馬酔木(一知半解篇)

※特殊設定あり
※「馬酔木」の続篇
※罰当たりです。そういう行為に嫌悪感を抱く方は直ぐにお戻り下さい








目を開けたらベッドに横たわっていて。
枕が妙に温くて硬くて。
目の前は黒い布で。
のし、と腰の辺りに重たいものが乗ってきたら。


A.通報


『誰かー!!!助けてー!!!!』


「うるさっ!…誰も来ないよ?帳に防音機能付与してるし」


『は???』


「おはよう刹那。全然変わってなくて安心したよ」


甘さを含んだテノールと共に、黒が少し距離を開けた。
黒い何かの全貌を捉え、言葉を失う。
黒のマウンテンパーカーに、白銀の髪。
空と海を溶かし込んだ、光を乱反射する蒼い瞳。


『……五条、悟…?』


「はーい♡」


にこにこしている男の首もとを指で探る。
くっきりと筋の浮かぶ首に引っ掛かる布の感触に気付き、絶望した。


「きゃっ!やっと会えた男の首もとまさぐるなんて、刹那ったらダイターン♡」


『二十八歳児じゃん…』


「あ?????」


嘘でしょ、原作じゃん。
こいつ、夏油傑を殺したんだろうか。…いや、そこに私が罪悪感を抱く必要はない。
だって私は、夏油の離反を悟に伝えていなかった。


……悟が夏油傑を殺していても、それは私に関係無い。
それは悟の決断なのだから。


目を逸らした私に何を言うでもなく、悟はゆっくりと、指を絡ませた。
骨張った長い指が、指の側面を愛でる様になぞりながら根元まで下っていく。


「ねぇ、刹那」


『なに?』


長い中指が、私の中指と薬指を擦りながら降りていく。
ぐっと指の間に太い指が二本差し込まれ、窮屈な感じがする


「僕ね、ずっとオマエに会いたかったよ」


『……私も、会ってみたかったよ』


薬指と小指の間に、ゆっくりと薬指が差し込まれていく。
大きな手にすっぽりと包まれ、指の間から顔を出す私の指は、とてもちっぽけだ。
完璧な造形美の顔が、直ぐ傍まで寄せられる。
鼻先が触れ合う距離まで顔を近付けると、悟はゆるりと微笑んだ。


「どうして会えたのか判らないけど、この奇跡に感謝するよ」


それはまるで、神の宣言の様に。
そして漸く逢瀬の叶った恋人の様に。
甘くて低い声が、私の鼓膜を通して身体の奥に落とされた。


────何処かで、パズルのピースに手が掛けられた。


これが、一日目・・・
悲劇が確実に、この時始まっていた事を────しかしこの時の私は知らない。
















一日目 夜


取り敢えず、悟をどう匿うか。
目下の悩みはそれだった。
私の家族は父と母、六歳下の弟、それから今年三歳になる妹の五人家族だ。
犬猫なら兎も角、成人男性を匿うとなれば大分話が変わってくる。


『先ずは見に行くしかないか』


何はともあれ、家族の様子を窺い、そしてこの後の行動を考えるべきだろう。
妹はきっと寝ている。父はビールを飲んでいたし、母も日付が変わる頃には寝室に向かう筈だ。弟は…反抗期だしな。何時に寝るかは知らないけど、鉢合わせなきゃ大丈夫。
ご飯は何が残っていたっけ。あとは悟にお風呂に入るか聞いて、ああでも着る物…父親のじゃ絶対無理だし…
これからの事を考えて、早速溜め息を吐いていると、悟が明るい声で問い掛けてきた


「刹那?どったの?」


『なんであんたそんな呑気なの…?』


190cmオーバーらしい男は、現在私のベッドに身を横たえ、呪術廻戦を読んでいた。
いや危機感。そして何でそんなに寛げるのか。
あんた最強でしょ?早く帰らなきゃ世界が終わるよ?
ぱちくりと不思議そうに此方を眺め、それから悟は私の視線の含むものに気付いたのか、にぱっと笑った


「あ、判った!お腹空いたの?ごめんね、僕食べ物持ってないんだよね」


『そうじゃないんだよなぁ』


「ん?じゃあ僕のスリーサイズとか?きゃっ、もう刹那ったら大胆…♡
こういうのはさ、もっとじっくり距離を詰めていくモンだよ?
幾ら若くて青いからって、焦っちゃだーめ♡」


『すごい、ぜんっぜん話聞かない上に無性に腹が立つ』


殴って良いかな。え?普段からコレと過ごすとか胃に穴開かない?無理じゃない?血管切れない?
虎杖達凄いな?日頃ストレス過多なのに健康体とか奇跡じゃない?
身を起こし、クソでかい手で頬を挟んでくねくねしやがる二十八歳児をチベスナ顔で見つめていれば、悟がぴたりと動きを止めた。
それからすっと己に向けて指を差す


「あ、今更なんだけどね?僕、封印されちゃいましたー!」


『は???』


「ごめんねー?折角刹那に画像付きで教えて貰ってたのにさ。回避出来なかったんだよねぇ」


『は???』


いやおまえ。おまえ、あれを私がどんな気持ちで送ったと……
確かにあれは悪ふざけみたいな気持ちもあった。けれど、悟がこれを欠片でも覚えていて、そして回避してくれればと。
そう思って、送ったのだ。
臆病者なりに出した、精一杯の勇気だったのだ。
それなのにおまえ…封印されちゃいましたー!っておまえ………


「前にさ、送ってくれたでしょ。四肢を封じられてやっと、刹那が言っていたのがコレなんだって気付いたよ。
あ、別に責めてる訳じゃないよ?
これは僕がマズっただけ。でもまぁ、大丈夫でしょ。
僕の生徒や仲間がきっと開けてくれるから」


……そうか、私が何をどうしようが、原作通りに世界は進むという事なのか。
それならば、悟と言葉を交わす事から逃げなくても良かったのだろうか。
変わらない事を知りながら、此方に流れ着く残酷な世界の様相を伝え続ければ良かったのだろうか。
何も言えなくなった私の上から影が落ちた。
そっと引き寄せられ、黒に優しく包まれる


「…ねぇ、刹那」


『なに?』


「さっき言ったでしょ。どうして会えたのか判らないけど、この奇跡に感謝するって」


包み込む様に腕が回る。
後頭部と背中に大きな手が触れて、耳許で、潜められた声が言葉を綴った


「それは本当だよ。だから、今は。
今は、やっと会えた事への喜びだけ感じて。
君が僕の封印に関して責任を負う必要なんかないんだ。


…あの日の最善は、アレしかなかった。


此方が後手に回ってる時点で、場所を渋谷に固定された時点で、内通者が此方側に潜り込んでる時点で、彼方が圧倒的に有利だった。


…全部消し飛ばしても良いならきっと勝てたさ。茈を撃てば良いんだし。


でもね、渋谷を更地にするって、閉じ込められた非術師ごと敵を殲滅するって決断が出来なかった時点で、僕の敗けは確定だったんだよ」


私を詰る権利を持つ男が、私の後悔を撫でて溶かそうとしている。
優しく諭す様な声音で、私を赦すと告げている。


…渋谷を消し飛ばすなんて案は、呪術師なんだから出なくて当たり前だ。


彼はまだ刻まれたばかりであろう傷を私の前で晒して、平気だと笑っているのだ。
…こういう、普段子供っぽい癖に、いざという時は頼りになる姿に惹かれたのだろうか。
そっと、大きな背中に腕を回す。
その動きを肯定するかの様に、柔らかな頬がすり、と側頭部に寄せられた


「後悔なんて要らないよ。それよりも、今は一緒に笑いたいんだ。
勿論、何時まで一緒に居られるかは判らないよ。僕は彼方に帰らなきゃいけないから。
それでも…ずるい僕の事、受け入れてくれる?」


『…ほんと狡いね。そう言われたら私が断れないって知ってるよね?』


「うん。ごめんね?」


溜め息を溢す私を、ずるい大人が笑っている。
遮るもののない蒼は、緩やかに細められていた。

















二日目 朝


『………………』


五条悟が朝から同じベッドで寝てるとか、どんなドッキリ?
人を抱き枕の様に抱え込んで眠る造形美EXに暫し言葉を失い、それからそっと抜け出そうと……抜け…抜け出し……


『………ん???』


くっそ力強いな五条悟?
眠ってるのに?なんでこんなしっかり私の肩と腰を固定しているの???
そーっと腰を痛くないのに万力みたいな力で拘束している腕を掴んだ。
ぐっと引っ張るが、微動だにしない。
なんで?あんた寝てるんじゃないの?寝ながら何をそんなに護ってるの?
まさか起きているのかと顔を見るが、目はしっかりと閉じられているし、うっすらと開かれた唇は無防備。


……え?つまり最強は寝ててもゴリラだった…?


