君達は、ヒーローじゃないんだ」


……それはきっと、元々刑事だったという時雨さんだからこそ言える言葉だった。


「誰にも全ては助けられない。
どんなに凄い術式を持つ君達でも、今この瞬間に何処かで呪霊に襲われる非術師を救う事は出来ないのと同じだ。
全ての命を救うなんて神様みたいな事は、君達にも、そして五条の至宝と崇められるボスにも出来ない。
犠牲もなく皆を助けられるのは、映画のヒーローだけだよ。現実じゃあもっと呪霊は残忍で、呪詛師は狡猾だ。
ヒーローが誰何する間に呪詛師は人質を見せしめに殺すし、なんなら彼等が駆け付ける間に呪霊の腕の一振りで巻き込まれた非術師は死ぬ。
きっと映画のヒーローが此方に来たら、あっという間に心を病むだろうさ。
…非術師が猿に見えるのは、きっと夏油くんの中の“呪術師は非術師を護るべき”って考えている部分が限界だって叫んでるサインだと、俺は思うな」


そこまで言って、時雨さんはコーヒーカップに手を伸ばした。
口を付けて、ゆっくりとソーサーに白いカップが戻される。
それからもう一度、口が動いた


「神様でもあるだろう?
人に信仰されて、それに応えて力を貸してきたのに、何時しか人から恐れられ、人に愛想を尽かした神が人を殺してしまう話。
………今の夏油くんは、そう見えるよ」


「………孔さんは、私が非術師を殺すと思いますか?」


静かな問いだった。
息を呑む私の頭を撫でながら、時雨さんは柔らかく微笑んだ


「ああ。何処までも真っ直ぐな人間ってのは、心に爆弾を抱えやすい。
君の場合はきっと、その非術師を護るべきっていうのがトリガーになるだろう。
案外非術師の汚い部分を見て、ドーン!とか有り得そうだぞ?」


『時雨さん……嘘でしょ…?傑、非術師殺しちゃうの…?』


────嫌だ。
傑がそんな事をするなら、傑をそこまで追い詰めるなら、非術師なんか。
非術師に護る価値、なんて。
開いた私の口に、時雨さんのお皿に盛られていたクッキーが放り込まれた。
何も言えず咀嚼を始めた私に、彼はにこにこと笑う


「うん、偉いぞテディちゃん。ちゃんと食べ終わったら話そうな」


……待って?それは雪光くんと同じ扱いでは???
一瞬で眼が死んだであろう私を放置して、時雨さんは真っ直ぐに昏い目をした傑を見つめた


「肝心なのは、恐らく君が非術師を殺しても心の軸はブレないだろうってトコだ」


「……軸、ですか?」


「そう。今の君は非術師を護らなきゃいけないから、護る。
でも非術師を殺すだろう夏油くんは、きっと」


コーヒーの湯気が、ふつりと消えた


「────非術師の所為で殺される呪術師を護りたいから、非術師を殺す」

















窓を雨粒が静かに叩き出した。
濡れていく窓ガラスを眺めながら、時雨さんは言う


「要は君の中の優先順位の問題だな。
今まで非術師を護るものとして認識していた夏油くんが、仲間を護る為に非術師の優先順位を下げる。
それによって君の中のトリガーが引かれて、負の感情が爆発する。
……まぁ推測だが、なかなか有り得そうで怖いな。ははは」


全然笑い事じゃない。
涙目の私は鉄扇から呼び出したさとるっちに顔を埋めていた。


〈せつなっち ダイジョウブ?〉


『だいじょうぶ……』


ぎゅうっと抱き締められているさとるっちが、尻尾で私の頭を抱え込んでくれた。優しい。悟みたい。


「………私がそうならない為には。猿をもう一度人として見る為には、どうすれば良いですか?」


傑の問いに、時雨さんが冷めてしまった黒い湖面に目を落とした。


「…夏油くんは、御両親は健在か?」


「はい。二人共元気です」


「御両親の事はどう思ってる?」


「…彼等は非術師です。それでも、彼等には見えないものに怯える私を疎む事なく愛してくれた、大事な人だと」


「そうか、それは良い」


時雨さんは優しく笑って、涙目の私の頭を撫でた


「もし君が非術師を猿だとしか思えなくなって、猿を殺してしまったとしよう。
そうしたら、真面目な君は、君の御両親だけを見逃すなんて出来ると思うか?」


「っ……!!両親を殺すなんて…!!!」


「それは君が正常だからだよ。振り切れてない状況だからだ。
でも優先順位が変わってしまえば、君はきっと自分の親だからなんて理由で両親を見逃す事は出来ないだろう」


『時雨さん!これ以上は…!!』


「黙ってろテディちゃん。
夏油くん、ちゃんと想像するんだ。
君が、御両親を呪霊で殺すとする。
目の前で死んでいく御両親は────部屋の隅に立つ君を見て、何と言うと思う?
恨み言?それとも悲鳴?…違うだろ?愛された君になら、判る筈だ」


