馬酔木(五条家篇)

※特殊設定あり
※「馬酔木」続篇
※順調に刹那が可笑しくなっていきます。それを許容出来る方はどうぞ。










■月■日 朝


何処か判らない廃寺で目を覚ました私は、同い年になったらしい悟に手を引かれ、苔の生えた階段をゆっくりと降りていた。
竹や立派な木々に囲まれた、今にも崩れそうな廃寺と、着物姿で手を引く白銀の少年。
燦々と降り注ぐ光を浴びている悟は、最早人間離れした美しさでそこに存在していた。
漫画みたいだ、と何気無く考えて………ああ此処漫画の世界だった、と改めて自覚した。どうにも現実味がない。
手を引かれながら、悟にそっと問い掛ける


『悟、今から何処に行くの?』


「取り敢えず、俺の家かな」


『えっ』















三月一日 昼


────五条本家。
ぴったりと閉ざされた、見事な毛並みの虎が遊ぶ襖。ずらりと並ぶ格子模様の障子。この家の家紋が縫い付けられた、明らかに高そうな畳。
一輪挿しの花器からは、独りぼっちの梅の枝がゆるりと花を綻ばせていた。
立派な掛け軸の中から、猛々しい虎が此方を鋭く睨んでいる。


時代劇のセットみたいに威厳のあるお屋敷の大広間で、私はカチコチに固まっていた。
だってこの座布団もふっかふかだ。絶対高い。


そんな私の隣でゆったりと胡座をかいているのは、この家の次期当主。
私の髪を指先でくるくるしながら、上座に座る男の人と対峙している。


「……悟、その娘は何だ」


その声に肩が跳ねた。
…まるで人じゃない、下らない物を拾ってきた子供を咎める様な。
温度のない声に本能的に恐怖を覚えた私の背を、大きな手が宥める様に、優しく擦った。
ちらりと隣を見ると、柔らかく蒼が笑う。
私に向けてふっと微笑むと、悟が無表情な当主に顔を向けた。
…次の瞬間、悟の雰囲気がひどく冷たいものに変わる


「廃墟で呪霊に襲われてたから、助けた。その身に術式を刻んでいたから救助後、此処に持ち帰ってきた」


「何故だ。その娘にも親が居よう。そこに戻せば良かった話だ」


「術式も呪力も問題なし。早い内に五条で囲った方が利になるよ」


「猿の出だろう。卑しい血の女など捨て置け」


蔑む目で、当主が真っ直ぐに私を見下ろしていた。
…確かに呪術師の家で、女性が良い扱いをされないというのは原作を読んで知っていた。
でもそれは、あくまでも紙の上の話で。私に降りかかる筈もない事で。
しかし今、実際に目の前でぶつけられるのは。


同じ人間である筈なのに、まるで私が、うまれてきちゃいけなかった、みたい、で


「────へぇ、捨てんの?
…コイツが俺にそっくりなガキを産んだら、アンタ、五条の笑い者だぜ?」


ぐいっと引き寄せられ、黒の着物で視界が埋め尽くされた。
頭を優しく撫でる手とは裏腹に、もう片方の手がするりとお腹を撫でる。


「…悟、説明しろ」


ぴり、と空気が肌を刺す様な鋭さを帯びた。
それに身を強張らせた私を更に引き寄せて、悟が低く笑った


「抱いた」


「……避妊は」


「するかよ。俺の女だ。
耳かっぽじってよーく聞けよ。
俺は生涯、桜花刹那以外の女を抱かない。抱くぐらいなら死ぬ」


「貴様…!!!」


…もういやだ、当主がめちゃくちゃ怖いし、悟は悟で何か重い事を言ってるし。
そもそもアレは合意だけど仕方無かったって言うか、相手も二十八才の悟だったから今の悟じゃないし、大体それを父親であろう男の人に暴露するのはちょっと………
怖いやら恥ずかしいやらで非常に居たたまれなくなり、縮こまる私を優しく宥めながら、尚も悟は言葉を吐き出していく


「で?俺はもう覚悟を示したけど。アンタは?卑しい血の小娘を追い出して、五条の至宝の子種をドブに捨てて未来永劫笑い者になる?
それとも卑しい血の小娘に暖かな家を用意して、うるさい雑魚に嘲笑われながら、五条の未来の安泰を望む?
あは、プライド高ぇアンタにとっちゃどっちも地獄みてぇな二択か?
まぁ良いや。好きな地獄を選んでよ、オトウサマ♡」


自分の価値をしっかり理解している男の提案に、当主の言葉が止まった。
沈黙が重く身を浸し、最早空気が物理的に肌を刺しているんじゃないかという程に痛い。
帰りたい。こわい。むり。なんでもいいからなにか言って。
地獄の様な空気の中でひたすらに願っていれば、地を這う様な声が、沈んだ空気を震わせた


「…………良いだろう。その娘をお前の婚約者として支援する」


「聡明な御判断、アリガトウゴザイマス♡」


そう嘲る様に返すと、悟は座布団を蹴って立ち上がり、私を抱き上げた。
そのまますたすたと障子に向かっていく悟の背に、温度のない声が投げ付けられる


「何のつもりかは知らんが、その話し方を止めろ。貴様に感情など与えた覚えはない」


…言葉を、失った。
感情を与えた覚えって、なに?
それが人に、況してや親が子に言う言葉なのか。嘘でしょ。どうして。
なんで。この人、何でさっきから悟を、物みたいに……
形容出来ない激情にぎゅっと眉を寄せた時、直ぐ傍からくすくすと笑う声が聞こえた。
………斜め上。
悟が、艶のある唇から柔らかな笑い声を溢している。


「んふふ、可愛いね刹那」


『え…』


「あは、可愛すぎてつい言っちゃったじゃん。……あんまり溺れさせるなよ、オマエが息出来なくなっちゃうよ?」


……多分、私に理解させる気はないんだろう。
でもその蒼い目は、とろとろに甘い色を含んで私を見ていた。
幾ら疎いと言われる私だって、そんな眼を向けられてしまえば、流石に判る。
恥ずかしくて首もとに顔を押し付けると、甘い声が擽ったそうに笑った


「そのまま、動いちゃダメだよ」


そっと囁いて、さっきまで甘かったその声が────次の瞬間、氷の如き鋭さを持って吐き出された。


「────イキってんなよ、雑魚。
俺は俺だ。ガキ使ったお人形ごっこがしてぇならお袋と相伝ガチャ回してろ。
オマエのうっすい精子じゃどうせ“五条悟の劣化版”しか出来ねぇだろうけどな」


「貴様…!!!!無礼だぞ!!!」


「そりゃドーモ。ごめんねー悟くん反抗期だっちゃ♡」


あかん(あかん)
何故父親を盛大に煽るの?やめよう?父親に雑魚は駄目でしょ?
悟はあろう事か脚で障子を開け放った。すぱーん!!といやに音を響かせ、最後、肩越しに激昂しているであろう当主を見る


「じゃ、そういう事で。……ああ、刹那に手ぇ出したら殺すから」


序盤は明るかったのに、最後の一言は地を這う様なド低音だった。
脳内で温度差をモロに食らって絶滅したグッピーが、恨めしい眼で私を見ている。
……わたし、頼る相手間違えたかな???











三月一日 夜


夜。
本棚の並ぶ大きな部屋で、私は悟に膝枕をしていた。


『ねぇ悟』


「んー?なぁに?」


閉じられていた瞳が、けぶる様な白い睫毛の奥から姿を現した。
その美しい光景を静かに見つめてから、昼間の騒動を思い出す


『良かったの?お父さんをあんなに煽って』


昼、悟は実の父であろう当主を盛大に煽り、私と私室であるというこの部屋に籠った。
夕方までは家令だとか使用人だとか、様々な人が来たけれど、悟はそれらを全て無視したのだ。
いや、双子の男の人と女の人にだけは、何かを指示していただろうか。
その間、私は群がるぬいぐるみ達に遊ぼう!と言わんばかりに絡まれていたのだが。
夜になると、彼等は疲れたのか部屋の隅で皆で集まって眠ってしまった。呪骸だとは思うけど、どういう仕掛けなんだろうか。
せめてとふかふかのタオルを被せてあげれば、大きなゆる顔五条ぬいがにこっとした。かわいい。
その後から人の膝の占拠を始めた悟は、私の意識を引き戻す様に、肩から流れる髪に指を巻き付けた


「良いんだよ。俺は卒業後には当主を継ぐ予定だし、実際五条に俺を凌ぐ呪術師なんて居ない。
それに、刹那の言う原作じゃあ俺以外の五条も居なかったでしょ?つまり、そういう事だよ」


『……五条悟のワンマンチーム』


「大正解!…弱いなら弱いなりにアタマ使って生き残れよってハナシ。
五条は俺が居ればデカい顔出来るしね、“僕”を頭に据えた方がメリットが大きいって踏んだんだろ。
……俺だって、継ぎたくはないんだよ。出来るならさぁ、なーんにもせず日がな一日布団で寝っ転がってみたい」


ぽつりと溢された言葉が、二十八歳の悟の本音に思えて。
最強なんてものを背負わされて、産まれた瞬間から世界の均衡を崩したなんて言われ続けて。
親友に背を向けられても、ひとりで、ずっと。


ずっとこの世界を独りで支えるという事は、どれだけ彼を蝕んだのだろう。
……どうして、私は彼から逃げてしまったんだろう。


思わず、シミ一つない頬を撫でた。
ひんやりとした頬を掌に押し付けて、悟はふにゃりと笑う。


「んふふ、こうして甘やかされるんなら、“僕”が頑張った甲斐もあったなぁ」


『…お疲れ様、悟』


「ありがと。オマエが撫でてくれるなら、直ぐ元気になっちゃう」


『ふふ』


「あ、信じてないな?ほんとだぜ?」


ぷくっと頬を膨らませる悟。
…くるくると表情を変える悟を見ていると、昼間に投げ付けられた冷たい声を思い出した。


────貴様に感情など与えた覚えはない


…親子って、そんなに悲しくなるものだっけ。
父さんって、そんなに冷たい声で話してたっけ。


『………悟』


「ん?」


言葉が、ぽつりと落ちた


『…私さ、家族って、暖かいものだって思ってた』


理由なんかないけど、暖かいものだって。
喧嘩しても、ごめんねって言えば仲直り出来る様な。晩御飯つまみ食いしたとか、洗濯物引っくり返して洗濯機に入れなかったとか、靴下の畳み方とか。
そんな下らない事で喧嘩するのが……喧嘩出来る事が、本当はとても素敵な事だって、知らなかった。


『…悟が、悟のお父さんに感情を与えた覚えはないって言われてるのを見て、すっごくさびしかった』


…この部屋にあるのは本ばかりだ。
それも、朧気な墨の文字が刻まれた背表紙しかない。
ぎっしりと年季の入った本達が身を寄せる本棚が壁を占拠して、押しやられる様に隅にある桐箪笥と、障子の方に文机がぽつんとあるだけの部屋。
文房具と最低限の衣服は既に寮に送ったと悟は言うけれど…今年高校生になる子供の部屋というよりは、ただの書庫の様に見えた。