モヤシゴリラとか一番厄介なタイプじゃん。ああ、でも今着てる黒のTシャツから出てる腕、細身だけど筋肉は十分ついてるな。縦に長いからムキムキに見えないだけで、実は筋肉質とか?でも細いよな…ああ、骨格とか筋肉の質の問題?
緩まる様子のない拘束に逃走を諦め、枕元に手を伸ばした。
スマホを起こし、時間を見る。
今日は月曜日、祝日じゃないから、学生には授業がある。


『悟、起きて。学校の準備するから』


「んー…僕今日は昼からじゃなかった…?」


『箱の中ならずっとお休みでしょ、退いて』


唸ってぎゅうっと抱き締めてきたデカブツを叩く。しかし起きない。
もう時間がないので、大変申し訳ないが蹴ってベッドから落とした。
因みに後悔したのは大きな音がしてから。
反対側に位置する家族の寝室まではなくとも、リビングには音が届いただろう。
やばい、これは朝から私が寝惚けた事にしなければ。


「ちょっと!?朝から蹴落とすなんて酷くない!?」


『酷くない。あ、部屋から出ないでね。家の人もう起きてるから』


ぎゃんぎゃん騒ぐ悟は放置だ。
さっさと部屋を出て、リビングに向かう。
そこから洗面台に向かおうとして────家の中が、妙に静かな事に気付いた。


……誰も、起きていない?


毎朝必ず開いているカーテンが、閉まっていた。
朝のニュースを流している筈のテレビも真っ暗。コーヒーメーカーも湯気を立てておらず、うるさい妹の声もしない。
それに苛立つ弟の声も、二人を叱る母の声もない。それを笑う父の声すらも。
…何だか妙に胸騒ぎがする。
けれど私はそれを、笑い飛ばした。


『……いやいや、全員寝坊とかびっくりなんだけど。
みんなー!早く起きなよー!!朝だよー!!』


リビングからそれぞれの寝室に向けて声を張り、洗面台に向かった。


数分後、再び訪れたリビングにやっぱり音はなくて。


『……父さん、母さん?優輝、優理?』


────これは、可笑しくない?


────いいや嘘だよ、有り得ない。


ゆっくりと、パステルカラーのラグを踏み締め進む。
リビングを抜けて、手前にある両親と優理の部屋に向かった。
扉の前で息を潜める。
物音はない。
寝ているだけだ、と自分に言い聞かせ、白い扉をノックした


『父さん、母さん、優理?朝だよ。遅刻するよ?』


…返事はない。
静かにドアノブに手を掛ける。
微かに震える手には気付いていないフリをして、ゆっくりと、ドアノブを回転させた。


『…父さん、母さん?優理?』


落ち着いた藍色のラグが敷かれた部屋。
カーテンは閉まったまま。
二人の仕事鞄はテーブルの上。
そしてダブルベッドに膨らみは……ない。


『………え?』


ばっと布団を剥ぎ取る。
そこには何もない。誰も居ないシーツが敷いてあるままで。
妹が大好きで離さないウサギのぬいぐるみだけが、何時もあの子が眠る位置でころりと転がった。


『優輝!優輝!?』


部屋を飛び出す。
向かいに位置する扉を乱暴に押し開けた。
普段なら、この様な暴挙を受けようものなら「ふざけんなクソ姉貴!!」とでも返してくる筈の弟。


しかし、罵声は何時まで経っても飛んでこなかった。


閉まったままのカーテン。
中途半端に出しっぱなしの椅子。
床に転がるゲーム機。
放置されたランドセル。
膨らみのない布団。


『……うそ』


嘘、嘘、嘘だ。
転びそうになりながら、玄関に向かう。


────靴。


そう、靴がなければきっと、皆何処かに行ってるんだと判る。
母さんは仕事の時はヒールの低い黒のパンプスだし、父さんは茶色の革靴だ。
弟は遊びに行くなら緑のスニーカーで、学校なら白い運動靴。
玄関まで辿り着き、靴箱を開ける。


────下から二段目、白い運動靴と、緑のスニーカー。


────一番上、茶色の革靴。


────下から三段目、ヒールの低い黒のパンプス。


『……うそ、うそでしょ…?』


……全部、ある。
他の靴を履いた訳じゃない。だって、全部綺麗に並んだままだ。
家に荒らされた様子はない。


ただ、人間だけが・・・・・存在を消してしまったかの様な家の中で、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。


「刹那?…どうしたの?んなトコに座り込んじゃって」


不意に、低い声が投げ掛けられた。
ゆっくりと顔を上げると、首の後ろを掻きながら悟が近付いてくる。
彼は剥き出しの六眼で此方を不思議そうに見つめたかと思えば、そっと私の前でしゃがみ込んだ。
真剣な顔で、窺う様に問われる


「……何があったか、言えるかい?」


『…わかんない。わかんないの』


何があったのか、それが判らないのだ。
目が覚めたら家族が居なくなっていた。理由も方法も判らない。
首を振る私の頭にぽん、と大きな手が乗せられる。
目が合った悟はふんわりと微笑んで、それからゆっくりと私の背中と膝裏に手を回し、抱き上げた


「女の子が冷たい床に座り込むモンじゃないよ。一旦リビングに行こうか。…ああ、それとも部屋が良い?」


『…リビングで大丈夫』


「わかった」


長い足が一歩を大きく、しかし抱き上げた私に揺れを伝えずに進んでいく。
リビングへの廊下を歩みながら、悟は私を安心させる様に微笑んだ


「大丈夫だよ、僕が居るからね」















「家が荒らされた様子はナシ。貴重品も全部家の中。でも気配はない。……んー、刹那、実は家族に捨てられるぐらい仲悪かったりする?」


『死ね』


ソファーの上で膝を抱える私を他所に、デリカシーの死んだ男は扉という扉を開けては閉めてを繰り返している。


「でもさぁ、人間が突然消えるなんて有り得ないだろ。呪霊の仕業なら勿論僕が気付くよ?でも残穢は見えなかった。
というか此方の世界に呪力の概念はないだろうから、余計に理由が判んないんだよね。呪力の有無以外、此方は僕の世界と変わらない訳だし」


向かいの戸棚を漁っていた悟が此方にやって来る。テーブルに置いたままのリモコンの電源を押して、私の頭をついでに撫でた。
そのままキッチンに入っていくのを見送って、何気無くテレビに目を向けた。
音もなく画面が点滅して、灰色一色になる。


「まぁ正直言うとさぁ、家族で一軒家を出ていくよりは、家族で刹那を捨てる方が現実的だよね。
広い家に女子高生一人置いていくってよりは、女子高生殺すなり売るなりして四人で住む方がよっぽど楽だし」


『デリカシーって知ってる?』


「心配しなくて良いよ。夜逃げなら家財類は全部持ってく筈だし、薬でも盛られてなきゃ普通は起きる。
君の家族は意図的じゃなくて、強制的に消えてるよ」


『そんなんだから嫌われるんだろ』


「え?刹那って僕の事嫌いなの?」


『今嫌いになりそう』


「好きなんだね?じゃあ良いや」


良いの?何が???
二度見する私に目を向けるでもなく、悟はコーヒーメーカーを動かしていた。
ぐつぐつと注いだ水に熱を入れ始めた音がして、流れるCMを蒼い目が見つめている


「刹那、お昼は何が良い?特別に僕が作ってあげる」


『……食べたくない』


「ダメだよ。ちゃんと食べなきゃ。お昼食べたら外の確認に行くよ」


『……近所の人に聞くの?』


「いや、聞く訳じゃない」


じゃあどういう事だろう。
顔を上げた私の前に、カフェラテがそっと置かれた。
……ピンクのマグカップは、母のものだ。
隣に腰を下ろした悟が使っているクマのマグカップが私のものである。
黒い水面にぼちゃぼちゃと砂糖が放り込まれ、アニメで見た光景が今まさに目の前で行われている事に固まった。
砂糖が溶けきらないコーヒーってなに?
じゃりじゃりと砂みたいな音を立てるコーヒーをティースプーンで掻き混ぜながら、悟はゆったりと脚を組む


「…ねぇ、刹那」


『…なに?』


「何があっても、僕が居るからね」


…真剣な顔でそう言う悟に、私は頷くしかなかった。














二日目 昼


家の外に出てみた、のだが。


「やっぱりね、人っ子一人居やしない」


『…気付いてたの?』


「気付くっていうか、生活音が何にもしなかったでしょ。多分、今此処に居るのは鳥とか虫とかだよ」


隣をゆっくりと歩く悟についていく。
見慣れた通学路に人影はない。車だって何処にもない。
隣の花の世話が好きなおばさんも、三件先の毎朝散歩しているおじいさんも、誰も居ない。
ピチチチ、と小鳥の声がいやに響いた


「んー、見た感じ、消えたのは人間だけじゃないね」


『え?』


「ほら、そこ」


悟がすっと指差したのは塀の向こう。
そこからちらりと覗くのは、近所で飼われている犬の首輪だった


「さっきも猫の首輪が落ちてたし。
多分、消える範囲は獣と人間かな。刹那がそれに含まれなかったのは、僕っていうイレギュラーが傍に居たからじゃない?」


『………』


人と獣が消えた世界。
消えたのが此処だけなのか、それとも世界規模で消えてしまったのか。
そもそもどうして、どうやって消してしまったのか。
……家族は、どうなったのか。
判らない事ずくめで動けなくなりそうな私の手を、大きな手が静かに掬い取った。


「ほーら、立ち止まってる暇はないよ。取り敢えず家に戻って、荷物纏めよっか。
服と下着は一週間ぐらい想定してね。それ以降は現地調達で。
食べ物はコンビニとか、店行けば大丈夫でしょ。そこは心配しなくて良いよ。
…あ、良いモン見ーっけ!」


