苗字名前は突然の出来事に敢へ無した。
 見通しのいい廊下で隠れられそうな場所はない。ヒールの音が近づいて来る。チッ、と鳴った舌打ちがやけに大きく反響した。苗字の落胆は次第に恐怖、それから緊張に変わる。それというのも、こちらに向かってくる中原という男の機嫌がすこぶる悪いためである。
 苗字は息を止めた。以前、「俺と同じ空気を吸って生きてるんじゃねェ」と、どしめかれた所為である。
 苗字は目を閉じていた。以前、「見てんじゃねェ、ブスが感染るだろうが」と、がなりたてられた所為である。
 すれ違い様、苗字が出来るだけ壁際に寄り、道を開けたのにも関わらず、中原は肩が触れそうなほどのギリギリ横を抜けた。苗字は道を開け、息を止め、目を閉じた。しかし、虫の居所が悪かった中原に対して、そんなもの、一寸の気休めにもならなかった。
「おいブス、無視してんじゃねェ」中原は云う。
 ではどうしろというのだ。
 苗字は積年の理不尽な暴言を走馬灯のように思い返し、涙が込み上げてきた。泣いては駄目だ。中原に涙を見せたときには決まって「ブスの涙なんて見苦しいモン晒してんじゃねェ」と叱られるのだ。
「中原さん、すみませんでした」苗字は謝った。
 これが一番良い。兎に角、中原の気が済むまで申し訳なさそうに謝罪の言葉を唱えれば必要最小限の暴言で済む。今まで何度も繰り返してきたことだ。
 幸い、今まで非道い暴力を振るわれたことはなかった。組織きっての武闘派である中原に殴る蹴る、それからあの凶悪な異能を使われては一溜りもない。「中原さん、すみませんでした。」苗字は謝った。
「巫山戯てんじゃねえぞ。なんだその前髪。似合ってねーんだよブス」
 中原は苗字の前髪を掴む。苗字の目は固く閉じられたままだった。チッと再び舌打ちされたかと思えば廊下のタイル目掛けて髪の毛を引っ張られた。苗字の身体は重力に従い、床に叩き付けられた。
「二度とその面、見せんじゃねェ」
 中原は苗字に興味を無くしたように黒外套を翻し、その場を去っていった。
 苗字も身体を起こし、その場を後にする。中原が向かった方へは一瞥たりとも送ってやらなかった。目玉に溜まった涙を拭い、前髪を直す。苗字は思う。二度と会えないなら会いたくもねえんだよ。心の中だけで毒づいた。
 二つのヒールの音が鳴る度に、廊下は静寂を深めた。
「さて、どうしたものか」
 向かいの棟からその廊下はよく見えた。広津は自分の部下である苗字を目で追っていた。







 嗚呼ッ!
 可愛い、可愛い、可愛い、可愛いッ!
 すれ違う数メートル先からはもう甘い香りが漂っているし、そこからでも判る身体の輪郭はまさに自分好みである。いい女に育ってしまった。中原は頭を抱える。
 ぎゅぅ、と閉じられた瞳を象る睫毛さえも愛おしい。垂れる眉が加虐心を誘う。その顔を見て、何度接吻してやろうと考えただろうか。何度触れたいと考えただろうか。脳内で何度苗字の身体を暴き、唇を貪っただろうか。
 中原の妄想では、苗字は男を「中也君」と下の名前で呼び、背中に手を回しながら大好きだと云う。現実では、一度たりとも苗字から中原に触れることはなかったし、苗字は中原を「中也君」とも呼ばない。且つて、一度だけ呼ばれた音を、数年間、何度も思い出しては、その甘さに浸るだけのみみっちい男であった。