『……悟、こんなに色んな感情を見せてくれるのに。それを、家族が否定するって…なんか、やだよ』


「………」


静かに悟が身を起こした。
優しい手付きで頬を包まれて、そっと上を向かされる。
直ぐ傍で、蒼が柔らかな光を抱いていた


「……ごめんね、刹那。俺、ああいう態度取られるのが普通だったからさ。オマエのやだが判んない」


『………』


口を閉ざす私に、悟の唇が薄く開いた。
それを一度閉ざすと、言葉を選ぶ様に、ゆっくりともう一度開かれる


「でも。でもね、刹那。
……刹那が俺を思って悲しんでくれるのは、すっごく嬉しいよ」


低い声が、とっておきの秘密を囁く様に、甘く掠れた。
目の前で蕩ける蒼に、ゆるりと弧を描く口許に、哀の感情は汲み取れない。


……本当に、私の言葉が嬉しいのだと。


父親の酷い言葉なんて全く気にしていないのだと伝えるその態度に、私は一度口を開いた。
けれど、言葉は出なくて。
結局何も言えず眉を下げた私に、悟がとろりと微笑んだ


「ああ、かわいい。本当に可愛いね、オマエは。
刹那が気にする事じゃないんだよ。此処はそういう場所だから。
俺はそういう家で産まれて、そういう教育を受けたってだけ。
確かに此処に居る間は、俺は機械みたいだったよ。
でも大丈夫。今はもう、感情がある。
…それじゃあだめ?刹那はまだ、かなしい?」


……悟は嬉しくて仕方がないと言った表情で、情けない顔の私をうっとりと見つめている。
その眼差しを受け止めながら、小さく返した


『…かなしいけど、だいじょうぶ』


「……ふふ。かわいい。あいしてるよ、せつな」


うっそりと微笑んだ悟は、そう言って唇を重ね合わせた。













「おやすみ、刹那」


『うん。おやすみ、悟』


隣の布団で眠る悟に挨拶をして、静かに目を閉じた。
…思えば、此処最近は大変な事ばかりだ。
六日前、突然悟がやって来て。
五日前、皆居なくなって。
四日前、鳥も魚も居なくなって。
三日前、太陽も月もなくなって。
二日前、陸と海が消えて。
一日前、空がなくなって。
そして、体感的には今日の朝。
世界だっていう八つ首の大蛇が現れて。
お昼には、知らない廃寺で目を覚まして。
それで、悟が迎えに来てくれて。
此処は、悟の世界で。
今の私には呪力も術式もあって。
悟の婚約者として、此処に置いて貰う事になって。
…いや、そもそも婚約者なんて子供だけで決められるものなの?
五条の当主は同意したけど、此方は家族に何、も……


………って、ちょっと待って。
今の私って、そもそも戸籍ないんじゃ…
……戸籍?そういえば、わたしの……かぞく…、…って…
……………、…、……。


『─────、』


………………あ。
きづい、ちゃった。


…………此処には父さんも母さんも、弟も妹も。


……だれも、いないんだ。
いなくなったとかじゃなくて。
……さいしょから。
そんざい、しないんだ。







………わたし、ほんとうにひとりぼっちに、なっちゃった。







ぞっとした。
…考えない様にしていた筈の事実を思い出して、ぶわりと目が熱を持った。


そうだ、此処は、私の居た世界じゃない。


父さんも母さんも弟も妹も、友達も、誰も最初から存在しない世界で。
此処じゃ私は、透明人間で。
私を知ってる人なんて、私の居場所なんて、この世界の何処にも────


「刹那」


低くて甘い声が、宝物を撫でるみたいに優しく私の名前を口にした。
導かれる様に、そっと身体を反転させる。
振り向く振動で涙が溢れた。
そんな私を見て、悟がゆるりと微笑んだ。
そっと、布団が持ち上げられる


「おいで」


もぞもぞと、隣の布団に潜り込む。
暖かな空気に迎えられ、肩まで布団を掛けられた。
鼻先が触れ合う距離で、優しい蒼が私を映していた。


「怖いよね…でもね、大丈夫だよ。
なんたって君には、最強の僕が付いてるからね」


……世界が突然崩れたあの日も、悟は今みたいに、優しく笑って私を安心させてくれた。
俯いて、しゃがみこんで動けなくなった私を抱き上げてくれた。
そう、今みたいに優しい声で。


『………さとる』


「なぁに?」


包み込む様な甘い声に、涙が一粒、溢れた。


『わたし………ひとりに、なっちゃった』


「……違うよ、刹那」


低くて優しい声が、頼りなく揺れる言葉を掬い上げた。
自然と視界が潤む。
頬を涙が流れ落ちて、長い指がそっと、壊れ物を扱う様に、優しく触れた


「俺は……僕はずっと、刹那の傍に居るよ。だから独りぼっちじゃない。オマエを独りぼっちになんかしやしないよ。
…好きなだけ泣きな。今の僕達、ふたりぼっちなんだから」


慈しむ様に、優しく頬に唇が降ってくる。
ちゅ、ちゅ、と涙を吸い取られる感覚が恥ずかしくて俯いた。
けれどそれは許されず、長い指に顎を掬われて、また綺麗な顏と向かい合う。


「ひとりじゃないよ。俺が居るよ」


言い聞かせる様に、甘い声が優しい響きで降り注ぐ。
何度も何度も、優しい言葉が注がれる。
泣いて動けない弱い私を、暖かい腕が包み込んだ。


「可愛い刹那。大丈夫だよ。僕が居る」


目尻の涙を吸い取って、最後に優しくキスが唇に落とされる。
ちゅ、と唇を優しく吸われた。
しっとりとした唇が離れたあと……しょっぱさを感じて、火を噴きそうな程、身体の熱が上がった。


『…………ありがと』


蚊の鳴く様な声を拾ったらしい悟が、ゆるりと大人っぽく微笑んだ。
…どきり、と。
心臓が高鳴って、なんか妙に、胸がきゅうっとする。


「ふふ、もっと泣いても良いんだよ?泣き止むまでずうっと慰めてあげる」


『…恥ずかしいから、もう遠慮する』


……どうしよう、顔を上げられない。
あれ、悟ってこんなに格好良かったっけ?いや、格好良いのは判ってた。でも、なんか今までと違うのだ。
ただただ芸術品みたいな美人だと思っていたのに。
でもこんな、見てるだけでどきどきする、なんて。そんなの……


「……んふふ、もしかして」


『え、なに?』


顔を上げると、じいっと私を見つめる蒼と目が合って……恥ずかしくて、また悟の鎖骨とお見合いを始めてしまう。
待って、わたしなんか変じゃない?
俯いたままで固まった私の上から降ってくる笑い声。
ぎゅうっと強く抱き込むと、悟はひどく嬉しそうに言葉を踊らせた


「刹那、俺の事好きって気付いちゃった?」


『…………………………えっ』


…好き?
私が?悟を?
いや、好きだよ。でも待って。
目が合うとどきどきして、くっついてるだけで火が出そうな程熱くて、声を聞くとそわそわして。笑ってくれると、きゅんとして。
こんなの、経験した事なんてない。
待って、これって…


『〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ』


真っ赤になったであろう私を、悟が馬乗りになって見下ろしている。
此方を見つめ舌舐りする様が、くらくらするほど艶かしかった


「んふふ、じゃあ身体に聞いちゃおっかなー」


『は?ちょ…………』


すっと大きな手が寝間着の合わせに伸びた。ゆっくりと布地の下に指先が侵入してきて、じんわりと体温が侵食してくる。
可笑しくなりそうなほど熱が上がって、腰がぞわぞわする。
またあんな事をするのか。ぐちゃぐちゃになって、なんにもわからなくなる、あれを。
堪らず手首を掴んで制止を求めた。
蒼が静かに、此方を見つめる。
じっとりと湿度を持った眼差しが注がれる事、数秒。
綺麗な顔を近付けて、悟がゆうるりと微笑んだ


「大丈夫、こわくないよ。
大切にするから、刹那を全部ちょうだい?」


はくり、唇が酸素を求める様に動いて。
否と告げようと、口を開けて。


『……………うん』


……嬉しそうに笑いながら、愛しいと囁きながら肌を重ねてくる悟を、思い出して。そうしたら、もう拒絶なんて、出来なくて。
手首を掴む手が、布団に落ちた。
その影を追う様に、大きな手が指先まで絡み付いた。


「うん、いいこ。
一緒にきもちよくなろうね」


ふんわりと微笑んで────大きな影が、覆い被さった















三月二日 朝


……悟は格好良いと思う。
顔は綺麗で、声も低くて甘い。
それに何より……意地悪でちょっとイカれてるけど、優しい。


「ほーら、乱れてるよ」


『…そう思うなら、もう少し離れて』


「やぁだ♡…ふふ、かぁいいね。俺の事好きーって顔、してるよ?
…昨日の事、思い出しちゃった?沢山イッちゃってたけど腰痛くない?」


『あーあーセクハラ!!!』


背後から温かな身体に包まれながら、私は呪力の操作を試みていた。
悟は私の肩に顎を乗せて、恥ずかしがる私の反応を楽しんでいる。


なんて酷い男なんだろう。
…好きだと気付いてしまって、昨日もあんな事して、此方は目も合わせられないと言うのに。


「こーら。どんな時でも呪力は一定。ブレブレじゃん、お仕置きされたい?」


『…ツカモト的なのはいやだ…痛そう…』


「あんなのさせるかよ。オマエを傷付けるなんて例え訓練でも呪骸でも許さねぇ。
……でも、そうだな。俺に抱かれてるって意識しちゃうと恥ずかしくて呪力操作どころじゃないみたいだし……アイツ置くか」


『言い方ぁ…』


お腹の上で組んでいた手を外すと、悟は部屋の隅で人生ゲームをしていたぬいぐるみ達に声を掛けた


「一号、オマエ刹那の膝に乗って。呪力が乱れたら声出してね」


《わかった!》


たーっと走ってきたのは30cmゆる顔五条ぬいぐるみだ。我が家から持ってきた子だが、何だか妙に此方に馴染んでいる。
膝に乗ったぬいぐるみのお腹に手を回せば、一号と呼ばれたその子はにこっと笑って私を見た


《パパ!》


『…ふふ、悟、パパだったの?』


「ん?…ああ、ソイツの言うパパはオマエだよ」


『え???』


なんで???
目を丸くする私の腕の中の一号を覗き込んで、悟が私を指差した


「ポチ、刹那は?」


《パパ!》


次いで、悟が自分を指差した


「じゃあ俺は?」


《ママ!》


『まま…??????』


「wwwwwwwwwwwwwwwwwwww」


え?悟のお腹から産まれたの???
どういう事?悟がママ…?なんで私がパパ…???
爆笑する悟を放置して、にこにこしているぬいぐるみを見つめた


『…わたし、パパなの?』


《パパ!》


『そっかぁ…パパかぁ』


うーん、ゲームセンターから持って帰っているから、私が親って事なんだろうか。じゃあ悟は何故ママ…?
困惑しつつ、結局合流したぬいぐるみ達にわちゃわちゃと膝を占拠された。


《パパ!》


《パパ!》


《ママ!》


《まぱ!》


「オイ一匹可笑しいぞwwwwwwww」


《まぱ?》


《まぱ!》


《パパ!ママ!》


《まぱ!》


四体で一斉に騒ぐのでとても賑やか。
思わず笑いながらぬいぐるみの頭を撫でていれば、楽しそうな悟が言った


「あ、そうそう。これぜーんぶ呪力乱れてるよーって警告だからね?」


『いや判んないからね???』













三月二日 昼


お昼を過ぎて、じゅじゅべあ五条をお供に広いお庭の散策に繰り出していた。
悟は当主に呼び出され、大変不機嫌そうに部屋を出ていっている。
もしかしなくても私関連の話だろう。


…迷惑、掛けちゃってるなぁ。


彼方の世界でもずっと護ってくれた悟。それなのに、今度は此方の世界で世話を掛けている。
きっと私に出来るのは、早く一人前の呪術師になって、悟が心配しなくても良い程に強くなるぐらい。
いや、強くなれるか解んないけど。でもこのままじゃ、悟に申し訳が立たない。