ペラペラと喋ったかと思えば、急に他所の敷地にずかずかと入り込んでいく。
何事かと顔を上げると、何故か悟は嫌味な程長い脚を高く上げて────


「お邪魔しまーっす!」


………扉を、蹴破った。
え???なんで???
なんで急に人様のお家に押し入ってるの???強盗?最強の呪術師が一般家庭に強盗に入るの???
困惑する私の手を引いたまま、靴箱に置かれたキーケースを手に取ると、悟はにんまりと笑って見せた


「うんうん、順調。
こんな感じなら、もしかしたら荷物なくても行けるかな」


『え?』


キーケースを握り、鼻唄を歌う悟が向かった先は────此処の人の物であろう、大型バイクの許だった。
一頻りバイクを確認すると、鍵を差し、エンジンを掛けた


「ハヤブサの新型か?ガソリン満タン。車両不備もナシ。ウン、いけるね。
よーし、うじうじしたってしょうがない!さ、乗りな!」


『えっ』


此方を見下ろした悟は、白い歯を見せてにっこりと笑った


「行くでしょ、二人旅!」
















二日目 夜


びゅんびゅんと風を切り、青いバイクが車の居ない道路を駆け抜ける。
海上の道で響くのは唸るエンジンの駆動音だけ。波の音は掻き消されて聞こえなかった。
巨大な海峡を独占し、馬鹿みたいな速さで突き抜けるバイクを操る背中に疑問を投げる


『ねぇ!何処行くの!?』


「え?なーにー!?」


『何処行くの!?!?!?』


…あの後、盗んだバイクで街に向かった。
そしてバイク用品専門店を訪問(物理)し、悟は新品のヘルメットとグローブとゴーグル、そしてライダースジャケットを入手した。
次にコンビニに訪問(物理)し、適当な携帯食料やら下着やら、がっと掴んで家から持ってきた鞄に詰め込んだ。
……私の着替えなんかは家からの物だったが、悟は最初から行く先で入手するつもりだったらしい。
空調も完璧。ただ人だけが居ない店内から堂々と強盗行為をした男は、荷物をバイクに括り付ける。
そして私にライダースとゴーグル、グローブにヘルメットを装着させて、自分も同じ格好になったかと思えば私を後ろからベルトで固定した。
意味が判らずぽかんとする私を他所に、こいつは思いっきりエンジンをふかしたのだ。


そして、行く先も知らされないままバイクに乗せられる事どれだけか。


時間は判らないが、取り敢えず、夜だ。
黙って着いてきたのだし、そろそろ目的ぐらい聞かせてくれたって良いだろう。
ぎゅうっと目の前の背中にしがみつきながら行き先を大声で問うと、めちゃくちゃ楽しそうな声が返ってきた


「奈良!!!」


『はぁ!?!?』


「だからぁ、奈良県!!」


いや待って???此処関門海峡だよ???
え???奈良???
なんで????














「いやー、人が居ないのに電気もガスもネット環境までそのまんまってのは快適だね!」


『なんでそんな平然としてられんの…?』


現在、下関の旅館に侵入した私達は空いていた部屋で腰を下ろしていた。
因みに部屋のランクは最高である。だって部屋に露天風呂があったのだ。
不法侵入の身の上では入りたくなかったが、悟に放り込まれた以上、入らない訳にもいかなかったのである。私、この二日間でどれだけ罪を重ねるの…?
厨房から持ってきたんだろう練り切りを口の中に放り込みながら、浴衣姿になった悟はばさりと日本地図を広げた


「刹那、此方おいで。行き先教えてあげる」


『………』


部屋の隅から、のそのそとテーブルに近付いた。
此方を見ていた悟は嬉しそうに笑って、テーブルの隅に置いてあったペンを取る


「今僕達は奈良を目指してる。理由としては奈良、京都には退魔、神殺しに縁のある物が多く保管されているから」


『…人と獣が居なくなった理由、判ったの?』


「確証はないよ。でも明日、また何かが消えていたなら、そうすれば確定になる。
その時は、僕の考えを話すよ」


…それって、今は言えませんって事と同じだ。
眉を寄せるが、口にするのは憚られた。


だってもし悟が此方に来ていなかったら、私も消えていたかもしれない。


消えていなかった場合はもっと酷い。
たった独りで取り残されてしまえば、私は家の中で乾涸びるまで泣いていたかも知れない。


ぐるりと囲われた奈良の文字をじっと見つめる。


悟は、彼方の世界でこういう理解出来ない事態に慣れている筈だ。
だからこそ、今は彼の言葉に従った方が良い。
只でさえ、こんな面倒な事態に関係無い筈の悟を巻き込んでしまっているのだ。
本来なら直ぐにでも彼方に帰りたいだろうに、優しい彼に私の面倒まで押し付けてしまっている。
せめて、悟の邪魔にならない様にしなくては。
私はゆっくりと頷いて見せた


『…判った』











三日目 朝


……何故、隣で寝ていた筈の男が気付いたら同じ布団で寝ているのか。
すやすやと人の頭に鼻先を突っ込んで眠っている悟に溜め息が出たものの、叩き起こすのは憚られた。
バイクの運転なんて疲れるだろうし、女子高生の子守りなんて面倒以外の何物でもない。
というかなんでコイツあんなでかいバイク盗んだの?父さんのセレナじゃダメだったの?
鳥の声すら届かない静謐さを保つ部屋の中、抱き枕にされながらスマホを起こす。
火曜日。…悟が来て三日。人が居なくなって、二日目の朝だ。












「おはよう刹那。昨日無理させちゃってごめんね、腰は痛くない?」


『朝から清々しいほどセクハラするじゃん』


「ふふ、かわいいねぇ。僕と背徳の一夜を過ごしちゃったかもって焦った?」


『なんかセクハラがオッサンくさい』


「えっひど!!!」


確かに寝覚めの顔面国宝は心臓に悪いが、中身がこれだし。
備え付けのお茶を用意しつつ、テーブルに広げられたままだった地図に目を落とす。
昨日の時点で九州から山口に入った。今日も移動に充てたとして、何日ぐらいで奈良に着くのだろうか。


「刹那ー、コレ食べよー。美味しいよー?」


『……羊羹丸かじりはやめよう…?』













三日目 昼


「バイクで二人旅ってのも自由で良いねぇ。なーんにも文句言われずにフラフラなんて、人の理想そのものじゃない?根無し草ってヤツ?」


『運転大変じゃないの?父さんのセレナ使えば良かったのに』


「判ってないなー、風切ってカッ飛ばすのが良いんじゃん。
あ、今まで法定速度ガン無視で走ってたんだけど知ってた?250ぐらい!
このバイク持ってた人バイク好きだったんだろうね。メーターカスタムしてあるよ。あ、300挑んじゃう?」


『は????????』


だからあんな速かったの?怖いぐらい速いよ?落ちたら死ぬって言われなくても判る速さだよ?
バイクに寄り掛かってヘラヘラ笑っている馬鹿の胸倉を掴んで揺すった。


『おいふざけんなよ聞いてない』


「え?知らない?ハヤブサって300km出せる市販バイクって事で有名だよ?最近のは規制掛かって馬力落としたっぽいけど」


『知らんわ。人乗せて法定速度ガン無視すんな』


「えー良いじゃん!楽しいでしょ?
それにタンデムベルトちゃんとしてるから無問題!!」


『お前ほんとに教師か???』


ないわ。そんなだから七海の方が先生っぽいって言われるんだよ。
ドン引きしつつ手を離し、木陰でぐっと伸びをする。
長くシートに座ったままと言うのはなかなかにしんどい。
腰に手を当てて筋肉を伸ばしていると、悟はコンビニおにぎりでお手玉していた。
こいつ……ほんとこいつ…


「刹那、どれが良い?」


『あんたがお手玉してないヤツ』


「えー」


ゴーグルを首に下げている悟の眼は、剥き出しのままだ。
そう言えば、ずっとサングラスも目隠しもしていない気がする。
じっと蒼い目を見つめれば、おにぎりのフィルムを剥きながら悟が首を傾げた


「ん?食べたい?」


『要らない。ねぇ、眼は痛くないの?』


「眼?……ああ、そういう事ね」


きょとんとして、それから納得したと言う様に悟はふんわりと微笑んだ。


「平気だよ。僕の眼は呪力を読むって言うのは知ってるでしょ?」


『うん』


「この世界に呪力は存在しない。だから、僕の目も…此処じゃただキラキラしてるだけって事」


『……そっか』


安心した。
無理して裸眼を晒しているんじゃないかとヒヤヒヤしたのだ。
ほっと息を吐くと、頭に円柱の物体が乗せられた。
手を伸ばしてそれを掴む。
ペットボトルのお茶を人の頭に乗せた男は、笑顔で口におにぎりを突っ込んできた


「ほら、食べな。
刹那只でさえ細いんだから、食べなきゃ干物になっちゃうよ?」


『………』


女の子に干物とか言う男ってどうなの???