「中也君、よろしくね」

 中原が組織に身を置き数日。年が近いからと上司に紹介された少女は手を差し伸べ微笑んだ。中原少年は全身の血液が沸騰する錯覚をした。身体が熱く、息苦しくなった。世間でいう「一目惚れ」というものである。惚れる、なんて感覚を、当時の少年は知らなかった。知らなかったからこそ「うるせえブス! 馴れ馴れしく呼んでんじゃねェ!」と、言葉も、差し出された手も、簡単に、乱暴に、振り払うことができた。
 それから、中原は一度たりとも苗字に「中也君」などと呼ばれたことはない。声変わりをし、すこぅし高く、艶を含んだ今の苗字の声で、自分の名前を呼ばれることを宿意としている。
 中原は昔を後悔している。あれさえ、あの最悪な初対面さえ完璧に熟せていれば、こんな関係には成らなかっただろう。上手くいけば、想い人と寄り添い、笑い、手を繋ぎ、接吻をしていた今があったのかもしれない。
 まァ、でも、今日は触れたから良し。中原は自分に及第点を与えた。
 前髪を切ったことにも気付けたし、触れたし、結果申し分ない。そう思っている中原は、自分が短時間で想い人に二回もブスと罵ったことを忘れている。自分の口では今日も可愛いなと云ったような気さえしている。幻覚である。「二度とその面、見せんじゃねェ」と捨て台詞を吐いたことも忘れている。云われた本人である想い人が、できるなら二度と顔を見たくないと本気で思っていることにも気が付かない。気が付かないので中原はスキップをして廊下を進む。
 後日の会議で、五大幹部の一人がスキップで廊下を進んでいるらしいという議題が持ち上がることを中原は知らない。







「太宰君は元気かねえ」広津は云う。
「あ?」
 中原はグラスに注がれたアルコールを舐め、眉間に皺を寄せる。
「部下のひとりが、太宰君にすごく懐いていた。彼がいなくなって非道く寂しがっているようだ」
「あんな男に懐いていたなんてどうかしてるぜ。仕舞いにゃ組織も裏切りやがった。あんまり使いもんにならねえようなら早く切ったほうがいいぜ、その部下も」
「それでも可愛い部下でね」
 広津はアルコールを喉に流してから部下の名前を告げる。
「中原君もよく知っているだろう」
 中原はあからさまに動揺した。まず、アルコールが口の中で暴れ、器官に入り咽る。零れた酒を拭こうとし失敗する。グラスを倒し、カウンタ―を酒浸しにし、スラックスを濡らした。見かねた店主がフロアに降りカウンターの掃除を始めるも、器官を通ったアルコールが燃えるように熱く、中原の咳はは未だ止まない。
「可愛い部下だから、まあ、どうか虐めないでやってくれ」広津は続ける。
「ゲホッ……んの、ことだ……ゲホゲホッ」
「中原君も、もう子供ではないのだから、好きな子には誠心誠意、真心でぶつかるべきだ」
「ゲホッ……説教か、オッサン……」
 広津の片眼鏡が光る。
「否、忠告だ」
「忠告ぅ?」
「鳶に油揚げを攫われないように。最近、構成員が増えた上に苗字は人当たりが好い。油揚げを攫いたい鳶はいくらでもいるものだ」
 では失礼、と広津は席を立った。
 掃除を終えた店主もカウンターに戻り、中原はひとり取り残される。
 太宰という男が組織に入った時期は、中原と近かった。太宰も、中原と同じ時期に苗字を紹介されたのであろう。
 太宰という男は、今も昔も変わらぬフェミニストで、苗字は甘ったれだ。ことあれば苗字は甘い太宰にべったりだったように思う。中原はそれにも腹を立てていた。しかし、こと、というのは勿論その大半を中原がこさえていた。中原が苗字に対してブスと云い、泣かせ、太宰が名前ちゃんは世界で一番かわいいと慰めた。そんなのばっかりである。本当は中原だって、苗字の頭を、頬を撫で、甘やかしたかったのだ。
 太宰は最年少幹部として組織に名を馳せた。当時、そんな男が傅娘としていた女を攫う鳶は居やしなかった。
 しかし今は状況が違う。太宰は居ない。新しい構成員にとって、よもや太宰という男とは何の関係もない。知らない、過去の男であるのだ。中原とて今や組織の五大幹部を担う男ではあるが、苗字を囲う男としてあるわけではない。所詮中原の片思いである。他の鳶とはなにも変わらないところか、出会いから長い年月をかけて散々苛め抜いてきた経歴がある。些かどころではなく、火を見るよりも明らかに分が悪い。
 中原は今まで自分がしてきたことを大変後悔した。
「マスター、もう一杯。ロックで」
 酒に酔う感じというのは、全身の血液が沸騰するようで、身体が熱く息苦しくなるようで、世間でいう「一目惚れ」というもののようで、あの時の感覚のようで、懐かしいようで、心地よくて、好きだ。中原はグラスを一気に仰いだ。
 アルコールの水面に、幼い少女の、優しい笑顔が見えた気がした。