『ポチ、お散歩の後はまた訓練に付き合ってくれる?』


《ワン!》


『ありがとう。…ふふ、くまなのにワンって、なんかへん』


《???》


『ふふふ』


綺麗な蒼い眼のぬいぐるみの頭を撫でて、大きな梅の木を見上げた。
荘厳さすら感じさせる、太い幹の大木だ。きっと大切にされてきたんだろう木を見上げていると、ざり、と背後から砂利を踏み締める音がした。
振り向くと、知らない女の子が佇んでいた。使用人の着物を着た彼女は、振り向いた私ににこりと上品な笑みを向ける


「刹那様、悟様がお呼びです」


『判りました。ありがとうございます』


じゅじゅべあを抱っこしたまま爪先を屋敷に向ける。
そのまま歩きだそうとした私の腕から、急にぬいぐるみが飛び出した。


《グルァ!!!!》


「ひ……っ!!」


『えっ!?』


二号と呼ばれるじゅじゅべあが唸り声を上げているのは、先程の使用人だった。
その手には15cmぐらいのナイフが握られていて。
その切っ先が狙っていたのは、きっと。
……血の気が引くのを感じた。


『っポチ!早く部屋に────』


「悟様にどうやって取り入った、薄汚い小娘」


『!!!』


直ぐ後ろから、怨嗟に満ちた声がした。
その瞬間、まるで世界がスローモーションになったみたいに。
振り向こうとした私の背後。ぎらりと光る長いもの。
私を憎いと言わんばかりの眼で睨む、男の鬼の形相。


「悟様に近付くからよ、阿婆擦れ」


嘲る様な高い声が、鼓膜を揺らして────












……雪が、降っていた。
その場に座り込む私の足許は所々凍り付いて、漣の様に荒々しい形を作る。
荘厳さすら感じさせる大木は、今は凍えて氷の華を咲き誇らせていた。
息が白い。かたかたと震える肩を、押さえ付ける様に両手で抱いた。


『は…っ…は……っ』


────目の前に、氷の像があった。
鬼の形相の、脇差を振り上げた男。
氷の中に閉じ込められたその男は、さっきまで、確かに私を殺そうと、していて────


「ば、ばけものっ!!!!」


『!』


弾かれる様に振り向くと、使用人の女が私を怯えた眼で見ていた。
刃物を持っていた右手は漣に絡め取られ、形も判らない。
凍てついた腕を取り出そうと、白い手が氷を掻いた。


《パパ!》


『……ポチは、だいじょうぶ?』


………多分、これは、私の所為だ。
何も解っていない。けれど確かに、これは私が引き起こした事態なのだと、理解はしていた。
ぴょんと飛んだくまのぬいぐるみが胸に飛び込んでくる。
凍える私の頬を撫でて、かくりと首を傾げた


《パパ ひんやり?さむい?》


『…そうだね』


「早く術式を解きなさいよ、ばけもの!!!」


女が叫んでいる。きいきいと、猿にも似た声で。


…ああ、うるさいな。


眉を寄せる。
ひらり、降ってきた雪がその手に触れると────ばきり、と勢い良く凍り付いた。


「きゃあああああああああああ!!!!」


劈く様な悲鳴が広い庭に響く。
それを耳にした家の人達が次々と現れて、皆、同じ様に動くのだ。
最初に驚き、それから私を睨んで。
そして、恨みの言葉を投げ付ける


「悟様は何故この様な小娘を」


「さっさと殺してしまえば」


「術式もまともに使えぬのか。これだから女は」


「早く術式を解け。その方は悟様の────」


────だめ。
おこっちゃだめ。こわがっちゃだめ。
さっきもそうだったでしょ。
怖いって思ったら、ムカつくって思ったら、きっと。


ばきり、


「貴様!!悟様に拾われた恩を仇で返す気か!!!」


《グルルルルル…》


「早く私を助けなさいよ!私は悟様の婚約者なのよ!?
とっととあんなブス殺せば良いじゃない!!!」


「早く片付けろ!」


「悟様に見付からない様にすれば────」


ナイフを持っていたのはあっちなのに。皆して、私ばかりを悪者にする。
判ってる、私は邪魔者だって。
でもせめて、この氷の解き方を教えてよ。
判んないよ。どうすれば良いのか、なんでこうなったのか。ぜんぶ、なんにもわかんない。
焦って、どうしようって思ったら余計に凍りついて。でもこのままじゃだめで。どんどん凍っちゃって。さむくて。
……わたし、どうすればいいんだろう。


「来い!」


「座敷牢に入れるぞ。精々時間稼ぎぐらいなら…」


ずかずかと近付いてきた男に腕を掴まれる。乱暴に引き上げられ、痛みに顔を顰めた。
ばきり、また何かが凍って、悲鳴と怒号が上がった。
胸を占めるのは、諦念。
……ほら、やっぱり。
こんな世界に、私の居場所なんて────


「────ねぇ、何してんの?」


……凍てついた庭に、それよりも温度を感じさせない声が響いた。
私にとっては聞き慣れたもの。誰よりも優しくて、安心できる人の声。


『………さとる』


泣きそうな声が出てしまった。
簡単に掻き消されてしまいそうな呟きは、それでもしっかりと彼に届いた様だ。
綺麗な蒼が此方を見つめ、ふわりと微笑んだ


「遅れちゃってごめんね、刹那。……なにオマエ勝手に刹那に触ってんの?汚れんだろ、離せ」


「あ、ぎ………ッ!!!」


ごきん、と初めて聞く様な音がして。
私の腕を掴み上げていた男の腕が、ぐしゃぐしゃになっていた。
まるで捻り切る様に形を変えた腕に男は絶叫し、のたうち回る。
それに一切目を向ける事なく、悟は堂々と此方に近付いてくると、私の前でしゃがみ込んだ


「こんな所で座り込んじゃダメだよ。風邪引いちゃうよ?」


「悟様!その女はわたくしと護衛を急に術式で……」


「あ?話し掛けんなブス。…刹那、暖かいトコに行こっか。はい、首に腕回して」


『……でも』


「だいじょうぶ。ほら、おいで」


…悟の指示に従った私の身体が長い腕に包まれて、浮き上がった。
腕に触れる体温が心地好くて身を寄せると、くすくすと甘い声が踊った。
…この蒼は、何時だってわたしを受け入れてくれる。
だいじょうぶ。この人は、わたしを否定しない。
この人は、きっと凍らない。


「寒かっただろ。早く部屋に帰ろうね」


『……さとる』


…わたし、ひどいことしちゃった。
呟きは、柔らかな微笑みで包まれた


「大丈夫、俺に任せろ。……ちょっと疲れちゃっただろ?後は俺が片付けるから、少しお休み」


とん、と額に指先が触れる。
ぶわりと頭を暖かいものが包み込んで、意識は緩やかに遠退いた。














ゆっくりと、目を開ける。
視界いっぱいに広がる黒と、甘くてすっきりした匂い。
……悟の匂いだ。
擦り寄れば、くすくすと低い声が笑った


「かわいい。おはよう刹那、どっかキツかったりしない?」


『おはよう悟。…異常はないよ』


「そっか。安心したよ」


少しだけ身を離して、悟と視線を合わせた。
私を緩く抱き締める彼は、とろりと蕩けた瞳で此方を見つめている。
きらきらと輝く宇宙の様な蒼をじっと覗き込んでいると、悟が静かに口を開いた。


「…さっきの件は、勝手に婚約者だなんて名乗る馬鹿な女とその従者の暴走だった」


『………そう、なんだ』


「ごめんね、俺が刹那を一人にしなきゃ良かった。……怖かった?」


そっと頬を撫でられて、静かに涙が溢れた。
布団に向けて落ちていく涙を払いながら、悟が痛ましそうに表情を歪めた


「…ごめん、刹那。此方に来てから、俺はオマエを泣かせてばかりだ」


『…ちがう、ごめん悟。直ぐ泣いちゃってごめん』


「謝るなよ。オマエがいっぱいいっぱいなのは判ってるつもり」


そっと引き寄せられて、胸元に顔を埋めた。頭を撫でて、もう片方の手で私の背中を擦りながら、優しい声で悟が囁く


「好きなだけ泣いて良いよ。泣くのはストレス発散になるから。
怖い思いをしたのに、良く立ち向かったね。えらいえらい。
…刹那が怪我してなくて、本当に良かった」


甘い声が、労りという感情とたっぷりの愛を私に注ぎ込む。
…きっとこの世界でこんなにも私を愛してくれる人は、この人だけなんだろう。
そっと背中に腕を回す。
あの七日間より薄い背中は、それでも温かくて、大きい。


「すき。愛してるよ刹那。だから、これからはもう独りで泣かないで。俺がずっと傍に居るからね」


何も言えず、嗚咽を押し殺して泣く私を悟が優しく包んでいた。
















三月十日 昼


後日、五条の武道館。
畳に正座した私は、胡座をかく悟と向き合っていた。


「じゃあ、ちょっと呪力を出してみて」


『はい』


集中する。
目を閉じて、自分の中から何かを引っ張り出そうと……引っ張ろうと……どうにか、こう…なんかでない…?出ないかな…?出た?


「全然ダメね」


『…ごめん』


「謝んなって。オマエは言わば、ある日突然呪力に目覚めちゃった非呪術師なんだよ。というかそれよりもっと感覚的に判りにくいと思う。そもそもアッチとコッチじゃ理が違うし。
だから、オマエは呪力の引き出し方も判んなくて当然なの」


そう言って笑った悟を、思わずぽかんとした顔で見つめてしまう。
…てっきり才能ないとか、雑魚とか言われるかと思ってた。
口には出さなかったけれど、表情で察したのだろうか。
きょとんとした顔で目を瞬かせ、それから悟は目を尖らせた


「あのね、これでも人生二週目よ?しかも一回目は教師。迷える子羊に知恵を授け、導く立場だったワケ。
そんな俺からしたら、今のオマエは赤ちゃんどころか卵なの。
才能云々の前に、せめてひよこにはなって貰うよ」


『私は産まれてすらなかった…???』


「俺が大切に暖めてる卵ちゃんだよ。大事にしてあげるから早く産まれておいで。
…さて、刹那は呪力の源は知ってる?」


悟に問われ、以前目にした原作の内容を引っ張り出した。


『えーと、怒りとか悲しみとか、負の感情』


「そ。引き出す鍵は人それぞれ。
まぁ負の感情のどれでも呪力を引き出せる様になるのがベストだけど、そういうのが出来るのは呪術師の家に生まれたヤツらとか、一級のレベルだし。
初心者コースとしては、特定の感情を鍵にするのがオススメ」


『悟は?』


「殺意かな。…あは、冗談だって。そんな怯えないでよ。
じゃ、話を戻すね。
今までの刹那はさ、非術師と同じで呪力が外に放出されてる状態だったんだよね。
力の向きを変えようと思ってアイツらを握らせてみたんだけど…術式を使った後の呪力の向きが、内側の循環になった。
つまりは完全に呪術師の構造になったんだよ。それなら話は早い」


悟がゆったりと口角を上げ、続けた


「刹那は先ず、どの感情が呪力を引き出しやすいのかを調べよっか。
呪力の揺れ幅が大きければ、その感情が一番心を揺らしてるって事だから、取っ掛かりにしやすいと思うよ。
それから呪力操作に取り組んでもらって、最終的に小さな感情で呪力を引き出せる様にしたいかな」