三日目 夜


今日のお宿はホテルだ。
ガソリンを入れた辺りで今日は一旦泊まろうと、悟が選んだ場所である。


『此処ってどの辺り?』


「もう奈良には入ってるよ」


『えっ』


「今日は高速行ったでしょ?渋滞とか含めても、普通は六時間見積っときゃ着くんだよ。
僕達は法定速度ガン無視だったからもっと速かったってワケ」


『あー…』


高速道路の便利さよ。
おまけに他の車なんか居ないから、まぁ快適である。
そう言えば、時折吹き飛んだガードレールなんかを見掛けたんだが、あんなのニュースで見たっけ?私が覚えてないだけ?
それともやっぱり、人が居なくなる時に混乱でも起きたのだろうか。
テーブルの上にお馴染みになりつつある地図を覗き込んでいれば、背後から悟がのし掛かってきた


「明日は天理にある神宮に行くよ。本当は熱田神宮まで行ければ完璧だけど、アレがある事によって逆に存在の補強なんかされてしまえば面倒だし……うん、熱田神宮はナシかな」


『???』


めちゃくちゃ呪文唱えられた。
取り敢えず神宮とやらに行くのは判った。でもどうしてだろう。
そこに、最初に言っていた退魔やら神殺しやらの物が祀られているんだろうか。


「そうだ、刹那。今日消えたもの、気付いた?」


『え』


「ヒントね。昨日までは確実に居たよ。オマエもその声は聞いてた」


声?
悟の言葉に首を傾げた。
昨日までは確実に居た。そして私もその声を聞いている。
昨日聞いたのなんて、悟の声と、バイクの音と、波の音ぐらいだ。
あとは雀の声ぐらいで……


『あ』


「気付いた?」


右肩に顎を乗せた悟が楽しそうに声を踊らせる。
緩くお腹に添えられた指が、ピアノを弾く様にバラバラに動いた。


『……もしかして、鳥?』


「せいかーい!うんうん、注意深く周りを見るのは良い事だよ」


ふふ、と肩口で悟が笑う。
ぴこぴこと長い指が二本、揺れた


「今回消えたのは、鳥と、魚だ」


『……魚も?』


「そう。気付かなかった?此処のホテルのフロントの端っこにある水槽。彼処、何も居なかったよ?
昨日の旅館の水槽には金魚が居たのに」


『……気付きませんでした』


「ついでに言っちゃうと、昨日の旅館の水槽、今朝は空っぽだった。
それで消されたのは魚だって判ったよ。後は、パンを細かくして庭に投げてみたけど鳥は来なかった。鳴き声もない。
それで消えたのは、鳥と魚だって確定したの」


洞察力と推察力が桁違いで、最早笑うしかない。
というか常に戦いに身を置く特級呪術師と、平和にのんびり生きてきた女子高生では比べるべくもなく。
何も言えない私のお腹をぽん、ぽん、と掌で交互にタップしながら、悟は続けた。


「昨日僕が言った事、覚えてる?」


『ん?……え?どれ?』


「明日何かが消えたら、僕の仮説を教えてあげるって話」


そこまで言われて漸く思い出した。
頷いて返せば、背を伸ばした悟にぐっと身体を持ち上げられ、くるりと向きを変えられる。
……ねぇ、判る?私女子高生よ?
ちょっと扱いが難しいお年頃だって理解してる?
胡座をかいた悟の太股の上に、腰を跨ぐ形で座らされ、思わず遠い目になったのはこの男の所為。


『淫行罪でしょっぴかれろ』


「実際オマエは僕の一個下だっただろ?だから女子高生って言うよりは、普通に女として見てるんだけど。
あれ、気付いてなかった?」


『こっわ』


え?何それ。これは僕は何時でもあなたを襲いますって自己紹介でもされているんだろうか。
困惑する私を見て、悟はゆうるりと目を細めた。
妙に艶を感じる仕草に何も返せず、そーっと視線を窓に逃がす。
腰をやんわりと大きな手で掴んだまま、悟は話し始めた


「ま、これは追々ね。
話を戻すよ。最初に人間と獣が消えた。
そして次の日には鳥と魚が消えた。
……これさぁ、何かにそっくりなの。ていうか、そのまんまの手順を引っ繰り返してる」


『……引っ繰り返す?』


「そう。……刹那はさ、天地創造って、知ってる?」

















「天地創造────これは旧約聖書が一般的かな。
日本の神道とかだと、神が神を切ってその効果を地にばら蒔いたり結婚してみたり産んでみたり殺したり色々だからめちゃくちゃややこしいんだけど、細かいのをざくっと区切れば同じ様なモンだ。
簡単に説明すると、神様が七日で世界を創ったってハナシ」


女子高生を向かい合わせに座らせて、髪にすりすりする成人男性。
普通に事案。
とは言え私達以外に人間を見掛けないので、何処にも訴えようがないのだが。


「一日目、神は光を生んだ。
闇と水だけがある世界に光を作り、世界に昼と夜が出来た。
ものによってはこの前に宇宙とか地球も創ってるらしいけど、そこは割愛するよ。


二日目、神は空を創った。
水の真ん中に空を創って、上下に分けたんだ。


三日目、神は地を創った。
下の水を一ヶ所に集めて、それで現れた乾いた土を陸と名付けた。生まれた大きな水溜まりは勿論、海って名前。
そして陸に植物の概念を与えた。


四日目、神は太陽と月と星を創った。
昼を太陽に、夜を月に担当させた。
……いやそもそも地球の自転とか昼と夜出来てんのに太陽産まれんの遅いとか、そこら辺のツッコミはナシね。
ぶっちゃけこの時に昼と夜が生まれて、一日目はただ光と闇って概念が生まれただけって説もある」


すらすらと紡がれる説明に、何とか付いていけてはいると思いたい。
ぶっちゃけ何で水があったの?とか思うがそれは聖書なので。
少しだけ身体を離し、正面から美しい顔が此方を覗き込んでくる。
蒼が、真っ直ぐに私を射抜いた


「続けるよ。
五日目、神は鳥と魚を創った。
そしてその生き物を祝福した。
地上に、海に、沢山生まれて満ちろってね。


七日目は休息日だから、実質創るのはこれが最後。
六日目、神は獣と家畜、そして────人を、創った」


『………え』


人と獣。鳥と魚。
それはつい最近耳にしたフレーズだった。
何を思ったか、固まる私を抱き上げて、悟が立ち上がった。
咄嗟に首にしがみついた私を小さく笑うと、すたすた歩いて大きな窓の方に近付いていく。


「今何時だっけ?」


『え?……十二時の三分前』


「そう。丁度良いね」


がらり。
窓を脚で開けると、悟はそのまま外に出た。
……すたすたと宙を踏み締め歩く姿についてはツッコミはナシとする。


「最初に消えたのは人と獣。僕達は見なかっただけで、きっと家畜も消えてるよ」


ポケットから引っ張り出したスマホに映っている時間は、二十三時五十八分。
画面をちらりと見て、悟はまた正面に視線を戻した


「最初は刹那の住む地域だけかと思ったんだけどね。
ネットを見れば世界中で更新がない。おまけにテレビだって、前以て設定してあったんだろう放送以降何も映らない。
……世界規模で人間が姿を消したんだろうって事は、直ぐに判った」


二十三時五十九分、悟が立ち止まった。
目の前に広がるのは満月だ。
雲もなく、夜空には星も煌めいている。
月の光を浴びて冴え冴えと輝く男は、静かに私を見下ろした


「見てて。月が、消えるよ」


低い声がそっと囁いた。
その瞬間────あれだけ美しく輝いていた月が、ふっと。
まるでスイッチでも押したかの様に、消えた。
一瞬で世界が暗くなる。
悟を照らしていた月明かりは消え去り、空で散っていた星も隠れてしまった。
私を抱え直すと、ゆったりと空を見上げ、悟が呟く


「うん、予想通り。
……戻ろうか、刹那。四日目の始まりだよ」

















四日目 朝


……空に、太陽はなかった。
太陽が消えたからか、空は暗い。
暗黒期そのものの世界に絶望する私を他所に、悟はフレンチトーストを作りながらケラケラ笑った


「やっぱり太陽と月の消滅と一緒に昼と夜もなくなっちゃったかー。
ウケんね、ずーっと夜!どうする?真っ昼間だけど廃墟巡り肝試しツアーやっちゃう?」


『なんでそんな平然としてんの…?』


此方はいよいよ世界の終わりが近付いてきて笑えないと言うのに。
悟がコンロの火を止めて、フレンチトーストを皿に盛る。そこに厨房からくすねてきたバニラアイスとミントを添えた。
それを見つつ、コーヒーをカップに注ぐ。


「刹那、そっち僕が持ってくからフォークとナイフお願い」


『はーい』


言われた通りに食器類をセッティングしていると、トレーに全て乗せた悟がやって来た。


「じゃあ食べよっか。いただきます」


『ご飯作ってくれてありがとう。いただきます』


手を合わせ、カフェで出てきそうなフレンチトーストにナイフを入れた。
口に含むとじゅわっとバターと砂糖の甘じょっぱさが口に広がる。
……この男、何なら出来ないんだろう。


「今日はちょっと移動が増えるから、覚悟しといてね」


綺麗な所作で、私の二倍はあるフレンチトーストを着々と切り崩しながら悟はそう言った。
悟がそうするべきだと思ったなら、私は従うだけだ。
頷いた私をちらりと見て、悟が微笑む


「良いね、その自分で決断して僕に身を委ねてる感じ。
諦めたとか言いなりとかじゃなくて、オマエは僕が正しいって信じてる。……ふふ、嫌いじゃないよ、そういうの」


『そりゃあね、悟を信じずにどうするの?』


この状況で悟の決定にぎゃんぎゃん噛み付くとしたら、それはただの構ってちゃんか馬鹿だろう。
この四日だけでも十分に判る。
悟はおちゃらけているけれど、優しいし頼りになる人だ。