傑は何時も、家族の話をする時に優しい顔をしていた。
そんな彼が家族を殺す光景を想像しなきゃいけないなんて、あんまりだ。


……“家族”を殺すとしたら、きっと私なのに。


勝手に溢れる涙を悲しそうな声を出すさとるっちが拭ってくれる。
ぎゅっと白猫にしがみついた時、震える声が、空気に溶けた


「……両親は…………両親はきっと…わたしににげろと、いいます……」


さとるっちからそっと顔を上げる。


……傑が、泣いていた。


堪えきれないとばかりに表情を歪めて、静かにぽたぽたと涙を流していた。
声もなく涙する傑に、時雨さんがふわりと笑って頭を撫でる


「そう。親なら、大事な子を逃がす事を考えるよ。例え自分が死んでも、愛する子には生きていて欲しいと願う。
…じゃあ、此処までちゃんと考えられた夏油くんに最後の質問だ。
君は────御両親の愛情をしっかりと理解出来ている君は、呪術師を護る為に、非術師を、御両親を殺そうと思うかな?」


「………むりです。わたしには、できない…!!!」


絞り出す様な答えに、時雨さんは満足そうに笑った


「…そう、良かった。それが留まる為の楔になるよ」


















「俺が思うに、別に非術師を猿として見たって大した弊害はないと思うんだよ。
だってほら、君達の傍にそれを実践してる奴が居るだろ?」


鼻をずびずび言わせながら、私と傑は目を合わせた。
考えるまでもなく頷いて、名前を口にする


「『悟』」


「大正解。まぁボスの場合は高専まで教育機関に預けてもらえなかったっていう呪術師特有の事情と、本人の白黒付けたがる性格が見事にジョグレス進化した結果だけどな」


「え、孔さんデジモン知ってるんですか?」


「最近雪光くんが観てるんだよ。確か、恵も観てるぞ。ボスがチビ達に布教してるから。
そういやこの間、禪院の所の次期当主も混ざってたな」


『あー…』


〈ムジルシ ハ カミ!〉


「直哉も混ざってるんだ…いや伏黒先生も禪院だけど、その辺りにゴタゴタとかないんですか?」


「何か直哉くんは伏黒に憧れてるみたいでな、体術なんかも教えて貰って、伏黒の後ろ付いて回ってるらしいよ。
あの子もまぁ特殊な育ちだからな、家に来た時は津美紀や恵と一緒に教育テレビとか絵本見てるんだと。
時間が合えば慣れないなりに雪光くんの相手もしてくれるから、助かってるよ」


悟が零歳児を脱却したと思ったら、新たな赤ちゃんがやって来た。
見事に伏黒家でお世話になっているらしい直哉に苦笑いしつつ、膝の上のさとるっちを撫でる


「人を猿なんて扱いをするのはさ、勿論一般的には悪い事だ。それが二人は常識として刷り込まれているから、そういう判断をしづらい。まぁそんな判断を無理にする必要もないんだが」


「でも、悟は何と言うか、その辺りとても自由に見えます」


「と言うと?」


時雨さんの問いに、傑は新しく貰ったコーヒーに目を落とした。


「…悟的には宝物と、お気に入りと、猿というカテゴリーしかない様に思えます。
たった三つしかないけれど、逆に言うとこれ以上ないほど片付いている、というか」


「うん、普通は無理だよ。あれは俺も真似出来ないしな」


〈カタヅケ ジョウズ?〉


「そうだなぁ。うーん…これは俺の見た感じ、だけど」


未だぽつぽつと落ちてくる雨粒を眺める。
それから思案する様に目を伏せて、時雨さんは此方に顔を向けた。


「ボスはきっと、究極の効率重視派だよ。自分の中で一番に何を護るか、その順位をしっかり付けてる。
だから、ボスが言う猿は“護るつもりのない生命”の事。
勿論無為に死なせる気もないけど、率先して助けるつもりもない。
言い方は悪いが、路端の石ってヤツかね」


「路端の石」


「そ。例えばボスの100m先で、テディちゃんが今まさに殺されそうになっていたとする。
でもボスの直ぐ傍では赤ん坊が車に轢かれそうになっている。
…さて問題です。ボスはどちらを助けるでしょう?」