そう言って、悟は顎を撫でた。


「うーん、一番メジャーなのはやっぱ怒りかな。刹那、ちょっと怒ってみて」


『えっ』


「イラッとしたのを思い出す、とかでも良いよ」


そう言われ、此処最近イラッとした事を考え始めた。
弟が私のプリン食べた事?妹の泣き声が大きい事?友達がやたら山田との仲を取り持とうとする事?
悟が私に「え、ひ弱…ねぇ、歩いただけで膝から崩れ落ちたりしない…?冷蔵庫を開け閉めした振動で複雑骨折しない…???」って真面目な顔で言ってきた事?あ、いらっとした。


「んー………いやゆらっとしただけだわ。怒りの感情が薄過ぎない…?
え、待って刹那って怒れる…?
脆弱すぎて怒り方すらもひ弱なの…?え?可愛いね…?オマエを構成する遺伝子がもう脆弱すぎて可愛いね…???
もう存在が愛しいね…???」


『すっっっっっっっごいいらっとした』


「え???なんで???」


馬鹿にしてるって気付け。脆弱を連呼するな。私からすればあんたはスレンダーなゴジラである。
取り敢えずその御尊顔をぶん殴りたいんだが、呪力は上手く引き出せているんだろうか。
綺麗な蒼でじいっと此方を見つめて、それから悟は首を傾げた


「ダメだ、ゆらゆらーってして、止まった。…刹那、怒るの苦手だったりする?」


『うーん、疲れるからあんまり好きじゃないかな。もう良いやって諦めちゃう』


「へぇ………………………」


『なに?もう言いなよどうせ馬鹿にしてるんでしょ』


「怒り続ける体力のなさと許しちゃう甘っちょろさが可愛いね」


『とてもイライラする』


「紛う事なき本音なのに…???」


余計にタチが悪いって気付け。
眉を寄せたものの、結局私の感情は悟が望む程に揺れなかったらしい。
むむ、と頬を挟み、口を突き出して悩んでいる


「多分、刹那は怒りの鎮火の速度が早いんだよね。アンガーマネジメントってヤツ。それを無意識下に行ってる可能性が高い。
そういうタイプは怒りじゃなくて、他の感情から攻めるのがベストかな」


『怒りにくいのって、呪術師としてダメ?』


「ダメじゃないよ。別にどの感情が攻撃力上がるとかそんな設定ないし。
好きな感情で呪霊祓えば一緒だろ」


そういうものなのか。
へぇ、と呟く私の前で、悟が指を立てて揺らした


「じゃあ……次!悲しいこと!」


『五条悟が予想以上に煽リストだった事』


「あ゙?????????」


めちゃくちゃドスが利いた声が返ってきて、あー、高専五条だーなんてしょうもない事を思った。
そういえば悟はあと一ヶ月もしたら呪術高専に行くんだっけ。私ってどうなるんだろう。
そんな事を考えていたのを見抜かれたのか、長い指にデコピンされた


『いたっ』


「集中しな。育ててあげるけど、出てこないなら此方からナカに突っ込むよ」


『言い方やらしいのどうにかならない?』


「なぁに?欲求不満?判った、今夜セックスしようね」


『たまに自分が日本語話してるのか自信なくなるんだよね』


「安心して、刹那の言葉を聞き逃すなんてしないよ」


『会話の大事な所拾い損ねてるよね』


はぁ、と溜め息が漏れた。
何でこんな奴好きになったの、私…
後悔する私をケラケラと笑って、それから悟はすっと真面目な顔を作った。
一気に空気が引き締まる。
思わず背筋を伸ばした私を、蒼が静かに映した


「…正直な話、刹那はこの辺りなら呪力を揺らしやすいと思ってるよ。
悲しさ、怖さ……ゆっくり考えてごらん」


静かに諭す様に言われ、ゆっくりと目を伏せた。
悲しさと怖さという言葉を思い浮かべた時、先ず浮かぶのは……平凡で、それでもかけがえのなかったあの平和な日々だ。
父さんと母さんと弟と妹が居て。
おやすみを言い合った次の日────その退屈で大切な日々は、瓦解した。
皆居なくなって、何もかもなくなって。
後悔したってもう遅くて。私には何も出来なくて。
………本当は、だめなのに。


独りで生き残りたくなかったと、思ってしまった。


「……もう少し、かな。ねぇ、刹那」


ゆっくりと前を見て────息を呑む。
此方を覗き込む眼が、大きく見開かれて。
全てを圧倒する蒼が、存在を蹂躙せんと私を睥睨していた


「甘ったれんな。出来ねぇなら捨てんぞ」


『──────っ』


こわい。
ひとりはいやだ。
嫌だ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ────


「………うん、術式の放出範囲と呪力の調節は必要だけど、それは追々かな。
良く出来たね、刹那。…怖がらせちゃってごめんね」


……広い武道館の中が、一面凍り付いていた。
無限で防いだんだろう、球体状に氷を張り付かせた悟がのんびりと呟いて、掌印を解いた。
その瞬間、悟を取り囲んでいた氷ががしゃがしゃと凍てついた畳に落ちる。
暖かな掌が、そっと私の頬を包んで上向かせた。
…優しい蒼が、穏やかに私を映している。
息を、そっと吐き出した。
……よかった。もう、こわくない。


「ごめんね、刹那。酷い事わざと言った。俺は絶対にオマエを捨てたりしないよ」


『……こわ、かった』


「うん、ごめんね。…呪力を引き出すどころか術式に直通か…才能は100%あるけど、先ずは怖いと直ぐに凍らせちゃう癖、直さなきゃね」


ぎゅうっと大きな身体に抱き締められる。
その背中に震える腕でしがみつけば、悟がくすくすと笑った


「可愛い…愛してるよ刹那。俺だけはどんな状況になったってオマエを裏切らないし、捨てたりしないよ。
どうか、それだけは信じて」


『………うん』


「ふふ、いいこ」













三月十一日 昼


暗い通路の中、ひた、ひた、と足音がする。
振り向いちゃだめ、だめなのに。
ゆっくりと後ろを向いて────びしゃあ!!と血飛沫が舞った


『………………………っ!!!!!』


《こおった!》


「はーいおめでとう、十回目でーす!」


ばきい!!と音を立てて凍り付いたのは、コップに注いであった水だった。
悟がリモコンを持ち、停止ボタンを押した。それから凍ったカップを掌で跳ねさせ、言う


「んー、どうしたもんかな。呪霊相手なら全然問題ないけど、日常生活で不便だろ、コレ」


『……ごめん…』


「謝んなって。此方としては術式使えない可能性も考えてたからね。使えなくて悩むより、使えて悩む方がずっとマシ」


私が術式を使える様になったのは良いものの、今度は別の問題が浮上してしまった。


私、驚くと凍らせちゃう問題。


最早雪女である。
今も、五条の屋敷の一部屋を借りてホラー映画を観ながら凍らせない様に訓練をしていたのだが……結果は十連敗。
十個目のカチコチのカップを作ってしまった私の隣で、悟はカップでお手玉を始めた。
ゆる顔五条ぬいぐるみのポチは、凍ったカップをテーブルに積んで遊んでいる。


「まぁ無差別ってよりは、無意識の内に色々判別して凍らせてるっぽいのがせめてもの救いかな。
これで無差別に冷凍人間作っちゃってたら、流石に矯正難易度ルナティックだし」


『これどうにか出来るの…?』


「んー…」


お手玉を止めた悟が此方をじいっと見つめてきた。
術式を覗き込んでいるんだろう。見つめる彼の蒼い瞳をじっと見つめ返していると、ゆるりと色っぽく眇められた


「オマエのコレはオートっぽいよね……誰にでも反応するのか、それとも選別基準があるのか…」


そんな事を呟きながら顎を掬われた。
蒼がゆるりと細められ、そのまま唇が重なる。
驚き目を丸くする中、ちゅう、と吸われ、何度も重ねては離されて。
気持ち良くて目を閉ざすと、ゆっくりと唇が舐められた。
催促に唇をうっすらと開くと、ゆるりと舌を差し込まれた。


『ぅん…あっ……ふ…』


にゅちにゅちと舌が絡め取られ、気持ち良くてお腹がきゅうっとする。
悟の背中に縋りつく私の後頭部を包む手が、わざと頭皮を指の腹で愛撫した。
ぞわぞわした感覚に背がしなる。私を押し倒した悟が、じゅる、と唾液を啜ったのがとてもいやらしい。
ソファーの上で覆い被さられて、腰を押し付けられて、ゆさゆさと揺らされて。
全部気持ち良くてされるがままになっていると、上顎の奥をにゅるにゅると撫で回して、名残惜しそうに舌が出ていった。
息を少し荒くした悟が、口許をぐいっと拭った。
そうしてじいっと私を見下ろして、首を傾げた


「驚いてもキスじゃ凍んない感じ?それとも俺は警戒対象から外されてんの?」


『………は?』


「この感じからすると多分、俺は警戒対象から外されてんのかな。となると、傷付けられる前にオートで反撃してるって事?
あれかな、オマエが怖いって思ったら出るのかも。んー、あの蛇も面倒なギフト付けたよねぇ…」


……息を乱したまま、人を舐める様な目で見ている男を凝視する。
え?…まさか、私に凍らされるかもって思いながらキスしたの?
え?………え???
嘘でしょ?実験の為にキスしたの…?


『さ……』


「ん?どうした?」


『さとるなんか、だいっきらい!!!』


「あ゙?????????」















《パパ?》


《ぱぱー?》


《おこ?》


《おこ!》


「刹那ー?ねーってば、何で怒ってんの?生理?」


『デリカシー無し男……ほんとやだ…』


「えー?俺めちゃくちゃ気ぃ遣ってんのに?」


部屋の隅で丸くなる私をぬいぐるみが囲んで、その後ろで悟が首を捻っていた。
そりゃあね?女の子から寄ってきそうな悟には判んないよ。
キスされたら私だってときめくんだよ。どきどきするし、そもそも初めてなのだ、人を好きになった事自体が。
だからどんなものであれキスされたらどきどきするし、嬉しいけど恥ずかしい。目が合うだけで頭が真っ白になる事だってある。
今回だって、びっくりしたけど嫌じゃなかったのだ。押し倒されて…その、こんな所でって思って、恥ずかしくて。でも、悟が望むならって、思ってた。
それを…この男実験って……あんな恥ずかしい体勢までしておきながら、実験って…


『ばか。もうやだ。こっちくんな』


最早流されそうになった己すら恨めしい。
膝を抱えて顔を伏せる私の前に、悟がゆっくりとしゃがみ込んだのが気配で判った。
静かに息を吐く音が聞こえる。
それからゆっくりと、優しい声で悟が話し掛けてきた


「ごめんね?…何でそんなに怒ってるのか、俺に教えて?
俺って人の心の機敏に疎いらしいから、刹那を何でそんなに怒らせちゃったのか、判んねぇんだ」


『………………』


「気が向いたらで良いよ。それまで待ってるからさ」


…こういうふとした所で大人っぽい所、ほんと卑怯だと思う。
こんな事で怒ってる私が馬鹿だっていうのは、自分でも判っているのだ。
ただ恥ずかしさと、簡単にキス出来ちゃう悟に経験の差を感じて、拗ねているだけ。そんな自分が子供っぽくてイライラする。