『今まで言えなかったんだけどさ。
此方の変な事態に巻き込んじゃってごめんね、悟。
でも私を助けてくれてありがとう』


私が塞ぎ込まない様に、ずっと優しく話し掛けてくれる。
移動中も私が疲れない程度に休憩を小まめに取ってくれるし、ご飯だって作るのを手伝ってくれる。
本来は一刻も早く彼方に戻りたいだろうに、私なんかを気に掛けてくれる。
アプリで話していた頃から、彼は優しい人だった


『ありがとう、悟。
悟のお陰で私、今笑えてるよ』


…たとえこのまま死んでも、それはもう仕方のない事だ。
それでも、偶然だとしても。同情だとしても。
私は今、笑えている。
それがすべてだった。


「…………………………………………」


向かいでは、真顔の美人がフォークを中途半端な位置に浮かばせたまま固まっていた。
ウケる、静止画じゃん。
私は笑いながらスマホを向けた。


『悟wwwwwwwwwwwww』


写真を撮った後、はぁーーーーーーーー、と深い息を吐いて、悟はすっと上を見た。
大きな手で目許を覆い、ひっくい声で恐ろしい事を唱えだす


「…オマエかわいいね?どーして今そんな事言うかなぁ…ねぇそれ夜に言ってよ。抱く。抱き潰すから。ねぇ今夜言ってね」


『謹んでお断り致しまーす』















四日目 昼


「おっじゃまっしまーっす!」


『テンション高…』


「えー?だって二人しか居ないのに雰囲気お通夜でもつまんないでしょ?
テンション上げてこーよ!」


『これからやるのが盗みじゃなければテンション上げていけるんだけどね…』


天理市にある、とある神宮。
木々に囲まれた大鳥居を抜けて、左手側に大きな杉の木が現れた。
誰も居ない神宮とは何処か神秘的な空気を纏うと共に、夜の様に暗いからか、恐ろしさも感じる。


「刹那は目を閉じときな。万が一はないと思うけど、何も居ないとは限らないし」


『え?何か居るの?』


「此処はあくまでも神域だし、注連縄の向こうは僕達で言う生得領域に近いものなんだよ。
だから、出来ればオマエを一人にするのは避けたい。
という訳で、今からオマエは目を閉じて、僕の首にしがみつくのがお仕事でーす!」


言うが早いか、ひょいっと抱き上げられた。
すたすたと長い脚で進んでいってしまう悟に慌ててしがみつき、目を閉じる。
悟のライダースに顔を押し付ければ、ふっと吐息で笑うのが聞こえた


「いいこ。そのままじっとしててね」











………目を開けても良いと言われる頃には、既に鳥居を後にしていた。
抱える悟の背後に赤い鳥居が見える。
驚く私をケラケラと笑って、悟はさっさと歩き出した


「いやー、刹那がいいこで良かったよ。彼処で喋ってたら連れていかれる・・・・・・・所だった」


『え?』


「まぁ、清らかな子・・・・・なら目も口も閉じてたって奪えたんだろうけど。
そこはほら、もう僕が手を付けちゃってるからね」


…呪術とか神とかそっち系の話だろうか。
首を傾げる私に、悟はそれはそれは綺麗に微笑んだ


「ふふ、オマエは可愛いね」












四日目 夜


『ねぇ、今恐ろしい事に気付いた』


「んー?どったの?」


あれから寄り道や休憩を繰り返しつつ、高速道路を使って島根県にやって来ていた。
時間は昨日と同じ、二十三時台。
高台に位置する高級旅館から外を覗いても、暗いだけで何も見えない。
光という概念は……あれだろうか。あちこちで光っている場所がある。
近くにあったり、大きかったり、小さかったり。
窓から外をじっと見つめていると、勝手に人の膝を枕にしていた男がごろんと寝返りを打った。
同じ様に外を見て、蒼がゆっくりと瞬きする


「刹那、あの光ってるのが何か、判る?」


『……わかんない』


光の強弱の意味も、何故そこが輝いているのかもさっぱりだ。
素直に言うと、悟はくすくすと笑った


「素直だね。判らない事を素直に口に出来るのは良い事だよ。まぁ呪術師としては少し心配になるけど」


騙されやすそう、と呟いた口を無言で引っ張った。
頬を摘ままれているのにへらっと笑っているのは反省していないという意味なのか、何なのか。


「刹那、そういえば恐ろしい事に気付いたって言ってなかった?」


『…馬鹿にしない?』


「しないよ。言ってみな」


微笑みを浮かべた悟に促され、視線を惑わせたあと、結局膝の上に戻した。
息を一つ吸って、ぼそぼそと言葉を落とした


『…悟は昨日、三日目には陸と海が出来て植物が生まれたって言ったでしょ?
それが逆になってるって事は、明日、陸がなくなる』


「うん」


『……悟は無限で浮けば大丈夫だけど、それをずっとするのは疲れるよね?
………ボートじゃ心許ないから、大型船舶?あれを早い内に捜すべきだったなって』


多分、本当に必要だったら既に其処に移動しているだろう。でも今此処に居るという事は、それをする必要はないという無言の答えだ


『…でも多分、明日になっても此処は無事なんだと思う。悟が焦ってないのは、そういう事だろうから。
……ごめんね、役立たずで』


私に何か力があったなら、きっと微力でも悟の手伝いになれたと思う。たとえそれが自己満足でも、無力な今の自分よりは百倍マシだ。
謝罪する私を、蒼がじいっと見つめている。
それからゆっくりと、薄く色付いた唇が動いた


「んー、僕からすれば大体の人間が弱いし、役立たずだから気にする事はないよ!………って言っても落ち込むよねぇ」


『いや、事実だから落ち込まないけどほんとデリカシーないなクズとは思う』


「あ、落ち込まないの?オマエやっぱり呪術師向いてるよ。
呪術師として必要なのはさ、ある程度イカれてるって事と、僕っていう圧倒的な個体を見ても折れない心の強さだからね」


『つまりお前図太いよねって?デリカシー死んでんな』


デリカシーって知ってる?オブラートって言葉見た事ある?
真顔で見下ろす先、ツラばっかり綺麗な男は両の人差し指を立て、揺らした


「ポキポキ折れちゃう子よりは、蒟蒻みたいにみにょみにょして折れない子の方が好みよ?だって幾ら殴っても壊れないでしょ?」


『全然嬉しくない』


うるさいな、事実で落ち込んでる暇があれば少しでも他の方法を考える派なんだよ。
この性格の所為で負けず嫌いとか、男勝りとか小さな頃は良く言われていた。
まさか肯定されたと思えばイカれてる
判定まで下されて、一体誰が喜ぶと言うのか。


「……まぁ、でも実際さ。オマエが此方に来るって可能性は考えてて欲しいんだよね」


悟はそう呟いて、ゆっくりと身を起こした。此方に背を向けたまま、言葉は続く


「僕の呪力に四日間触れ続けて、無限の中に浸り続けている。
これはね────言い換えてしまえば、僕に存在を塗り替えられている真っ最中って事なんだよ」


『え』


「強い存在が身近にある弱い存在に影響を及ぼすってのは良くある話だろ?
オマエは二十四時間、全身で僕の無限に触れている。
今はまだ実感はないだろうけど、オマエの中にいつ呪力が生まれても可笑しくない状態なんだよ」


ゆっくりと悟が立ち上がった。
衣擦れの音がいやに響く中、真っ暗な窓の傍に寄り、外を眺め始める


「…それにね、酷な事を言うけど」


静かに悟が振り向いた。
何も言えない私を無表情のまま見つめて、ゆっくりと、告げる


「恐らくこの世界の“神”が現れるのは三日後だ。僕が此方に現れたのが神の休息の日と取るなら、三日後にヤツは現れる。


勿論、僕はソイツを殺すよ。


でもね、刹那。
僕が元凶を殺しても────この世界が天地創造の前の状態に戻るなんて確証は、何処にもないんだよ」
















五日目 朝


ざざ、と蠢く波の音があまりにも近くて、飛び起きた。
だが起き上がれない。理由は簡単、昨日散々私を正論で殴った男に巻き付かれているからだ。
あの後、悟は打ちのめされた私を布団に放り込んだ。
最早布団を一人分しか敷かない辺りで、完全に抱き枕認定されているのが良く判る。
外の状態が気になるので、出来れば離れて欲しいのだが。
ぼーっと目の前の寝乱れた浴衣から覗く鎖骨を眺めていれば、すり、と髪に鼻先を擦り付けられた


「…今日は逃げないの?」


『逃げようとする労力が勿体無い』


非力な私を押さえ込んでニヤニヤするのだから、典型的ないじめっこだ。
そういうタイプは抗わないに限る。
そう判断し、ぼーっとしていたのだが。


「そう?じゃあヤろっか」


『ん??????』


ちょっと待て、今めちゃくちゃ不穏な言葉が聞こえた気がする。
反射的に胸元を押さえ込んで、気付けば腰に跨がり覆い被さっている男に顔が引き攣った


『……え?嘘でしょ?五条先生???』


「あ、その先生呼び良いね。イケナイ事してるって感じ」


『は?あんた教え子と同い年の顔見知りに手ぇ出すつもり?モラルどうなってんの???』


「最初に言っただろ?オマエは僕の一個下って認識だって。
つまり僕の中のオマエは二十七歳だから、僕が今オマエに手を出してもなんにも問題ないの」


『問題しかないんだけど???』


なんで???なんであんたの中の私が二十七歳なの???どういうこと???
こわいな?え?未だ嘗てこんなに噛み合わない理論を繰り広げてくる人居た???
困惑する私ににっこりと微笑んだ男が顔を近付けてくる。


