中原さんに問われた苗字さんとの関係は、実は僕にも判らない。
 共通点は太宰さんの下に就いていたこと。太宰さんとの付き合いは苗字さんの方が長い。故に彼女は僕にとって先輩であったが、到底強者では在り得なかった。太宰さんが彼女を傍に置いていた理由は判らなかったが、聞いてもただ拳が飛んでくるだけだった。
 当時、身体に出来た傷の殆どは太宰さんから受けた躾であった。
「どうしたの?」
 苗字さんは問うた! 僕の傷を問うた!
 貧民街の路上で生活していた僕の傷など、生まれて此の方まともに心配する者などいなかった。この弱者である女は何が狙いだと睨み付けると「ちちんぷいぷい」とヘンテコな呪文を唱えた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ」
 患部を摩り、どこかに飛ばす仕草を見せる。その手の先には太宰さんがいた。摩られた患部は、呪文を唱えられる前よりもなんだか痛いような気さえした。どう? と笑顔で聞かれても、よく判らない。そんなの、だって、貴女だけでした。貴女が初めてでした。
「襤褸の芥川君、此れから車で移動でしょう。此れ、よかったら食べてね」
 渡されたのは、ひとつの蜜柑だった。
「ジアスターゼとクエン酸が車の揺れで、よぅく混ざるから」
「蜜柑は嫌いです」
「ううん、好きとか嫌いの問題ではないんだけど……じゃあ芥川君はなにが好きなの?」
 そう云いながらぎゅうぎゅうと蜜柑を押し付けてくるものだから、結局後で食べた蜜柑は生温くて、柔らかくて最悪だった。今思えば、太宰さんの目があったとはいえ、苗字さんをよく殺さなかったものだと、当時の僕をすこし褒めてもいいかもしれぬ。
「無花果が好きです」云えば苗字さんは嬉しそうに「そっか」と笑った。
 後に知った。ジアスターゼとクエン酸は混ざると産気付いたかのような吐き気を催すのだ。胎内回帰といい、苗字さんは、赤子、亦は子宮にとんでもない執着があるように思う。太宰さんであれば何か知っているのかもしれないし、簡単に暴いてしまうのだろう。
 苗字さんとの関係は、判らない。
 高価なものと太宰さんを省いた昇給祝いを提案されて、欲しいと思ったのは苗字さんだけであった。愛だとか、好きだとか、そんなものは判らない。苗字さんと天秤にかけるなら無花果の方が何倍も好きだ。だからといって無花果と口付けをしたいかと云われれば、それは違うような気もする。しかし無花果と口付けが出来ないのかと云われれば、それは出来る。そのまま深いところまで口付けて、咀嚼して、嚥下してやる。
 友情であればいいと思う。この関係が友達であればいいと思う。だのに、なんでこんなにも胸が苦しいのだ!
 苗字さんの行方を聞いた。中原さんは観覧車と答えた。男と二人で観覧車に往ったと答えた。
 この感情が友情であればいいと思った。然し殺したいと思った。誰を? 何故?
 判らねども、判らねば、この胸は、ずっと、ずぅっと、苦しいのだ。
「ちちん、ぷいぷい」
 ヘンテコな呪文を唱えても苦しみは消えない。どこへも往かない。そうでしょう? 太宰さんも、あの時、ちょっとも痛くはなかったでしょう?

2016.07.10
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