…八つ当たりだ、こんなの。


一つ深い呼吸を落として、ゆっくりと顔を上げた。
此方を見つめていたらしい悟は、目が合うとふわりと微笑んだ


『ごめん、もう大丈夫。…実験の話、聞いて良い?』


「ちょい待ち。その前に何で怒ってたのって話だったでしょ?」


『私が子供っぽかったってだけ。気にしないでよ』


笑って返したつもりだった。しかし悟はそれでは納得出来なかったらしい。
私の頬を包んで、顔を覗き込んできた


「あのね、刹那。俺はオマエが何を考えてどうしてそう感じたのか、知りたいんだよ。子供っぽいとか関係ねぇの。
その感情を知りたい。何を感じてどう思って何でそんな言動に至ったのか、全部知りたいんだよ」


嘘は許さないとばかりに大きく開かれた蒼。その瞳に見つめられながら、先程抱いた稚拙な感情を晒け出すべきか、惑う。
しかし悟は、その迷いすら許してくれなかった


「刹那、言え」


先程までの凪いだ態度が嘘だったかの様に、蒼が苛烈な色を宿していた。
沈黙を是としないその瞳に映され、逃げられない事を悟った私は溜め息しか落とせなかった


『……下らないよ?』


「それを決めるのは俺だ」


『……わかったよ』


何を言おうが無駄だ。こうなった悟は我を通すから。
息を吐き、それからゆっくりと口を開いた


『………悟はさ、何時も余裕そうじゃん』


「まぁ俺最強だからね」


『……えっちの時もさ、余裕そうじゃん』


「リードする側が慌てたらダサいでしょ」


『………………』


平然と返してくる悟から目を逸らす。
その慌てた姿をどんな女の人に見せたのとか、今までの女の人って、やっぱり大人っぽくて綺麗な人だったのとか。醜い部分がどんどん胸の奥に溜まっていく。
気持ち悪い。…こんな風に考えるなら、恋なんてしたくなかった。
俯きそうになる私の思考を、低い声が遮った


「刹那。そうやって黙りになってマイナス方向に突っ走るのは、オマエの悪い癖だよ」


『……ごめん』


「謝れって言ってる訳じゃねぇ。そのぐるぐる考えてる事全部口に出せって言ってんの」


長い睫毛に縁取られた蒼が此方を覗き込んできた。頬を包んだ手が、親指で優しく涙袋をさする。
あやす様にゆるゆると撫でられながら、口を開けた。


『…………凄く嫌な事を聞きます』


「ドーゾ」


『………』


「………」


『………………今までの彼女さん達は、やっぱり美人でモデル体型だったんですか…』


き…聞いてしまった…。
いやこれそうだよ?とか言われたら逆に私はどうすれば良いの?
だって私胸ないよ?ぺったんこだし、身長も高くないし、可愛くもないし…いやなんでコイツ私を好きって………ん?


そう言えば私、付き合ってって言われたっけ…?


『………まさか、私ってセフレ…???』


「────オイ、今の訂正しろ。
幾らオマエでも赦さねぇぞ」


はっと思い至った瞬間、地の底から響いたレベルでヤバい声がした。
……目の前でごっそりと表情の抜けた美人が私を睨んでいる。
怖い程真顔になった悟が、見せ付ける様に、口角だけを吊り上げた。
…これだけは判る。地雷踏んだ。


「オマエはさぁ、俺の地雷踏むの好きだよなぁ」


『ひっ』


「今までの彼女さん?セフレ?
…はは、面白ぇ冗談抜かすじゃん、ウケる」


ウケてない。ぜんっぜん目が笑ってない。
棒読みで笑った男は、突如私をその場に押し倒した。
指先がねっとりと絡み付き、恋人繋ぎで床の上に縫い付ける。
鼻先が触れ合う位置まで顔が近付けられた。
ギラギラした蒼が、煮えたぎるマグマの様に熱を立ち上らせていた。


「────悪かったな、こちとらオマエしか抱いてねぇし、愛してねぇ。
恋も愛もオマエにとっくに捧げてんだ。有象無象なんか誰が触るか。
俺はオマエを、殺してぇ程愛してんだよ。
オマエだ刹那、オマエだけを愛してる。
…だから、他の女を抱いたなんて妄想を二度とすんな。虫酸が走る」


『』


「返事」


『ひゃい…』


恐ろしく低い声で恫喝染みた愛の言葉を綴られた場合、人間フリーズするらしい。
…いや、普通に恫喝だった。
それなのに、なんで。


『………』


「…顔赤いけど?……へぇ、もしかして、強引に迫られるの好きなの?」


『ち、がう』


怖かったけど、真っ直ぐに愛情をぶつけられてしまって。それが、乱暴だったけど悟の本心だって、伝わるから。
だから、恥ずかしいだけだ。
強引に迫られるのは好きじゃない。
目を逸らす私を見下ろす蒼がにんまりと笑った


「ふぅん?…ま、良いけど。
そもそも“僕”がキスもハグもした事なかったの、オマエの所為だから。
責任取って今世も来世も来々世も…魂が擦り切れるまで永遠に俺の傍に居ろよ」


『えっ、重………』


「ぁ゙あ゙???」


『ハイ,ソバニイマス…』


こっわ。
急に輩みを出してくるじゃん……













三月十二日 朝


痛む腰を擦りつつ、私の髪を指に巻き付けて遊ぶ男を睨んだ


『…悟が横暴だ』


「んー?絶賛交際中で、未来の夫である俺に、何か、文句でも???」


『なんでもないです…』


昨日の事なのにすっごく根に持つじゃん…
うっかり私がセフレではないかと疑ってしまったのが悪いのか。
でも付き合ってってお互い言わなかったじゃん…恋愛素人なんだよ私…婚約者っていう今の立場だって、実はある程度経ったらポイ、とか有り得ると思ってたんだよ…


「…俺だってさ、初恋なんだよ」


ぼそりと落とされた言葉にそちらを見ると、悟がごろりと寝返りを打つ所だった。
でもその白銀の髪から覗く耳は、赤い。


「余裕なんてないの。カッコつけてんの。……好きなヤツにカッコ良く見られたいなんて、男として当たり前の感情でしょ」


『悟……』


……照れている。
かわいいなんて思ったのが、いけなかったのだろうか。


「…それをさぁ、女に慣れてるとか勘違いされて?挙げ句の果てにはセフレ…?
は???ふざけてんね???
何をどうしたらそんなエキセントリックな発想に至ったの???俺何時も言ってるよね?愛してるって。
え???なに、オマエ俺の愛情疑ってたってこと???
いや赦せねぇわ嘘だろ恋愛レベルゼロどころかマイナスかよ」


『怒濤の苦情…』


「苦情も言いたくなるわ。何でだよ。愛してるって言ってんだろ。
そうじゃなきゃ此処まで尽くすか。七日間も大事に護りきるかよ。
こんなに大事にしてんのに判んないって事は、もう一日中抱き潰すしか………」


『やめてください死んでしまいます』


「殺してぇ程愛してるんだけどどうしたら良い?」


『上手く殺意を往なしてくれたらとっても嬉しいな!!!』


「かわいい。抱くわ」


『いやー!!!!』










三月十二日 昼


愛してるお化けにたっぷりと物理で判らされ、遅くなってしまった朝御飯を食べた。最早ほぼ昼御飯。
因みにお化けは隣でツヤツヤした顔で古めかしい本を読んでいる。とても腹立たしい。


『腰が………』


「沢山動いたもんね。今夜も頑張ろっか」


『去勢しろ猿め』


「えっ、急に毒吐くじゃん…かわいいね…???俺のチンコに完堕ちしてる癖にそんな事言っちゃうポンコツ具合がかわいいね…???」


『………』


その口をへったくそに縫い付けてやりたい。
睨む私をにこにこと見つめてくる悟に舌打ちをかまし、部屋の襖が滑るのを見た


「お茶をお持ち致しました」


「そこ置いといて」


「かしこまりました」


女性の使用人が、湯気を立てる湯呑みを二つ、お盆の上に置いて下がっていった。
にこりともしない彼女は此方を見て、更に表情を硬くした…気がした。
此処ってほんとに敵しか居ない。
露骨な悪意に目を伏せると、隣に居た悟が立ち上がった


「刹那はさ、ただびっくりしただけじゃ氷を出さないって気付いてる?」


『え?』


部屋の入り口にぽつんと残されたお盆を持って戻ってきた彼は、隣に座り直すと文机に湯呑みを並べる。
そしてすっと、私の前に置いた湯呑みを指した


「これ、凍らせてみて」


『ん』


思い出す。
鬼の形相の男と、鈍く輝く刃。
右手の先が痛いほど冷えて、次の瞬間、湯呑みの中のお茶は音を立てて凍り付いた。
…よかった、できた。
ほっと胸を撫で下ろした私の右手を、悟が手に取って矯めつ眇めつしている。


「此処だけ…んー、やっぱ天与呪縛か?まぁそうじゃなきゃ大分リスクが…」


『?』


「…直ぐに体温が戻った。となると何が縛られてんのか…うん、要観察ってトコかな」


…いや私の話なんだよね?
何でか全然私に説明する素振りがないな?
良いけどさ。悟が私に話そうって決めてくれるまで待つけどさ。
指を暖める様に包まれて、それからそっと離された。


「今、何を考えて凍らせた?」


『……怖かった事』


「そう、オマエが呪力を励起するには“恐怖”がトリガーになる。だから、俺にいきなりキスされたぐらいじゃ凍らせたりしないんだよ」


『………』


「ん?キスしよっか?」


『とても腹立たしい』


「え?急に怒るじゃん何で???」


このデリカシー無し男…
溜め息を落としつつ、説明の続きを求めた。頷いた悟が凍った湯呑みを指で突く


「オマエの術式は温度使役術式。
簡単に言うと、オマエの体温を呪力に乗せて撒き散らして、周囲の水分なんかを弄る術式だよ」


『……強い?』


訊ねると、悟は私を静かに見据えた。
それからゆっくりと口を動かす


「強いよ。使い方次第では上を目指せる」


『ほんと!?』


「ただ…その術式は、体温を身体に触れたままで零度まで下げて、放出するんだ。
その時点でオマエの身体への負担は大きい。
そして体温を一度に放出出来る箇所も決まってるみたいだから、ポケモンみたいに絶対零度レベルの大技は使えないよ」


『えー……なんか不便だね』


強くなれたら、悟に恩返し出来ると思ったのにな。絶対零度とか必殺技みたいで格好良いのに。
眉を寄せる私の頭を、悟は笑いながらぐしゃぐしゃにした


「でも使い方さえ考えればかなり強いと思うよ?それにオマエにはオート防御もある。あの蛇が餞別に持たせたんだろうそれは、“僕”の無限と違ってマニュアルに切り替えは出来ないけど、多分それはオマエが怖いとさえ思えば勝手に出るよ。
呪力量も多いから、すっからかんになる程凍らせまくらなきゃ基本大丈夫」


『すっからかんってどのぐらいでなるの?』


「んー…周囲5qぐらいバッキバキにしたら、多分呪力は空っぽになるんじゃないかな。でも、その場合低体温症で死ぬ可能性が高いから、やったらダメだよ」


『えっ』


そっち?低体温症で死ぬの?
思わず目を丸くした私の前で、悟が白い湯呑みを手に取った。
湯気を立てる深緑の水面を暫し見つめ、それからゆっくりと口を付ける。
湯呑みを戻して、蒼が静かに宙を見た


「幾ら放出範囲を固定してるって言っても、零度まで冷え込んだ手は刹那自身の体温で暖めてるんだよ。水にお湯入れたら温くなるだろ?それと同じ」


『…暖めるには限界があるってこと?』


「そ。最初にさ、庭を凍らせただろ?アレも本当は全然弱い。
もう少しぐらいなら強度を上げても良いけど、そこから上はオートに任せるべきだね。そっちなら確実に、最小の被害でオマエの敵を凍らせるから」