「じゃあ判った。取り敢えずキスしようか」


『は???んーーーーーー!!!!!』














五日目 昼


右頬を真っ赤にしてへらへらしてやがる男が言う。


「いやー、キレーに入ったね!僕じゃなきゃ気絶してたんじゃない?」


『もう世界とかどうでも良いから帰れば良かったのに』


「あらら、世界がどうでも良いなんて呪術師に言っちゃダメだよ。
こんなガッタガタの状態じゃあ、何がどう作用するか判んないし」


そう呟いて、悟はのんびりと窓の外に視線を投げた。
それに釣られて夜の様な空を見る。
時計がなければ時間の感覚が狂いそうな程に、周りにはとっぷりと黒が滲んでいる。


『そういえばさ』


「んー?なぁに?」


『…この水が来ないのって、どうなってるの?』


旧約聖書に於ける天地創造を遡る事五日。
今日は植物の消滅と、大地の喪失だった。
陸が消えるという事は、全てが海と呼ばれていた水の下に沈むというのと同義である。
普通に考えて、人類終了のお知らせだ。


…それなのに、この旅館は沈んでいなかった。


それどころか、此処に繋がる道路が一部無事ですらある。
大量の水がざばりと来ても、そこに道路は水没しないのだ。
例えるならば、海底トンネルの様。
透明な膜に包まれる様にして、一部の道が生きているのが見えた。


「刹那はさ、この世界で僕だけが持ってるものって、判る?」


『…呪力?』


「正解!」


ふふ、と笑った悟が畳にするすると指を這わせた。
指が通った後が黒く色付き、まるで墨の文字の様に其処に刻み込まれる。


『……何してるの?』


「結界張ってんの。触ってみる?」


『…消えない?』


「勿論」


本人に言われた為、恐る恐る手を伸ばす。
畳の文字に触れたが、それは消えたりしなかった。
感触も畳そのもの。見えているのに其処にはないみたいで、首を傾げる


「見えるんなら順調だね」


『?』


「此方のハナシ。さーて、お出掛けするよ。着替えといで」


『え?今日はゆっくりするんじゃないの?』


悟がのんびりしていたから、今日はてっきり動かないのだと思っていたのだが。
その場でばさりと浴衣を脱いだ男に慌てて背を向ければ、くすりと笑う声がする


「ゆっくりするのは明日だよ。前日を休息に充てるのは戦士の基本ってね」















「刹那はさ、神って、何だと思う?」


唐突に哲学みたいな問いを投げ掛けられて、戸惑うのは仕方のない事だと思う。
神とは何か?それって宗教的な意味?それとも生きてる上での考え?


『………受験の時とか死にそうな時に願う駆け込み寺的な存在』


「ウケる、見事な無神論者だね。つまりオマエにとっての神様は、嫌な事があった時の身代わり人形ってトコかな」


『罰当たりじゃん…』


ケラケラ笑うライダースの男は藪を掻き分けていて、私はその背中を眺めている。
…此処って神社だよね?何してんのこいつ?


「まぁ大概の人間はそうだよね。
普段は敬ってないのに、いざ何か起きると縋り付く。
昔と較べて神霊の力が薄まったのは、単に人が神を恐れ敬わなくなったからだよ」


『……神を、敬わなくなった?』


「そう。昔は居たんだよ、神も。
多分それなりにヤンチャだったんじゃない?ほら、伝承とか大体ロクな事してないでしょ?」


『んな適当な…』


「だーって僕その時代の人間じゃないし。
続けるよ。
昔は雷も川の氾濫も台風も飢餓も、全て神からの人への怒りやら生贄の催促だった。
そして信仰を手放す…生贄を差し出さないって事は、神が人に手を貸さなくなる事を意味した。
生贄を必要とする、それがなきゃ自分達の命を脅かす。これ、縛りに似てるね。
逆を言ってしまえば生贄さえくれれば、豊穣は約束するってモンだし。
当時の人々は、本当に神の起こした事象に加えて理由の判らない事も神の御業と考えていたから、勿論それらも含まれた。
つまり、人以外の事象は大体が神の行い。延いては自然自体が神だったんだよ」


がっと大きな手が藪に突っ込まれる。


「でも今は文明が発達して、雷も川の氾濫もそれに至るまでのプロセスが解明されてしまった。
つまり、人にとって自然は神ではなくなった。
そうすれば、恐れの薄れた神はどうなるか。────簡単に言えば、殆どお飾りになる」


ごき、と何かを砕く音がした。
かと思えばぽいっとそれを放られ、足許に落ちたそれに肩が跳ねた


『っ!!!!!』


────首の折れた蛇が、虚ろな眼で此方を見上げていた


「そりゃそうだよ、今の時代なんて昔ほど真剣に有神論を唱えるヤツなんか居ないし、肝心の神宮や大社だって観光客の健康祈願ぐらいしか貰えない。
昔みたいに御立派な神は出て来ようがないんだよ。
だって信仰が薄いから。
信仰ってのは神を神足らしめる土台だ。堕ちない為に必要なもの。
それが足りなきゃ現し世に於いて、神はその力を行使する事が出来ない」


『おい。お前突然人に蛇の死体投げた事謝れ』


「メンゴ☆」


クッソむかつく。


「それで、今はこの世界全体が“神代の世界”に戻ってる。だって人間居ないから。
まぁ此処で神道とゾロアスター教由来の旧約聖書混ぜるのってどうなの?とは思うけどさ。此処日本だし。
でもぶっちゃけ日本だからこそ、土地の縛りがクソ強いんだよね。
ああ、此処もだけどさ、あちこち光ってたでしょ?アレはね、神社とか大社とか、霊山とかそういうの。
こういう神を神として成り立たせる為のファクターは沈まないみたいだし、信仰と畏れの度合いで輝きも違う」


『ねぇ、そろそろ一般人にも判る様に説明して?』


情報量凄くて私全然判ってないんだけど。
二十八歳の教職員が神社の藪で蛇を殺してるっていうのしか判んないんだけど。


というか、あれ?


不意に浮かんだ疑問に首を捻った。
足許で息絶える白蛇を見つめる。
悩む私の前方、すっと振り向いた悟はすたすたと此方に近付いてくる。
ぐいっと私を抱き寄せたかと思えば────足許で大きく口を開けていた蛇の首を、踏み潰した


『ひ…っ』


「そんなに?どうしても返して欲しいの?
…でもさ、ソッチは沢山居るだろ?一人ぐらい見逃せよ」


蛇の死体が二体に増えた。
…音もなく蛇に狙われていたなんて、気付かなかった。
足許を気にする私を小脇に抱え、悟は蛇の死体を蹴って横並びに配置した。


『……あの』


「んー?」


引き続き蛇を捜している様子の悟に、恐る恐る質問した


『…何で、蛇が居るの…?』


そう、私が抱いた疑問はそれだった。
植物どころか陸すら無くなったのに、何で蛇が生きているというのか。
その問いを拾い上げた悟は、薄い唇を吊り上げ満足そうに笑った


「良いね、良いよ刹那。
此処で蛇に襲われた事にパニックにならずに思考出来る辺り、やっぱりオマエは呪術師向いてるよ」


『質問』


「ああ、うん。教えてあげる。
……さっきの説明で、神は“人間の理解出来ない自然現象”って事が判ったでしょ?」


『うん』


「このまま何の用意もせずに七日目を迎えれば、神は“人間の理解出来ない超常現象”って形のまま顕現する。つまりフルスペックで出てくんの。
勿論信仰としては足りないけど、人が生まれる前の世界=神の支配していた世界って方式が成り立つから、それは関係無い。
まぁ、フルスペックでも勿論僕が勝つよ。でもぶっちゃけ怠い。
七日七晩ブチ殺しますとか面倒だし、僕は良くても先に刹那に限界が来る」


『うん』


七日七晩怪獣戦争とかやめてほしい。
特等席でそんなもの見たくないし、多分殺気なんか当てられれば気絶する。
深く頷く私を笑いながら、悟がまた新しい蛇を殺した


「そこでクエスチョン!
白蛇ってさ、何かの使いって聞いた事ない?」


『?…神の使い?』


「そ、せいかーい!」


大きな手で撫でて来ようとしたので拒否した。
その手はさっき蛇をごきっとやった上に此方に投げてきましたよね?
そんな手で女子に触んなよ頭沸いてんのか???


「蛇はね、昔はカガチとか、ハハとか、カって呼ばれてたんだ。
鏡も鏡餅も蛇が語源だよ。
…そして神も、語源に蛇の身の意味を持ってる」


また出てきた蛇を長い脚が仕留める。
…何だろう、出て来る蛇殆ど私狙ってない?


「神と蛇の繋がりは深い。
蛇は原始信仰によっては大地母神の象徴だし、脱皮の性質から不死とも結び付けられる。おまけに白蛇は神の使いって言い伝えまである。
あ、そうそうコイツら文字通り、神の使いだよ!」


『えっ』


「刹那を返せってせっついてんの!ウケる、弱いのに粋がっちゃってダッサいね!」


『えっ』


これは一人も逃がしたくない神様を怖がれば良いの?
それとも神の使いを笑顔で蹴り殺す最強を怖がれば良いの?
どっち?どっちの方がヤバいの???