傑が無言で顔を覆った。私は声もなく頭を抱えた。答えられない私達の代わりに、さとるっちが声を張る


〈せつなっち!〉


「はい、正解。
君達はボスの宝物だ。だから、どんな状況になってもボスは必ず君達を優先する。
産まれたばかりの無垢な命であっても、ボスにとっては有象無象の猿なんだよ」


『それって、言葉にするとなかなか惨いのでは………?』


誰だって赤ちゃんを助けろよと思う筈だ。私もそう思った。
でも判るのだ。理解出来てしまうのだ。
……悟が直ぐ傍で車に轢かれそうになっている赤ちゃんに目を向ける事すらなく、此方に手を伸ばすであろう光景を。
動かなくなった私達に、笑いを交えた時雨さんの声が降ってくる


「でも、これは何よりの真理だよ。
ボスは見ず知らずの他人じゃなくて、大事な君を迷わず選んだ。
……これを一般的には冷酷だとか、酷いとか言うかもしれないが。
ボスは、己に素直に生きてるってだけなんだよ。
勿論それだけじゃ生きていけないし、赤ん坊の家族に見殺しにした事に関して許しを乞う訳でもない。
ただ────君達が呪術師である以上、どうしたって命の選択を強いられる時が来る。
その時に天秤に掛けられた命を選ぶ事を、怖れちゃいけない」





















「────良いかい、二人共。
これから先、非術師からどうしても許せない事をされたり、見たりしてしまったら。


その時は、君達の大事な人を頭に思い浮かべるんだ。


私はこいつらのこの行為がとっても嫌で、殺してやりたいぐらいなんだけど皆はどう思う?って、君達の大事な人に聞きなさい。
そうしたらきっと、君達の大事な人が、どうすれば良いか教えてくれるよ」


「……聞いてみたら私の両親と刹那が泣きました」


『えっ』


「ははは、じゃあ殺しはナシだな!
それならボスに仕返しの方法を聞くと良い。きっと夏油くんがスカッとする仕返しを考えてくれるさ」


途中で降ってきた雨も止み、雨上がりの少し湿気を帯びた空気の中を三人で歩く。
隣を歩く傑は目が赤いもののすっきりとした表情で、そっと胸を撫で下ろす。
最初こそどうしようと思ったが、やはり時雨さんに相談して正解だった。


『時雨さんに相談して良かったです。このまま高専のカウンセラーになったりしません?』


「俺がカウンセラー?ないない、向いてねぇよ。俺の話がすんなり君達に入ったのは、ボスが元々呪術師のスタンスを君達に話してあったからだし」


「でも私の悩みが軽くなったのは確かですし、向いてますよ」


「やめて。俺今子育てしてるの。ボスの補佐に子育てに高専のカウンセラーまでやったら過労死しちゃう」


『wwwwwwwwwwwwwwwwww』


「wwwwwwwwwwwwwwwwww」


疲れた様子の時雨さんに傑と顔を見合せ、笑う。
けらけらと笑う私達を見て、安心した様に時雨さんも笑った











迷うなら心の声に従いなさい











刹那→カウンセリングを受けた。
夏油よりは軽度だったものの、此方もそれなりに病みそうだった。
この度夏油離反ルートを完全に脱したが、イベントにはママと参加予定。
五条が赤ちゃんに目もくれず此方に術式を放つのが簡単に想像出来て遠い目をした。
“家族”は自分の命より子供の命を優先するのかぁ……とちょっと傷心。

夏油→カウンセリングを受けた。
地味に度々非術師の言葉が聞き取れなくなっていたりした重度の病み患者。
非術師を猿だと思うのは悪い事じゃないと肯定され、許せなくなった時の対処法を授けられた事でメンタル回復。
この度無事離反ルートから完全に脱した。
イベントには娘と参加予定。楽しみだね。
五条が赤ちゃんを無視して刹那を助けるのを考えるまでもなく察して顔を覆った。

時雨→カウンセリングした。
夏油の悩みは一般出身者に割とある“呪術師ヒーロー視”と“優先順位の確立”が関わっていると考え、説いた人。
カウンセラーに向いている優しいおじさん。この度夏油の駆け込み寺になった。
これから悩みを抱えたさすせがちょいちょいメールだったり押し掛けたりするかも。
競馬好きもサボりに来る。
でも結局全部面倒見ちゃう人の良い元呪詛師仲介役。

さとるっち→万能猫。

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