世の中には知らないほうが善い、ということが溢れている。
横浜の観覧車といえば、中区新港二丁目ではないだろうか。わたしはその受付をしている。
この混沌とした横浜の、一番の観覧車に乗車する客層は様々である。家族連れ。女学生。老夫婦。修学旅行生。どんな人でもお客様はお客様だ。わたしは800円渡されれば彼らをゴンドラに案内し、行ってらっしゃいと手を降るだけ。十五分間の空中散歩をどのように過ごすかは様々である。
現在21時45分。
施設閉館時間の十五分前が観覧車の最終便である。本日の受付終了の札を出そうとすれば、ふわりといい香りが漂った。
「大人二人」
千円札を二枚、差し出される。
女性客がふたりだ。一人は黒の外套を着こなしていて、もう一人は……見るからに危ない人であった。
黒い外套の女にもうひとりが凭れ、半ば担がれるような危うい足取りで進む。その女はギロリとこちらを睨み上げる。鋭い眼光だが、黒い外套の女の瞳のほうが、その何倍もの恐怖を煮詰めたような色をしていた。
わたしは震える手で400円を返金し、ふたりの女をゴンドラに詰める。
この混沌とした横浜の、一番の観覧車に乗車する客層は様々である。十五分間の空中散歩をどのように過ごすかは様々なのだ。何年も続けていれば、その様々もなんとなく判ってくる。遊戯、観光、休憩、セックス、それから薬。
「行ってらっしゃい。善い夜を」
ふたりの女を乗せたゴンドラは上昇する。
それを見届けると、ようやく手の震えも収まり、本日の受付終了の札を出せた。一息ついて、就業の準備に取り掛かる。
「おい」
黒外套を着た男が800円を手の平に乗せ、こちらに視線を向けていた。
「本日の受付は終了いたしました」
そう告げるも黒外套の男は小銭を仕舞うことなく、不満そうに眉間の皴を寄せるだけだった。
そういえば、先程の女も黒い、まるで揃いのような外套を着ていた。流行っているのだろうか。
「先程、僕と同じ黒い外套を着た女が来たと思うのだが誰と一緒だった」
今度はわたしが眉を寄せる番だった。なんだこの男は?
揃いの黒外套といい、もしかしたら先程の女に対する偏執狂者なのではないのだろうか。今日は危ない人が多いなあ。
「細身の女でした。水商売をしているふうで、身なりはいいけど、あの痩せ方はきっと薬でもヤっている感じでしたよ」
客の情報をぺらぺらと喋るわけがない――が、凶器を突きつけられれば話は別である。
黒外套の男が立っている位置は丁度逆光で、闇に紛れて判らないが、わたしの首元には確かに鋭く尖った「凶器」が当てられている。こうして喋って、喉を使うだけで動く首が確かにそれを、殺意の持った凶器だと教えてくれる。殺される。闇に光る男の瞳が云うのだ。殺してやる、と。
「女か」
「ええ、女でした。女が、ふたり。黒い外套と、薬中」
わたしは震える声で云う。出来るだけ長く。時間を稼ぐように。
観覧車の真ん中で光る電工時計は21時55分を示していた。あと五分で最終便の、つまり、黒い外套の女を乗せたゴンドラが帰ってくる。あと五分、時間を稼げば生きられるのだ。
「フン。では、僕は黒い外套の女が来るまで此処で待たせてもらう」
黒外套の男は云い、わたしの首元に当てられた凶器は仕舞われた。自由を許された身体は、それでも油の注されていないブリキ人形のようにしか動けなかった。恐怖で筋肉さえも委縮し、五分間、わたしはただ自分の呼吸と鼓動の音を確認しながら、動かない脚で上半身を支えているだけだった。
最終便のゴンドラを迎える。
「お疲れ様で…………」
思わず息を呑む。扉を開くと、ゴンドラの中には黒い外套の女しか居なかった。薬中女が消えたのだ。
「素敵な夜景でした」
口元だけで微笑んだ黒い外套の女は、そこいらの女となにも変わらない普通のの女に見えたが、ふいに、ゴンドラに乗り込む前に見せた恐怖を煮詰めた色の瞳が脳裏に過る。
恐怖を煮詰めた色の瞳。揃いの黒外套の男。首元の凶器。殺意。消えた薬中の女。わたしの脳内のそこら中で警報機が鳴り響く。五月蠅えッ! 一個でも判断を間違えば生きて明日を迎えられないことぐらい、脳を通さなくたってなァ、反射で判ってんだよ! 嗚呼、五月蠅えッ!
「苗字さん」
黒外套の男が声を掛けると苗字と呼ばれた黒い外套の女は少し困ったように笑った。
「こんな姿、芥川君に見られるなんて恥ずかしいなあ」
それから大きめのトランクを芥川と呼んだ男に手渡す。
「僕は苗字さんがきちんと仕事をしていると思うと、なんだか安心します」
「たまには、ね」
「すぐそこに車を停めましたので送ります」
「ちゃんと駐車場に停めようね。駐禁でレッカーとか笑えないから」
まるでわたしなんか居ないみたいに、殺意なんて纏っていなかったみたいに、男女は軽口を叩き、揃いの外套を翻し闇に消えて往った。
――生き延びた。
ほっと一息つく。
胸を撫で下ろしたのも束の間、苗字が振り向く。わたしの背中は再びシャンと伸び、口角を上げた。今度は何だ、と身構える。
「また使わせて貰いますね」
苗字は云った。それから大きく手を降って、今度こそ、外套と同じ色の闇に紛れ、消えた。
涙が出そうだ。
また、とは何だ! 何に使う心算なんだ! 然し、そんな好奇心よりも、まったく命が惜しいのだ。世の中には知らないほうが善い、ということが溢れている。従って、わたしはなんにも知らないのである。
20160918