「これで四匹…折り返しかな。
勿論意味もなく蛇の死体並べてる訳じゃないよ?」


ヤバい男は私を見下ろして、にっこりと微笑んだ


「これはね、神様ブチ殺し大作戦の肝だよ♡」












五日目 夜


「刹那、何処か行きたい場所はない?」


午後七時。
問われた私が思い浮かべるのは、たった一つだった。


『…………家に、行きたい』


「うん」


私が言う場所なんて判っていたんだろう、悟がふんわりと微笑んだ。
ゆっくりと大きな手が目の前に差し出される


「じゃあ、行こうか」


そっと手を重ねると身体を抱き上げられた。横抱きの状態で器用に両の手を組み合わせた瞬間、ぐん、と身体が引っ張られる感覚に襲われた。
堪らず目を閉じる。
感覚が消えてから、そっと目を開ける。
……正面に佇む我が家に、目の前が滲んだ


「…中、入ろっか」


今声を出せば、確実に泣いているのがバレてしまう。
頷きでしか返せない私の肩をあやす様にぽんと叩き、悟は家の扉を開けた。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を抜けてリビングに向かう。
そこから向かう先は私の部屋で。
扉を開けると、少しだけ籠った空気が出迎えた。


「僕はリビングに居るから。用意が出来たらおいで」


悟は私をベッドに降ろすと、枕元に座っていたじゅじゅべあを一度手に取り、渡してきた。
ぽんと私の頭を軽く撫で、そのまま部屋を出ていく悟。
静かに扉が閉められ、足音も聞こえなくなった所で静かに唇を噛み締めた。
目隠しを外したじゅじゅべあに、そっと顔を埋める。


どうして、こんな事になったんだろう。
なんで私だけ生き延びたんだろう。


静かに、漏れる嗚咽も押さえ込む為にライダースに爪を立てる。
…十五分だけ、泣こう。
それで、覚悟を決めろ。ウジウジするのは好きじゃないし、鬱陶しい。
前を向け。生き延びたんだ、儲けものだと思える様になれ。
私はツイてた。最強である五条悟と前から面識があって、助けてもらえた。
今もずっと、護られている。
判ってる。わかってるよ。
こんな奇跡は、幸運はないんだって。………でも。


『……おいていかれるのは、いやだなぁ』













「……もう、良いの?」


『ありがとう。もう平気』


きっかり十五分泣いた。
それから顔を洗って、目も充血して不細工だが何処かスッキリした顔の自分にGOサインを出す。
リビングに向かえば、長過ぎる脚を持て余した男がソファーに座っていた。


「コーヒー淹れてあるよ。注いでおいで」


『ありがとう』


コーヒーメーカーに準備してあったブラックを青いカップに注ぐ。
これは父のものだ。私のものであるクマのマグカップはやっぱり先に使われていた。
隣に座ると、慰める様に長い指が目許を撫でた。
ちらりと横目で見てみると、美しい顔が憂いを帯びて、静かに此方を窺っていた。


「………こういう時、僕は人を傷付けない言い方ってのが判らない」


『……うん』


「でもね、…でも」


薄く色付いた唇が、そっと宝物を愛でる様に、柔らかく囁いた


「傍にいたいと、思ってるよ」


ひどく甘やかな声に、使い果たした筈の涙腺が誤作動した。
ぽろりと一粒だけ零れ落ちた涙が、触れたままだった指先に優しく払われる。
そのままとろりと蕩けた瞳が近付いてきた。
ほんの少し顔が傾いて、近すぎて悟の顔がぼやける程の距離。
そこでぴたりと止まった悟が、くすりと甘ったるく笑みをこぼした


「キスの時は、目を閉じるのがマナーだよ」


掠れた甘い声に、勝手に目蓋が落ちていく。涙を払った手が、やさしく頬を包み込んだ。
……暗闇の中で、はじめてキスをした。













六日目 朝


「刹那、僕の血を口で飲むのと子宮で精液飲むの、どっちが良い?」


『げほっ!?!?!?』


島根の旅館にて、朝っぱらからふざけた話を振られた私はとてもかわいそう。
思わず飲んでいたお茶を噴きそうになって、慌てて飲む。
噴く動作と飲む動作が同時に起き、結果死ぬ程噎せた。


『げっほ…ぇほっ…ぅぇ……』


「ちょっとちょっと、大丈夫ー?
…ふふ、そんなに興奮するなよ。此方まで恥ずかしくなる」


『マジでクソ教師…』


「あはは、あとで覚えてろよ」


背中を擦りつつ口許をタオルで拭われ、滲んだ涙を長い指が払っていった。
いや覚えてろよは此方の台詞なんだよなぁ。大体あんたの所為でこうなったんだよなぁ。
何とか咳を治め、テーブルを拭いた。
それから改めて、歩く炎上発言みたいな男を見据える


『で?さっきのもう一度言って貰えます?』


「そんなに興奮するなよ、此方まで恥ずかしくなる」


『その前』


「僕の血を口で飲むのと子宮で精液飲むの、どっちが良い?」


聞き間違いじゃなかった。


『どっちも嫌』


顔の前で腕を交差させる。
バツを見た悟は言う事を聞かない子供を諭す様に、柔らかい声を出した


「あのね刹那、これは君の為に大事な事なの」


『……やだ』


「抵抗があるのも判ってるつもり。でもね、そうしないと────死ぬよ?」


死の一言が妙に冷たく聞こえて、ひゅっと息を飲んだ。
強張った私に気付いたんだろう、悟が柔らかく微笑んでみせる


「脅す様だけど、事実だよ。
この世界で生まれた刹那は、概念的にはこの世界の神の子なんだ。
普通は見えない細い糸みたいなのが、この世界の大源である神と繋がってる。
だから僕が神を殺せば、大源と繋がっている刹那も死ぬ」


『優しい顔で言うな。せめて無表情で言って』


「えー?気を遣ったんだけどなぁ」


一瞬で笑みが消えた。
いやこれはこれで怖いけど、笑顔で死ぬ理由を説明されるよりはマシである。


「続けるよ。大源との接続を切る方法は大まかに言って二つ。
一つは違う世界の人間…この場合は僕ね。
僕の血を飲む事。もう一つは僕とセックスする事」


立てられた指がゆらゆらと揺れる。


「そもそも神や神霊が司るのは、一般的に言う霊力とか神力とかだ。つまりプラスのエネルギー。
それに対して、僕みたいな呪術師が使うのは呪力。マイナスのエネルギーだ。
オマケにこの世界では呪力が言葉として認知されてはいても、それを体内に宿す人間は居ない。


この世界の人間は、神は、呪力に耐性がない。
だって呪力が存在しないから。
存在しないウイルスへの抗体なんて、持ち合わせようがない。


そこを突くんだよ。
オマエに僕の血を注ぐ。内側から存在を塗り替える。
呪術師の血とか精液には唾液なんかよりよっぽど呪力が込もってんの。
血は昔から呪殺の道具にも用いられてるし、此方にも自分の血で祓う呪術師は居る。
つまり、未知のウイルスでパソコンを汚染するみたいなモン。
僕の呪力で、オマエを穢すの」


『………理由は、理解しました』


とてもいやだけど。
顔を引き攣らせる私ににっこりと笑って、悟は二本目の指を立てた


「次ね。
セックスも単純に言えば、オマエを穢す為。
ただ粘膜接触は、快楽ってオプションもあるから簡単に彼我の認識もあやふやになって、呪術師としてはより深くまで手を出せるってハナシ。
血を暫く飲ませてじわじわ穢すより、圧倒的に早い。
手順としては、オマエが気持ち良くて溶けてる間に僕がオマエに挿入する。
そんで、僕がオマエの子宮に精液を注ぐ。
子宮っていう溜め込む、保管を意味する器官に僕の精液を注げば、胎っていう大事な場所から先ず僕に穢される。


そうなるとさ、神はオマエを認識出来なくなるんだよ。
というか僕の呪力で認識阻害が生じる筈。
ほら、僕って未知のウイルスだから。画面に急にノイズ走るみたいな。


そこから僕が、呪力量に任せてオマエを穢し尽くす。中心に注いじゃえばほら、そこを基点にぐちゃぐちゃにするのとか簡単だし。
最後に僕で穢れたオマエから接続を切って、終了。お疲れサマンサーってね」


私多分、今顔が死んでる。
女子高生に生き残る為の作業としてセックスを勧めてくる二十八歳…普通に嫌だ。


「言うでしょ?内服薬より坐薬の方が効くって。それと一緒!」


一緒ではない。


「あ、でも坐薬ってケツに薬挿れんのか。ウケる、マジで坐薬じゃん。お薬お注射しましょうねーじゃんウケる!!!」


何も面白くない。
思わず頭を抱えた。
嘘でしょ?私こんなクズにファーストキスあげたの…?頭大丈夫…?
今目の前の男は吊り橋効果の吊り橋のロープをチェーンソーで切り落とそうとしてるけど、私大丈夫…???
え?なんでそもそもキスした…?流されてない…?私大丈夫…???
手を叩いて笑っていた男(クズ)は、一頻り笑うと唐突に黙り込んだ。
そしてにっこりと笑って、言いやがったのだ。


「じゃ、セックスしよっか」


『嫌だ!!!!!!!!!!』











六日目 昼













六日目 夜


「接続は切れてるよ。大丈夫」


『しね…』


「刹那って暴言死ねしか知らないよね?口喧嘩ヘタクソで可愛いねー」


『クズ…』


「ははは、もっかいイカせんぞ」


『ごめんなさい』


布団で縮こまる私に大きな身体がくっついてきた。
よしよしと労る様に頭と腰を撫でられて、すっと通った鎖骨に顔を埋める。
くすりと笑う声がして、悟が静かに話し始めた


「一応ピルも飲んで貰ったけど、妊娠はないと思うよ。
この世界は“生命が存在しない”っていう理が敷かれてる。だから、幾ら僕でも新たな生命を生み出す事は出来ない。
多分精子も出た瞬間に死んでんじゃない?」


『おい雰囲気』


「あは、メンゴ☆
…真面目な話、僕はオマエに妊娠させるつもりはないよ。
それはせめて、刹那の身体が成熟してからだ」


その発言に目を丸くする。
……いやちょっと待て、え?