そこまで言って、悟が指を立てた。
長い人差し指がくるくると円を描く


「庭を凍らせたのは、オマエの怖いって気持ちによる術式の暴走だよ。一応此方はマニュアル。
そんで、びっくりする時に怖いって思ったら、術式のオート機能が動いて対象を凍らせる。
ホラー映画を観ててテレビじゃなくてカップの水を凍らせたのは、俺が前以てオマエに“このカップを凍らせたらダメだよ”って言葉を掛けてあったから。
あの時は本当にオマエの身が危険に晒されている訳じゃなかったから、オート機能も“カップを凍らせたらダメ”って思い込んでた刹那の意思に従ってた。
つまり、その時の刹那の意識にある“怖いものの原因”を排除したの。
カップが凍れば、映画は中断するからね」


『……………ふむ…』


オート機能がとても優秀らしい事は理解した。あと悟の分析やばい。
…というか私、人を凍らせちゃったんだけど。あの人達は大丈夫だったんだろうか。


『…ねぇ、悟』


「ん?」


『……私さ、あの庭で人を凍らせちゃったじゃん』


「ん?……ああ、そういやそうね」


『軽いな?…あの人達、無事?』


鬼の形相だった男の人と、私を嘲笑った女の子。今でもあの二人を思い出すと背筋がひやりとするけれど、それは、間違っても二人を殺して良い理由にはならない。
おずおずと問い掛けた私を静かに見下ろして、悟はゆうるりと微笑んだ


「問題ないよ。あのあと直ぐに俺が氷を砕いたから」


『そっか、良かった…』


…殺さなくて、よかった。
ほっと胸を撫で下ろした私を微笑みながら見つめた悟が、ゆったりとした動作で凍った湯飲みの縁をなぞった


「…刹那」


『ん?』


「刹那が望めばきっと、絶対零度に近い事も出来るよ」


そっと、大きな手が私の頬を包む。
綺麗な蒼が、何処か祈る様な色を浮かべ、上から真摯に降り注いだ。


「でもね、どうか忘れないで。
……刹那が命を懸けて呪霊を祓って、それで誰かを救ったとしても────凍えた刹那を見て、俺は何時だって悲しくなるんだって事」


『────え』


目を見開いた。
それは、優しい言葉に対してだけじゃない。






薄くしっとりとした口の端から……赤が一筋、零れ落ちた所為だった。






ぽたり、白い肌を伝った赤が、薄墨色の胸元に落ちた。
じわりと滲んだ所で漸く気付いたのか、悟が口許を手で覆う。


「っごふ…げぇ…っ!」


『悟!』


激しく咳き込んで、その場にしゃがみ込んでしまった悟を慌てて支えた。
口許を押さえた指の隙間から、細い筋となって赤が滑り落ちていく。
広い背中を擦りながら、原因を考える。
何で悟がこんな事になったのか。こういうのって、ドラマとか小説とかで見た毒の症状なんじゃ…


『悟、家の人を…』


「っぅえ…よぶ、な。もんだい、ない」


『でも!!』


がっしりと大きな手が私の肩を掴む。
じんわりと着物に染みていく血の感覚に、目の前で悟の口から零れ落ちていく命の滴に、堪えきれなかった涙が溢れた。
頬を滑った涙を、震える手が拭う。
青白いを越して白くなった悟が、口周りを血で汚したまま。
それでも、にっと歯を見せて、笑った。


「…だいじょうぶ……おれ、さいきょーだから」


『…なんで』


…なんで、こんなときまでわたしのしんぱいなんか…
その声は、悟が激しく咳き込んだ音に掻き消された













三月十二日 夜


凍らせてしまうのが怖くて。
でも、傍に居ないなんて選べなくて。
私は結局、悟の部屋の隅っこで膝を抱えていた。
…前に悟が話をしていた双子らしい人達は、お昼のお茶に毒が仕込んであった事を。
…多分、私を狙った毒物だろうと教えてくれた。
ぎゅっと、膝を抱え込む。
私の所為だ。私という存在が、傍に居るだけで悟をこんなにも傷付ける。


《パパ》


《なかないで パパ》


《パパ》


《パパ…》


『…ありがと、ポチ』


小声で私を呼びながら近付いてくる可愛いぬいぐるみ達を、そっと抱き締めた。
…どうすれば良いんだろう。
生きているだけで恩人に迷惑を掛けてしまうぐらいなら、やっぱり……私は、生き残るべきではなかったのだ。
飽きもせず流れる涙を乱暴に拭っていれば、ごそ、と布団のある方角で布の擦れる音がした


「……せつな、どこ…せつな…?」


…がさがさになった声が最初に呼んだのが、私だった。
それが、堪らなく嬉しくて。同時に申し訳なくて。
涙を流したまま、ぬいぐるみ達を抱えてそっと近付いた。
月明かりに照らされる白い顔は、何時も以上に血の気がない。


『…悟、目が覚めた?』


「ん。……あーあ、またないてる…」


此方を見て、ふんわりと微笑んだ悟が布団の中から手を伸ばしてきた。
長い指が優しく涙を拭って、困った様に眉を下げる。


「…きにしないでよ。これぐらいの時はね、こういう事、よくあったから」


『……でも、これは私の所為なんだよ』


私という異分子を抱え込んでしまった所為で、悟の命が脅かされている。
…いっそ、私が消えてしまえば。
そうすれば、悟は楽になれるんだろうか。
俯く私の隣で、悟がのろのろと身を起こしていた。
慌てて背中を支えれば、綺麗な顏がふにゃっと笑う


「ありがと。…マジで気にしないでよ。この毒は前に盛られた事があるから、そんなに深刻な症状も出ないし」


『……でも』


「水ちょうだい」


渋る私を黙らせる様に悟が要求して、それに従った私は透明な水差しを手にした。
ガラス製の容器の中で、ちゃぷりと跳ねた液体。
…そこで、昼間の光景がフラッシュバックした。


……この水に、毒が仕込まれてあったら?


水は、使用人が持ってきたものだ。
確かにお昼にお茶を運んできてくれた人とは違う人だった。
でもこれに、毒が盛られていない保証なんて、何処にも……


「……大丈夫だよ、刹那」


かさついた低い声が、優しく私を呼んだ。
大きな手が水差しを私の手からそっと抜き取る。
微かに震える手がコップに水を注いだ。
水差しと交代で大きな手に渡ったコップを美しい蒼がじっと見つめ、それから静かに唇を触れさせる。
透明な液体が薄い唇の奥に招かれていき、張り出した喉仏が動いた。
……怖くて見つめてしまう。
そんな私を安心させる様に、悟はへらりと笑った。


「……ほら、平気だろ?」


…じっと見つめる。
昼間みたいに、その唇から血が伝う事もなく、悟はゆるりと微笑んだまま、此方を見つめていた。


『………次からは、私が飲むね』


「いや、それはダメだよ」


悟がこんなに苦しむぐらいなら、私がこうなった方がずっと良い。
そう考えて口に出した言葉は、何時もより弱っているけれど、ぴしゃりとした響きで両断された。


『なんで』


「俺はガキの頃から毒の耐性を付けてきたの。だから、今回みたいに血を吐く事はあっても死にやしない。
でも刹那は違うだろ?」


一息置いて、悟は言った


「刹那だったら、死んでたよ」


『……ごめん』


術式も上手く使えない。身代わりにもなれない。
…ほら、結局役立たずだ。
謝る事しか出来ない私の頭を、大きな手がそっと撫でた。
何時もより熱い掌が髪の上を滑って、垂れてきた房を耳にかける。そのまま顎を掬われ、従う。
月明かりに照らされながら、慈しみの色を湛えた奇跡の蒼が、蕩けそうな程甘やかに私を見つめていた。


「刹那、俺はオマエが傍に居てくれるだけで良いんだよ。
身代わりが欲しい訳じゃない。俺は、刹那が欲しいだけなんだ」


『………』


「ごめんね、愛してるんだ。
これからもきっと、何度もオマエを泣かせるよ。でもごめん、もう離してやれない」


困った様に眉を下げながら、その癖にとろりとした愛を全身に注いでくる男。
熱い掌が頬を包んだ。
そっと額を合わせ、甘い声がそっと囁く


「ねぇ、笑って。
刹那が傍で笑ってくれたなら、俺は何だって出来るから」


『………ほんと、ずるい』


「ふふ、刹那の為ならズルい男のフリもお手の物ってね。…ズルい俺はきらい?」


そうやってわざとらしくおどけて見せる姿さえ、私の心を少しでも軽くする為の演技なんだと気付いてしまったら。
ずっと護ってきてくれた男の献身を、その理由を、これ程までに思い知らされてしまったら。
…もう、ほんとずるい。


『……すき』


とうとう口に出してしまった心からの言葉に、悟の表情は花咲く様に綻んだ。


「────ありがとう、受け入れてくれて。
愛してる。
誰よりも、何よりも愛してるよ、刹那」


誓いにも似た愛が、優しく唇を塞いだ

















三月十三日 朝


『………あれ?』


「ん?」


身を起こせる様になった悟と共に朝御飯を頂こうとして、違和感に気付いた。
此処に来てからすっかり慣れてしまった、冷めたご飯がお膳に並んで食べられるのを待っている。
…でも私は。
お箸を手に持って……左手が、動かなくなってしまった。


「刹那?」


『え、あ、ごめんごめん。何でもないよ』


向かいに座る悟が不思議そうな顔で此方を見つめている。お粥を食べる彼は一見元気そうに見えるが、まだきっと、本調子じゃない。
迷惑を掛けちゃダメだ。
ぐっと左手に力を込める。動いた。
そのまま、ほうれん草のお浸しに箸先を伸ばそうとして────


『……なん、で』


「………」


左手が、また動かなくなった。
どうして。なんで。食べなきゃ。悟を困らせる。それはだめだ。嫌だ。
食べなきゃ。なんで。動いて。どうして。
だめだ。嫌だ。だめ、こんなんじゃ、悟に捨てられ────


「落ち着きな、刹那。怖い事なんかなぁーんにもないよ」


ぽすり、と暖かな身体に包まれて、目の前が黒い着物で埋められた。
ぽすぽすと背中をあやす様に撫でられて、握り締めていたお箸が畳に転がる。


「ごめんね、刹那。そうだよな、毒盛られるのって普通じゃないんだよな。
ほんとごめん、すっかり忘れてた」


『……ごめん、悟』


「謝るなよ。んー、じゃあ飯食うのも怖いよね……どうすっかな」


よしよしと大きな手で髪と背中を撫でながら、悟がゆらゆらと身体を揺らす。
その振動と温もりにうつらうつらしていると、何かを思い付いたのか、悟ががばっと私の肩を掴んで言った


「お散歩行くよ、刹那!」


『?』














「椿、山茶花!台所貸せ!」


「えっ、横暴…」


「こら山茶花。…どうしましたぼっちゃま。また毒でも盛られましたか?」


「おい椿。…どうしましたぼっちゃま。ピルなら持ってますが」


「オマエらどっちもどっちだって気付けよ?」


『お、おはようございます…』


悟に連れられてきたのは、母屋の隣にある離れだった。
がらりと引戸を開けて侵入した悟に手を引かれるまま着いていき、居間で出会ったのは昨日の双子。
畳に正座した二人に呆れた様に返すと、悟はこじんまりとした台所を顎で指した


「台所貸せ」


「それは構いませんが、何をなさるので?」


「飯作んだよ。逆に台所借りて他に何すんだ」


双子の弟、椿さんの許可を得た悟が早速冷蔵庫を開けた。
中を検め、無断で卵を何個か取り出している。
そのまま悟は料理を始めてしまった。
…いや私、ほぼ顔見知り程度の関係の人の家で彼氏に放置されてるんだけど。
この空気はどうすれば…?