 苗字名前は突然の出来事に敢へ無した。
 見通しのいい廊下で隠れられそうな場所はない。ヒールの音が近づいて来る。息を大きく吸ったのが判った。苗字の落胆は次第に恐怖、それから緊張に変わる。それというのも、こちらに向かってくる男が中原であるからだ。
 苗字は息を止めた。以前、「俺と同じ空気を吸って生きてるんじゃねェ」と、どしめかれた所為である。
 苗字は目を閉じていた。以前、「見てんじゃねェ、ブスが感染るだろうが」と、がなりたてられた所為である。
 すれ違い様、苗字が出来るだけ壁際に寄り、道を開けたのにも関わらず、中原は肩が触れそうなほどのギリギリ横を抜けた。苗字は道を開け、息を止め、目を閉じた。
「オイ」
 声を掛けられる。
 苗字は今までなかったことに驚き、思わず息を吐いた。しまった、と思い、再び息を止める。
「目ェ、開けろ」
 加害者であり、組織の幹部である中原にそう云われれば開けるしかない。苗字が目を開けると、思っていたよりもずっと近くに中原は居た。中原の息がかかる。呼吸をすれば、お互いの酸素と二酸化炭素を交換できてしまう距離であった。
「呼吸もしろ」
 厭だ。苗字は思った。しかし中原に言われれば呼吸をする他ない。何故、息を止めていた時よりも肺が苦しいのだろう。もはや今日こそぶん殴られるんじゃないか。昨日、二度と面を見せるなと云われていたばかりであるのに、遭遇してしまったのだ。そうだ! わたしは、この男に、とうとう抹殺されるのだ! 呼吸が儘ならず、酸素の行きわたらない脳みそは正常に働かない。苗字は中原に殺される、ということで頭がいっぱいである。
「触るぞ」中原が云う。
 殺される。苗字は思わず目を閉じ衝撃に構えた。しかし、衝撃は一向にやってくる気配がない。替わりに、前髪をひと房だけ、言葉通り、触られた。
「おい、目ェ開けろって云ったろ」
「ヒッ」
 苗字は短く悲鳴を上げ「すみません、中原さん」と謝り、云われた通りに目を開けた。苗字の瞳が中原の瞳を捉えることはなく、首元の下辺りを彷徨っているようだった。中原はそれでも構わなかった。
「似合ってる。前髪、切ったの」
 苗字は、中原が何を言っているのか判らなかった。昨日は似合ってねえブスと云ったじゃないか。苗字は怯えた。何を言い出すのだ、この男は! 今まで植え付けられた恐怖を思い返すと足が竦む。「止めてくれ」そんな抗議を出来るはずはなかった。例え、髪の毛ひと房さえ、中原に触られていることが気持ち悪い。中原の触れる吐息が気持ち悪い。何よりもこの男が、気持ち悪い。
「……なんか云えよ」
「そんなの、困ります」
 中原は苗字の髪の毛から手を放す。「そうか、そうだよな」とやけに嬉しそうに云う中原の口元は緩んでいた。
 苗字はそんな中原を一度たりとも見たことがなかった。
 出会いを思い返しても「うるせえブス! 馴れ馴れしく呼んでんじゃねェ!」と手を振り払った中原少年の眉毛は尋常ではない程の角度に吊り上がっていたし、眉間の皴は深く刻まれていた。ずっとそうであった。苗字は中原の笑顔なんて、見たことがなかった。
「もっと、何か云ってみろよ」
「……中原さん、なにか好い事が有ったのでしょうか……?」尋ねる苗字は気が気ではない。いつ中原の地雷を踏み抜き、その暴言に被爆されるのか。それとも、これは中原の新しい遊戯で、自分は試されているのではないか。
 しかし、中原の喜びは見て取れた。
 中原は苗字が自分に興味を持ってくれたことが嬉しかった。好い事が有るのかと問われ、「まァな」と答える口元は矢張りふにゃふにゃに緩んでいた。
 昨日と打って変わり、自分を可愛いと褒めるふにゃふにゃの幹部はいったい誰なのだ! 教えてくれ! こんなの中原ではない。きっとこの男は中原を模した爆発物か何かで、いよいよ爆発するような気がするのだ。誰か助けてくれッ!
 苗字の願いは何処の誰にも届かない。精神を追い詰められた苗字は、身体を直角に向き直し、両手の指を地面についた。中原は突然のことに目をぱちくりさせ、言葉も出せず、ただ茫然とそこに居た。一足長半の位置に足を置き、前足側の膝を立て、後ろ足側の膝を地面につける。中原のふにゃふにゃの口元はようやく引き締まり、それから再び口を開く。
「おい、」
 その掛け声が合図となり、苗字は走り出した。見事なクラウチングスタートである。中原は突然の出来事に怯み、一拍遅れながらも後を追って走った。廊下を直角に曲がり、踊り場は無視して手すりを跨ぎ下の階に飛ぶ。あっと云う間に最下層まで辿り着いた苗字の後を中原が続く。ふたつの黒い外套が追いかけはためく様を、他の構成員は何事かと傍観するほかなかった。
「何で逃げんだ!」中原は問う。
「中原さんが追うからです!」苗字は答える。
 苗字は尾崎の部下が仕切る拷問部屋に逃げ込み、半分死にかけた捕虜の間を走る。苗字が捕虜を避け乍ら走る間に、中原はまるでそんなものはないかのように踏みつけ翔けるので、距離はじわりじわりと狭まってきた。体力の差も有り、長期戦になるのは分が悪い。拷問にかけられた男の断末魔が響く。中原に捕まれば、次は我が身。苗字はどうにか中原を巻くことをことを考え、脚を動かす。
「いい加減に止まらねえか!」中原は叫ぶ。
「勝手にどうぞ!」苗字も叫ぶ。本当に、どうか、勝手に止まってくれ。そうしたらこの無駄な鬼ごっこも終わるのだ。
「そんじゃあ勝手にさせてもらうけどよ」
 背後から中原が追ってくる気配がなくなり、苗字の願いは漸く天に通じたと思ったのも束の間。苗字は身体が急激に重くなり、足が動かないどころか、立っていることもできず、ずるずると地面に這いつくばった。頭上に人の気配を感じ、辛うじて動く眼球をぐるりと回すと、中原は仁王立ちで、それはそれは嬉しそうに笑っていた。
 異能を使うとは、なんて卑怯な男だろうか! 苗字は憤慨した。鬼ごっこは苗字にとって屈辱な幕引きとなり、持ち場を荒らされた拷問班は何事かと騒めき立った。