『ねぇ悟』


「なぁに?」


『付かぬ事をお聞き致しますが』


「凄い畏まるね?なに?」


距離を離し、悟の顔を正面から見た。
それからそっと、心なし震える声で問う


『……私の事好きなの?』
















七日目 朝


「は???僕さぁ最初っから言ってたよね?オマエの事一個下の女として見てるって。
そもそも明らかに女としてしか見てない行動だったよね?
誰がただの知り合いの十六歳のガキにこんなに尽くすって?普通に有り得なくね?


教え子と同い年のガキを毎晩抱き締めるとかナイ。
セックスなんかもっとナイ。此方から口かっ開かせて血ィ飲ませますけど?
そもそも移動も合法的に密着出来るからバイクにしましたけど?タンデムベルトで密着せざるを得ない状況を作り出してましたけど?
どうでも良いガキなら普通にセレナ使ってましたけど???
どうでも良いガキならわざわざ家に結界張って保存なんかしてやらないし、小まめに休憩なんかしてやらないし、そもそも助けてやるかも微妙ですけど???


ぶっちゃけオマエにした事硝子に知られたらゲロを見る目で通報されるレベルだし、野薔薇に見られたら無言で即通報されるレベルだよ?
僕的にはめちゃくちゃ気を遣って?愛でて?頑張ったんですけど???」


そこまで低い声で念仏の様に、吐き出した。
それからすっと、蒼が此方を見下ろした。


「それをさぁ………このボケナスさぁ…私の事好きなの?って?」


もう何も言えない。
神社の境内にて、私は五芒星の結界の中でそっと正座した。


「は???今更それ???
好きだよ。好きだよ馬鹿。気付けよ馬鹿。マジオマエ馬鹿。
誰が好きでもねぇ女をあんなに優しく抱くんだよ。キスも一回退いてやったのはオマエが嫌がってたからだよ馬鹿。ふざけんな鈍感マジ許さねぇ。
オイ、アッチに戻ったら俺と直ぐに籍入れんぞ」


『えっ』


「は???」


『……ケッコンハ…マダ…ハヤイノデハ…?』


こっっっっっっっっっわ。
は???が怖い。ガン開きの六眼が怖い。
さっと下を見ると、抱えていたぬいぐるみ達と目が合った。


「────アッチに戻ったらオマエの戸籍をでっち上げる。
そんで即結婚する。文句は」


『…五条先生…確か…封印されてませんでした…?』


「ンなモン箱の中に“一人以上”入った時点で箱がイカれて開くの一択だよ。
アレは手順を踏んで効果を上げて閉じ込めるモンだろ。それなら“中で突然二人に増えた”ら対処なんて出来っこない。
中身ウン千年引き篭もってる頑固爺だ、応用が効くとは思えねぇ」


そう言って、悟は手にした長物を振り上げた。


「あ゙ーーーーーーーーー腹立つとっとと終わらそ。
“櫛名田比売は此処に居るぞ、八岐大蛇”!!」


────ばちり。


悟の前、胴体を綺麗に並べ、まるで首が八つある様に置かれた蛇の亡骸に、青白い電流が疾る。


悟は言った。
七日目、必ず神は現れる。
現れるなら────“神の形”を、此方で決めてしまえば良い、と。


「まさか別の世界で神降ろしを体験するなんてねぇ。人間長く生きてみるもんだ」


まだ若いのにそんな事を嘯いて、悟はゆらゆらと長物を揺らした。
アレは四日目に神宮から拝借してきた剣だ。


天羽々斬。
八岐大蛇を退治するのに須佐之男が用いた剣。


私は八岐大蛇に捧げられる予定だった櫛名田比売の役割だった。
故に今、結界の中で家にあった桃の木を使った櫛を髪に差している。
そしてこの神社は、ヤマタノオロチの骨が納められているという。


────ばちり。
光が迸る。
用意された器…八つ首の蛇の亡骸に、目も眩む様な雷が落ちた。


「刹那、覚えておくと良いよ。
神降ろしなんかをする時は、相手の器を此方が用意すれば────どんなに相手が有利な世界でも、逆転出来るってね」


顔を庇いながら様子を窺うが、真っ白で何も見えない。
それでも、目の前の悟から余裕を崩さない声が聞こえてきた


「我が子を取り戻しに来た筈の神は、生贄を喰らいに来た八つ首の大蛇に。
……可哀想に、相手が悪かったね」


からん、と遠くで何かが転がる音がした。


「謌代′蟄舌r霑斐○!!!!!!」


「刹那、絶対そこから出んなよ。死ぬから」


光が収束する。
黒いぬめぬめとした照りのある鱗を全身に纏った、見上げる程に巨大な蛇。
八つの首が全て悟を睨め付けて、御神木すら簡単に呑み込んでしまいそうな程に大きな口が開かれた。
鋭く巨大な牙を、紫色の液体が伝う。


「謌代′蟄撰シ溽┌莠具シ」


きろり、と首の一つが此方を見て、真っ赤な眼がほんの少し細められた。
…何だか、優しい顔をしている、様な…
手を、伸ばそうとして────


「虚式────茈」














……目を、開ける。
見えたのは木製の天井で、全く見覚えはない。
もしかして新しい旅館に行ったのだろうかと思いつつ、ゆっくりと身を起こした。
しかしそこは綺麗に整えられた和室ではなく、今にも崩れそうな小屋で。
…というか柱が一本折れてない?めちゃくちゃくの字。
横たわっていた畳が無事なだけで、後は散々な有り様だった。
…靴は、履いてるな。あ、じゅじゅべあ達も全員居る。
ならこのまま此処から避難するべきか。
今にも崩れそうな建物から出ようと、ぬいぐるみ達を抱えて立ち上がると────


「ぎっ」


『えっ』


光の射す方から、すいーっと羽の生えたナニかが飛んでくるのが見えた。
真っ黒な、ギョロっとした目の異形。
いや待って?これ……これは…


『呪霊…?』


「せーかい!良いじゃん良いじゃん、見えてるねぇ!!」


何処かからテンションの高い声がしたと同時────抱えていたぬいぐるみ(30cmゆる顔五条)が腕から飛び出し、異形を蹴り飛ばした。


『えっ』


びたん、と壁に叩き付けられた異形の顔面を、更に飛び出したぬいぐるみ(じゅじゅべあ五条)が殴り付けた。
消えていった真っ黒くろすけを見送って、そこでぬいぐるみ二人(?)がぱっと振り向いた。
駆け寄ってきて褒めて!と言わんばかりに手を広げられ、思わず抱き上げる。


『護ってくれたの?ありがとう』


にこにこしてる…かわいい…
頭にくっついている小さめのぬいぐるみ二人が、私の頭を小さな手でタップして、すっと指を差す。
ゆっくりと光の射す方に顔を向けると、ぱん、ぱん、と拍手をしながら近付いてくる影が見えた。


「呪霊もしっかり見えてるし、呪骸もちゃんと動いてる。ちゃんと術式も持ってんね。
目下の問題と言えば戸籍かな。でもそこはがどうにかしてあげる。
いやー、焦った!
目が覚めたら若返ってる・・・・・し、刹那は居ないし!」


目の前に立った男は、恐らくは本人が言った通りなのだろう。
身長は見上げはするが、巨人ではない。
そして大分近くなった顔も丸みを帯びていて、幼い。
私を見下ろしてゆるりと微笑む彼の名を、そっと口にした


『………悟?』


「なぁに、刹那?」


あの七日間より小さな手が、私の頬を優しく撫でた。
それでも優しさの変わらない蒼が、蕩けたままで私に近付く


「地獄にようこそ、刹那。歓迎するよ」









夜明け










刹那→突然終焉の七日間に挑まされた女子高生。
何も判ってないまま七日間を五条に導かれ、生き残った。
見事に吊り橋効果で釣れた。

五条→二十八歳から十六歳に。
何も知らない刹那を護り、終焉の七日間を終わらせた。
見事に吊り橋効果で釣った。














「まさか同い年からリスタート出来るとは思ってなかったし、嬉しい誤算だけど────それ以外はぜーんぶ計画通り♡」








地獄への誘い










五条→元凶。

世界ちゃん→泣き崩れてる。


馬酔木の花言葉「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしましょう」

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