「……刹那様、どうぞお座りになって下さい」


『ひえ……あの、様付けはやめて頂けると…』


「いえ、我等はぼっちゃまの護衛ですから。ぼっちゃまの婚約者であらせられる刹那様を呼び捨てになど出来ません」


山茶花さんに座布団を勧められ、そこで引っ掛かった様付けをやんわり辞退してみたが、ぴしっとした態度でそう返されてしまった。
あ、こういう家って、不敬罪とかあるんだろうか。
それじゃあ今の私の発言は、彼等に迷惑を掛けてしまう。
そう思い至った私は慌てて頭を下げた


『無理を言ってしまって申し訳ありません…』


「えっ。いや、そう畏まらず!出来れば気にせずに頂ければ!!」


『えっ、でも…』


何だか妙な膠着状態に陥った私達を、男子組はのんびりと眺めていた


「ぼっちゃま、何処でこんなまともな娘を拾って来たんです…?」


「廃寺」


「寺…?……菩薩の生まれ変わりか…???」


『えっ』


何故そうなる?というか何故様付けを遠慮しただけでそうなる???
困惑する私達を面白そうに眺めながら、悟が小さな鍋をお玉で掻き混ぜた。


「刹那、鶏がらは平気?」


『うん。好きだけど…』


「ほお。手際が良いですねぼっちゃま」


「そりゃ俺だし?つーかこんぐらい誰でも出来るでしょ」


椿さんに手許を覗き込まれながら味付けをした悟は、数分煮込んだ後、コンロの火を消して微笑んだ。


「刹那、此方おいで。卵粥作ったよ」


『うん』


何処かそわそわしていた山茶花さんに会釈して、悟の許に向かう。
二人用であろう、こじんまりとした机に悟が鍋を運んできた。後ろにお椀を手にした椿さんが続く。
お椀を受け取った悟が、お玉で湯気を立てる卵粥をよそい始めた。
なみなみと注がれたお椀が、私に向かって差し出される。
ふわりと鶏がらの芳ばしい香りが鼻先を掠めた


「はい、刹那」


『……ありがとう』


……湯気を立てる料理って、何時振りだっけ。ふとそんな事を思ってしまって、慌てて考えるのをやめた。
悟からスプーンを受け取って、机に置いたお椀と向き合う。
悟が静かに手を合わせたので、それに倣った


「いただきます」


『……いただきます』


…食べられる、だろうか。
頭を過るのはそんな事。決して卵粥が嫌な訳じゃない。悟が手ずから作ってくれたのは、とても嬉しい。
でも、ダメだったのだ。


何時もの冷めきった食事をお箸で掴み取る事すら、私は出来なかった。


…またそうなるのが怖い。
食べられない私を見て、悟が傷付くのが怖い。
そう思ってお椀に手を伸ばせずにいた私の目の前に、スプーンが差し出された


『え』


「刹那、あーん」


『………』


スプーンから焦点を外して向かいを見ると、悟が此方を見ながら微笑んでいる。
蒼い瞳は何時もみたいに優しい色で。


…私は、その優しさに応えたいと、思った。


一度息を吐き、そっと、口を開ける。
ゆっくりとスプーンが差し込まれ、口を閉じた。
スプーンが引き抜かれる。
…鶏がらの効いた卵粥はまろやかで、美味しい。
……何より、温かい食事が久しぶりで。


「どう?美味しい?」


ふっと笑った悟に問われ、頷く事しか出来なかった。
じわじわと視界が滲み出して、慌てて目を擦る。あの日から私は泣いてばかりだ。
何かあれば直ぐに泣いてしまう自分に嫌気が差す。
ぐいっと涙を拭いて、微笑んでいる悟に笑みを返した


『…ありがとう、悟。とっても美味しい』


「どういたしまして。…自分で食べられそう?俺が食べさせる?」


『大丈夫。…悟のご飯なら、大丈夫』


今度は自分でお椀を手に取ってみた。
ゆっくりとスプーンをとろりとしたスープに沈め、ご飯を掬う。
そっと、スプーンを口に運んだ。
美味しくて、じんわりと温もりが身体中に広がる様な、そんな感じ。
ゆっくりと飲み込んで、此方をじいっと見ていた悟に頷いてみせた


『美味しい』


「……ふふ、そっか。それなら良かった」


ふわりと幸せそうに微笑んで、悟も卵粥を食べ始めた。
多分、私が食べられるか確認してから食べるつもりだったんだろう。
……本当に、優しい人だ。
思わず小さく笑って、湯気を立てる卵粥に目を落とす。


「……なぁ椿、あれは本当にぼっちゃまか?ぼっちゃまの皮を被った呪霊では…?」


「こら山茶花。……この間盛られた毒に呪霊でも入ってたんじゃないか?」


「オマエらを祓ってやろうか」


こそこそと此方に聞こえる程度の声量で悪口を言う双子と、それに片眉を上げる悟。
それを見て、私は思わず笑ってしまった。
















三月十四日 夜中


懐かしささえ覚える家の中で、家族が笑っていた。
ライトの光が降り注ぐ、暖かな食卓。
母さんの手料理からは美味しそうな湯気が立っていて、弟が大きな口を開けてハンバーグを頬張った。
不意に、皆がリビングの端で見つめている私に気付いて、にっこりと笑って口を開いた


「何で一人だけ生きてるんだ?」


「あなたも早く死になさい」


「姉貴ばっかずりいよなぁ、あんな奴に護って貰っちゃってさぁ」


「しね!しね!」


思い出と寸分違わぬ姿のままで、とても楽しそうに呪詛を吐き出す家族。
…ああ、やっぱり私だけが生き残ったのは間違いだったんだろうか。
頬を涙が滑り落ちた瞬間、ぱちり、と。


『─────、』


……暗い部屋に、見慣れつつある木目の天井。
ぴったりとくっついた悟に感じたのは、紛れもなく安堵だった。















三月十五日 夜


何時も通り寝る支度を始める私の前で、悟が言った


「刹那、お出掛けするよ」


『……お出掛け?』


五条の屋敷を出て、椿さんの運転する車に揺られて私と悟は何処かに向かっている。
窓の外は真っ暗で、街灯の灯りか民家から溢れる明かりしか光源はない。


『悟、何処に行くの?』


「近くの小学校。本当は俺の任務なんだけど、等級は高くないから、オマエも見学として連れていこうと思って」


《けんがく?》


「ポチ、オマエは刹那を護るんだよ」


《ワン!》


今日のポチは30cmゆる顔五条タイプだ。どうやらこのポチが悟曰く一番強いらしく、その次はじゅじゅべあの五条ぬいぐるみなんだとか。
…そもそも私、ポチって私をパパって呼ぶぬいぐるみとしか思ってないんだけど。認識合ってる?


「雑魚は刹那の練習に使おうかなって思ってるけど。大丈夫そう?」


『頑張る』


私は呪術師になる為に、此処に来てから術式のトレーニングや筋トレにも励んでいるのだ。
悟が練習と言うならば、それは私が祓えて当然のもの。期待には応えなくては。
強く頷いた私に、悟が困った様に笑った


「あんまり気負うなよ。無理はしないこと、良いね?」


『はい、五条先生』


言い聞かせ方があんまりにも未来の彼と同じで思わずそう返せば、悟は目を丸くして、それからくしゃりと笑った


「んふふ、早く産まれな卵ちゃん。ひよこちゃんになったらあちこち連れていってあげるから」


「……ぼっちゃまがとても人間らしい反応を…」


「オマエマジでその内しばくからな」












夜の学校と言うのは何だか妙に雰囲気がある。
車の護衛として残る椿さんと別れ、後頭部にポチを張り付けた私は今、悟に手を引かれながら中庭を歩いていた。


『何処の小学校でもチューリップって育てるんだね』


「あー、花なんか気にした事なかったな。小学生って何で花を育てんの?」


『えー…植物を育てる事の楽しさに触れて貰うため?』


「文句も何も言えねぇ圧倒的弱者を自分の手で思い通りに育てる経験させるってこと?義務教育ってのは歪んでるねぇ」


『……………うわぁ』


「?なんで引いてんの?」


何故一般的であろう私の意見を聞いてそんな結論に達したのか。
そもそも植物を育てるのは大変なんだぞ。思い通りに育たないから枯れちゃうのに。
チューリップと書かれた鉢の傍を通り抜け、暗闇の中、ぼうっと浮かび上がる校舎を何気無く見上げた。
……連絡通路の縁から此方を覗き込んでいる呪霊。
そのぎょろぎょろと動き回る赤い目と────目が、合った。


『!』


「刹那、下がってな」


直ぐに悟が私を背後に隠し、掌印を組んだ。
連絡通路から飛び降りてくる呪霊が、鋭い爪を悟に向ける。
薄い唇が、静かに紡ぐ


「術式順転・蒼」


蒼が煌めく。
ばぎゅり、と形容しがたい音と共に、呪霊が中央にぐちゃりと吸い集めた様な形となって、地面に落ちた。
消えていくその影を呆然と見つめていれば、悟がくるりと振り向いて、笑う


「今のが一級ね。俺の目当てのヤツ」


『…一級』


「怖かった?」


その問いに頷きかけて、止まる。
怖いかと聞かれれば、きっと怖かった。
でも私は、それよりも


『……先ずは手足を封じれば良いのかなって、考えてた』


あの呪霊を祓う手立てを、考えていた。
その言葉を聞いた悟は一度動きを止めて、それから。


「あは────あははははははははは!!!!!」


爆笑した。
…え?何がそんなに面白かったの?
困惑する私を他所に、悟はお腹を抱えてひいひい言っていた。
笑いすぎて涙が出てきたらしい奴は、目許を拭ってから漸く背筋を伸ばした。


「はー、笑った。良いよ、良いねぇ刹那。ちゃーんとイカれてる!
怖くて震えてるんじゃなくて、祓う手立てを考える…良いよ、やっぱりオマエは呪術師に向いてるね」


『…ありがとう?』


どういう反応すれば良いのか判らないよ。
取り敢えず礼を言っておけば、此方を見下ろす蒼はにんまりと弧を描いた


「…さて、これでちゃんと祓えればオマエをひよこに格上げしてあげる。
敵は複数。多対一。
俺とポチは、オマエが死にかけるまで手出しはしない。
乱戦はオマエにとって有利だし、経験も積めるよ。レベルアップには最適ってね」


そこまで言って、一度耳触りの良い声が止んだ。
それから、口角が吊り上がり。
蒼が、ぎらりと光った。


「さぁ────殺れ」


狂気を帯びた蒼に、背筋が戦慄いた。
────歓喜だ。
私は今、悟に命じられた事に、必要とされた事に、叫び出したい程の悦びを抱いている。
それを悟られない様に、無言で身体の向きを変えた


『……怖いのは、嫌いだ』


すっと見据えた先、校庭に続く通路の奥に、傘の様な姿の呪霊が見えた。


『…ポチ、何かあったら、お願いね』


《まかせて!》


力強い返事をくれたぬいぐるみに小さく笑って、表情を引き締めた。
すう、と息を吸い込んで、浅く吐き出す。
怖い。怖い。呪力を意識する。
励起した力を脚へ。
脚力を強化。ぎゅっと拳を握る。
強く、地を蹴った。


