緩い一手に、ここぞとばかりに鋭い一撃を食らう。
女――苗字名前は眉を顰めた。今のツケ一発で右下はツブれた。苗字は盤上を見つめ次の手を考えるが、脳裏に過るのは昨日破局を宣告した男のことばかりであった。
「如何した。調子が悪いな」碁盤を挟んだ男は云う。
ケイマにツメたらコスまれて中央の黒地が厚くなる。黒からカドに打たれるとスミの白石は不安定にならないか。中央の一見にトぶべきか。――駄目だ。打つ手打つ手がすべて裏目に出た中盤。ここから終盤にかけてどう巻き返すべきか。浮かぶ手の数手先を読むと全て悪手に思えてくる。合間に浮かぶ昨日までの恋人の影が邪魔をする。女は扇子の端を噛み「社長に勝利を捧げられそうですね」と云うしかなかった。
「苗字、本当に如何した」
対局相手に優しく尋ねられるととうとう駄目で、苗字はぽろりと吐き出した。
「昨晩、恋人にフラれてしまいました」
男――福沢諭吉は対局相手の部下が、今まで見せなかった私生活を暴き始めたことに、ほんの一瞬、面食らった。ぽろりぽろりと零れ始めた雨脚は次第に強まり、轟轟の嵐へと変わった。
「好きであるように努めようとしたが駄目でした。わたしには恋愛というものが判りません。ずっと碁打ちで在ったのです。探偵社に勤め、一介の社会人であろうとしましたが、わたしに好意を寄せてくださった男性に応えることすらできず、不甲斐無さと申し訳なさでいっぱいなのです。彼はわたしの気持ちに気づき、自ら身を引いたのです。優しい人だったのです。わたしは何故、彼を愛せなかったのでしょうか!」
苗字の嵐はまだ収まる気配がない。福沢は呆気にとられた。失恋の痛み辛みではなく、恋人を愛せなかった自分の不甲斐無さを責めているのか、と。福沢はますますなんと声を掛けようものか思案した。
こんなとき、太宰という男は有能であると一人の部下に思いを馳せた。あれならば、なんと云って女を励ますのであろうか。しかし答えが判ったところで、おそらく自分の口から吐ける台詞ではないことも判っていた。嗚呼、太宰になれたら。福沢は思う。
「碁打ちとしてしかやっていけぬわたしであるというのに、社長相手に投了寸前の自分がますます駄目に思えて、わたしはいったいどうやって生きていけばいいのでしょうか!」苗字は叫ぶ。
「碁打ちとしてのお前の腕は確かである。それは私が保証しよう」
苗字は顔を上げた。嵐が弱まる。褒められて、やや心に余裕ができたように見える。そしてあまり感情の起伏を見せない女であったので、こんなにも怒涛に喚き立てることが久方で、おそらく疲れてきたとも見える。もう一歩ではないか。いや、あと二、三歩かもしれぬ。否、この際歩数はどうでもいいのだ。
福沢は手近に褒められて喜ぶ男がいたので、今度はそちらに思いを馳せる。
江戸川乱歩という男は、福沢に褒められることを何よりも喜んだ。目の前の部下が何を欲しているのかは判らないが、その可哀想な顔を見ると、できる限りを務めたいと思う。
「苗字。この盤面、ここから巻き返そうものなら何かひとつ褒美をやろう」福沢は提案した。
「……褒美ですか?」
「何が善い?」
苗字は福沢の提案に、少し戸惑ったように悩んだあと、何でもいいのかと尋ねる。できる限りを務めたいと考えていた福沢は首を傾げた。
「あまり難しいものは困るのだが。そんなに希少であったり高価なものなのか?」
福沢は以前、乱歩にぜんざいを振舞ったことを思い出した。あれは、いけない。甘い小豆を食べるばかりで、椀に餅を残すくせに、十皿もたいらげたのだ。乱歩が特殊だというのはあるが、苗字の普段の素行から、福沢には彼女がそのようなことをするとは思えなかった。だからこそ褒美を与えるという提案ができた。
「抱擁をして欲しいのです」苗字は云う。
福沢はまたもや面食らった。唇がわずかに震えた。
「……何故」
「太宰さんが仰っておりました。傷心には温かな抱擁に限るのだ、と」
太宰。あいつはまた余計な吹聴を。福沢は握る拳に力が入る。
「しかしわたしにはそのような友人がおりません。抱擁してくれる唯一の恋人も昨日その関係を解消し、頼れる者はいないのです。温かな抱擁にありつけないわたしの胸の傷は、塞がらないものと思い、最終として、不本意ですが、云い出しっぺの太宰さんに頼まざるを得ないと思っておりました」
「私で良いのか」太宰は嫌なのに。
「社長、ご利益ありそうですもの」
思わず口元が緩む。途端、この白は生きられるんじゃないかと苗字の脳裏には勝ち筋が過った。
ツケて、たった数手の応手を間違えなければこの白は甦るのではないか。黒がツケれば中央に一眼作れる。かといって黒はスミを大切にしたい筈。どちらも手は抜けないだろう。ならば、白地は蘇る。そして生きる。勝てる。苗字は確信した。
「先程の言葉に偽りはありませんよね」
「約束しよう」
福沢が言えば苗字は後悔しないでくださいね、と笑った。
扇子を握り直す。
放たれた強烈な一手に、福沢はすでに後悔の念を募らせるのであった。
2016.06.xx