「これ中也。あんまり女子の尻を追いかけ回すものではないぞ」
 尾崎は諭すように云う。
 ことの顛末は尾崎紅葉が預かる事となった。というのも、鬼ごっこの余波が拷問班に出た事による。拷問部屋の扉の破壊、床の損傷、捕虜へ必要以上の傷害が、上司であるポートマフィア五大幹部の尾崎へ連絡が入ったのだ。ほぼ中原が出した被害である。
「子供のことだ。姐さんが口を出すようなことじゃない」
「子供、のう。誠、お主がやっていることは子供のそのものじゃが……可哀想に。こんなに怯えおって」
 尾崎は横に苗字を座らせ頭を撫でた。
「広津や他の構成員から話は聞いておる。あんまり陰険な男は嫌われて当然。その上こんな偏執狂者のように……私は情けなさすら覚える始末じゃ」
 尾崎の正論に中原は言葉が詰まる。
「金輪際、中也が名前に関わらぬよう手筈を整えよう」
 のう、と声を掛ければ苗字の表情は晴れやかになり、中原の顔はこの世の終わりでも見たかのように歪められた。
「尾崎さん、ありがとうございます!」
「愛いのう、愛いのう。どれ、私の部隊にでも囲おうか」
「一寸待ってくれ! そんな無茶なッ!」中原は抗議した。
「無茶なんぞあるまい。名前の能力をかって私の部隊にと鴎外殿に進言すれば済むことであろう」
「広津が納得するわけがないだろうが! こいつのことを可愛い部下と云っていた!」
 尾崎はふむ、と考える素振りを見せる。
「では、名前を可愛いと、欲しいと云っていないのはお主だけじゃな、中也」
「……だったら何だって云うんだ」
「名前に関しては鴎外殿と広津と話を付ければよいのじゃろう。所詮お主は蚊帳の外よ。これ以上の口出しは控えてもらおう」
 尾崎は楽しそうに笑い、中原の眉間には皺が深く刻まれた。
「名前が欲しかったら云うが良い。可愛いと、欲しいと、好きだと、その口で、存分に云うが良い」
 苗字は尾崎が自分を使い、中原で遊んでいることに気が付いた。確かに尾崎の下に就ければ、中原との接点も薄くなり、今までよりもずっと穏やかな日々を過ごせるのかもしれない。
 苗字は判っていた。そろそろ中原の怒りの沸点が限界だということを。
 中原との接点が薄くなるといっても、同じ組織に身を置き、同じ横浜という土地で生活をする者同士なのだ。何時うっかりばったり遭遇し、怒りの矛先をぶつけられるのか判ったものじゃない。
 中原の身体が小刻みに震えていた。
 今まで自分を散々に虐めてきた男が虐められる様を見るのは気味が好いが、後が怖い。ほれほれ、と煽る尾崎はそんな苗字の気持ちを露程も気にしていない様子である。
「どうした? 云えんのか」
「あの、尾崎さん。差し出がましいのですが、何もそんなに無理を強いるのは……」
「無理を強いている心算はないんじゃがのう」
「わたしは中原さんに可愛いとも、ましてや好意なんてとても寄せられるような人間ではありません」
 だって、もしそうなのであれば、こんなに執拗に虐められるなんてことはないだろう。苗字は思う。
「ということじゃが、中也?」
 喉の奥でくつくつと笑う尾崎に、とうとう中原は理性を抑えられず叫んだ。