『────らあっ!!!』


左手が凍える。大きな氷の牙を作り出し、傘の呪霊の胴を裂く。
仲間が斬られた事で此方に気付いた呪霊達。


「あ、あぁぁ゙ぁあ゙あ、アそ、そそそそぼ」


「げげここおおおぉう、しなざあぁぁ゙ぃいい゙い゙い」


「■■■■■■■■■■■■」


「いっッじョ、にィ、がえろ゙おぉぉぉぉおお゙おぉぉ゙おおお゙お゙おぉ」


此方に気付いた途端、口々に何かを発しながら迫ってくる呪霊。
紙の上で繰り広げていたものが今、私に厄災として降り掛かっている。


…大丈夫。ちゃんと、全部怖いよ。


ゆっくりと、掌印を組んだ。
悟と同じ印。剣印。破邪の意味を持つ印。


『縛裟』


口から自然と溢れ落ちた言葉。
袈裟を縛る。
…随分とおそろしい言葉だと、思った。


「きゅうううううしょ、くぅ、まああぁああ゙あ゙あだぁあああぁぁぁあ?」


「ああああああめえええぇ、ふっでる゙うぅうううゔゔゔ」


屋上からも歪な影が降ってくるのが見えた。
周囲の呪霊、それら全てが私に向かってきているのを見て、私は身体の裡で今にも弾けそうな程に膨れ上がっているそれに、コントロール権を任せた


『縛裟────漣』


私の世界が最期に与えてくれたという餞別。“私の恐怖の原因”を全て排除するオート機能は、するりと口から飛び出した呪を皮切りに────周囲を蹂躙した。


「お見事。良く出来たね刹那、怪我はない?」


一面が紫の血に塗れた氷の海に覆われた世界で暢気な声が響いた。
少しだけ冷えた手を擦り合わせ、ゆったりとした足取りで近付いてくる悟を見る。
月明かりを浴びながら煌々と輝くその人は、とても美しくて神々しい。


…この人こそが私の、神様なんだろう。


そう、漠然と思った。


『……怪我、してない』


《パパ つよいね!》


『ふふ、ありがとうポチ』


後頭部にくっつくぬいぐるみを撫でていれば、目の前にやって来た悟に横抱きにされた。
一気に高くなった視界と慣れない浮遊感に、近くにあった悟の首にしがみつく。
そんな私にふっと笑って、悟は歩きだした


「無傷であの数を瞬殺出来たんなら、卵ちゃんは卒業かな」


『やった。産まれた?』


期待する私に悟が茶目っ気たっぷりにウィンクした


「おめでとう、今日から刹那はひよこちゃんです!
でもまだ殻を被った産まれたてのひよこちゃんだって事、忘れちゃダメだよ」


『はーい、五条先生』


あ、もしかして私が五条先生の教え子第一号になるんだろうか。
くすくす笑う私を、悟が優しい顔で見下ろしていた。














三月二十日 昼


「ほい、刹那。これ着てみて」


『?』


悟に渡されたのは黒の上下。
上はファー付きのフードに、振袖みたいな鮮やかな袖。腰のベルトからプリーツが入っている、取り敢えず着る人を選ぶ服だ。下は黒のスラックスで、妙に攻めた箇所はない。
え?これを私が着るの?え???
服を広げた状態でフリーズした私に、悟が衝立を指した


「あっちで着替えてきてよ。あ、別に此処でも良いよ?」


『…着替えるのは確定なの?』


「勿論。ほら、早く俺に着た姿見せて」


どうやら話を聞く気がないらしい悟に馴れてきたのが悲しい。
溜め息を溢しつつ衝立の向こうに隠れ、着物を脱いだ。
そういえば、着物の強制着付けは此処に来て驚いたランキングの上位に入る。
あとはご飯が必ず冷えている事と、お風呂で洗う専門の人が居るのだと聞いた事。
恥ずかしくて死にそうだったから、お風呂は意地でも拒否した。
渡されたシャツを着て、スラックスに足を潜らせる。
最後に派手な上着に袖を通して、ボタンを留めた所で気付く。
……このボタン、妙に見覚えが…


「うんうん、流石俺!サイズばっちりじゃん」


『……着替え終わってなかったらどうするの…』


「え?何度も裸見てんだから良くない?」


『ぜんっぜん良くない』


何であんた教師なの…?
衝立の向こうから此方を覗いてきたデリカシー無し男に溜め息を溢し、改めて自分の衣装に目を落とした。
赤い梅の袖に、青い桜の袖。そして紫のベルト。
……いや、五条悟を意識しすぎでは…???


『…悟が着るべき配色じゃん…』


「はぁ?俺が着て何になるんだよ。俺の女ってアピールの為にその色にしたの」


『ていうか私、呪術高専に通うの?』


悟が高専に行く事になったら私はどうなるんだろうと思っていたけれど、まさか私も通うんだろうか。…え?この派手な学ランで?悪目立ちしない?
私の周りをくるくる回って確認していたらしい悟は、投げられた問いを聞いて目を瞬かせた。


「あれ?言ってなかった?」


『言われてないね』


「そうだっけ?刹那は俺と来月から呪術高専に行くよ。此処に居たって飯食えないんだし、そもそも刹那は術式を使える様になった方が良い。
そうなれば、オマエの事を最優先で考える俺と一緒に来た方がお互いハッピーでしょ」


確かに悟に連れていって貰えれば、此方としてもありがたいけれど。
…でも、本当に良いんだろうか。


高専での三年間は、“五条悟”にとって何物にも代えがたい宝物の様な日々の筈だ。


特に二週目である悟からすれば、親友の道を変える事が出来るかもしれない、願ってもないチャンスなのだ。
そんな重要な場所に、私という異物を入れるのはどうなんだろう。
口にはせずに渋る私を見下ろして、悟が緩く首を傾げた。


「まーた何か考え込んでるな?言っただろ?黙りになってマイナス方向に突っ走るのはオマエの悪い癖だって」


『……悟』


「言ってよ。俺は刹那に笑ってて欲しいの。だから、オマエの感じた不安は知っておきたい」


安心させる様に笑った悟に暫し口を閉ざし、それからゆっくりと頷いて返した。
…大丈夫。悟は、私を捨てたりしない。


『…高専での三年間は、悟にとって凄く大事なものでしょう?』


「そうだね」


『そんな大事な場所に、私が紛れ込むのはどうなのかなって、思った』


悟の宝物の中に、私が紛れ込むのは。
三人で完結された日々に、未来を知る異なる世界の存在が入るのは、可笑しい事じゃないのか。
訥々と溢した本音に、悟がゆるりと微笑んだ。


「確かにあの三年間は大事だよ。それこそ、戦場でこの“僕”が判断を間違えるくらいに、ね」


そこまで言って、悟は言葉を切った。
大きな手で私の頬を包むと、やんわりと上向かせる。
視線の先で、蒼が緩んだ


「でもね、刹那。
俺はオマエと一緒に居たいよ。
あの三年間が何にも勝るって判っているからこそ、俺は刹那ともその大事な三年間を一緒に過ごしたい」


『……私なんかが混じって良いの?』


「刹那が良いんだよ。つーか、その“なんか”って言い方止めろ。
オマエを大事にしてる俺には嫌な言い方だ」


『ごめん』


諭す様に指摘され、直ぐに謝った。
…こういう些細な面で、大事にされてるんだなぁって実感する様になってきたのは、良い事なんだろうか。
いいこ、と頭を撫でて、悟が真剣な顔になる。


「…正直な話ね、刹那の力を借りたいと思ってるよ」


『…私の力?』


「そう。刹那はこの世界の進み方を、漫画っていう形で知ってるだろ?
そりゃあ全部じゃないって事は判ってるよ。
もしかしたら、傑は今回も居なくなるかも知れない。
けど、せめて……せめて傑があの脳味噌に乗っ取られるなんて未来は、避けたいんだ」


…くしゃりと顔を歪めて落とされた言葉は、きっと紛れもない本音だ。
五条悟の、心の底からの願いだ。
吐き出す様な声に、堪らず頬を包む手に自らの手を添えた。


『…私で良ければ、好きに使って』


「…刹那」


『だって、私をあの蛇から助けてくれたのは悟なんだよ?…だったら、今度は私が悟を助ける番。
…好きに使ってよ。悟になら、何されても良いよ』


身一つで来てしまった私に返せる事なんてまだないけど、この記憶が悟の為になるのなら。
悟の為に動くのが、今の私の願いだから。
笑う私に、悟はゆるゆると首を横に振った


「…ねぇ、刹那。俺はオマエの世界を殺したんだよ。
あんな事になって、他に方法が無かったとは言え、“僕”はオマエの世界を────オマエの家族を、殺したんだよ」


『そんなの…』


「…だから、こんな男に。
君の家族も、友人も……何もかも殺した僕に、何をされても良いなんて、言っちゃダメだよ」


…そう言って笑った悟の笑みはぐちゃぐちゃで。泣きたいのに無理矢理笑っている様な、痛ましい笑顔で。


……そんな事、ないのに。


揺れる蒼を見つめ、ただ想いが届く事を願った


『違うよ!悪いのはあの世界の神様だった!!あいつが!あいつが急に元の神様の姿に戻ろうなんてしたから!
…っ悟は!私を助けてくれただけだよ…!
父さん達を殺したのは、あいつなんだから…』


八つ首の大蛇を恨まなかった事なんて、ない。
世界を壊したあいつを許せる訳が、ない。
家族の笑顔が脳裏に浮かび、ぐっと唇を噛み締めた。
あの日、あんな事にならなければ。
きっと今も、皆は笑っていたのに。
…きつく噛んだ唇を、指先がそっと撫でた。
のろのろと視線を向ければ、目が合った悟がゆるりと微笑んだ


「……ありがとう、刹那」


つう、と、白磁の肌を涙が一筋、零れ落ちた。


「…使えなんて言わないで。ずっと俺の傍に居てよ」


『……悟』


「独りになんかしないよ。これからは、オマエが毎日魘される夢にも付いていってあげる。
…好き。愛してる。愛してるんだよ刹那。
ずっと俺の傍に居て、俺の望む幸せな未来を、一緒に作って」


…悪夢を見ているって、バレてたんだ。
言葉にしなかった筈の秘密がバレていた事に驚きつつ、白い頬を滑る涙を指先で拭った。
この人は、泣く姿でさえもひどく美しい。


『…私で良ければ、傍に居るよ』


私の神様。
私を救ってくれたひと。
彼に求められるのならば、私を捧げる事だって、きっと。
そっと唇を寄せると、慈しむ様な口付けを贈られる。
数度唇を重ね合わせ、ほんの少しだけ離して。悟が、唇を緩めた


「……ありがとう。ずっと一緒に居ようね」


微笑んだ悟は、とても幸せそうだった。











嗚呼、我が神よ










刹那→一般人から呪術師へ。
不安や環境の急激な変化などでメンタルがベコベコ。今はすぐ泣く。
この度無事五条を自分の神様に定めた。

五条→頼れるお兄さんムーヴ絶好調。

ポチ→特級仮想怨霊・ティンダロスの猟犬。
刹那のボディーガード担当。

椿→双子の弟。五条の肉壁係。

山茶花→双子の姉。五条の肉壁係。

















「────あんなに綺麗に泣けるとか、俺って主演男優賞貰えるんじゃね?」









笑う、嗤う










五条→原因だ〜れだ?お〜れだ☆
洗脳大好きガチヤバタール系男子。

世界ちゃん→あらぬ誤解で娘に恨まれてる。これからも死体蹴りは敢行される。


馬酔木の花言葉「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしましょう」

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