「うるせえ! 手前、自分のその面、鏡で見たこともねェのか! 可愛くて可愛くて可愛くてしょうがねえだろうが馬鹿野郎ッ!」

 尾崎は、変わらず微笑みを貼り付けている。まるでこの展開が読めていましたと云わんばかりの笑顔である。中原はそんな尾崎を見て「……違ェ、今のは、無し」と云ったが、もう遅い。中原のかんばせは、これでもかという程に赤く染まっていた。
 尾崎は隣の苗字に立つように促し「二回戦じゃ」と云った。背中を押された苗字は、尾崎の「そぅら、逃げろ」という言葉で反射的に走り出す。苗字の脳内は、中原の言葉と、赤く染まったかんばせで混沌と化していた。混沌を消し去るように、苗字は我武者羅に脚を動かす。
「もう後戻りは出来るまい。今度は上手く捕まえるのじゃぞ、中也?」
「嗚呼、畜生ッ! 巫山戯やがって! あとで金ぷらをご馳走しますから、首を洗って待ってろよッ! クソがッ!」
 尾崎の執務室に捨て台詞を吐き、中原は苗字を追うように走った。遊女のように、目元まで染まった赤みは未だ引かない。せめてもと帽子を深く被り、耳の熱を隠す。中原の口元はふにゃふにゃに緩んでいた。

「金ぷら、楽しみじゃのう」
 残された尾崎はひとり、梅昆布茶を啜り、楽しそうに打ち笑んだ。

2016.06.27
ALICE+