「初めまして、苗字名前です」
 綾辻の目の前には、目のまるい女が二人。一人は良く知る辻村と、苗字と名乗ったまったく知らない女である。
「おいおい辻村君。これはどういうことだ? あそこにずっと張り付いている狙撃手は飾りか?」
 綾辻は辻村に問いながら、いつも窓を挟み配置されている狙撃手を見る。そうして、次に目をまるくするのは綾辻だった。狙撃手が銃を構えていないのだ。それどころか、状況が把握できずに狼狽えている始末だ。
「本当に能無しだな特務課は」
「そっ、そんな! それは! えーと。あ! 貴女は一体何者なんです!」
 辻村は綾辻にぐうの音も出ず、標的を正体不明の女に向けた。
「それよりお茶をお願いできますか?」
 首だけを動かしお茶を要求する女の背には、よく見れば狙撃手たちが狼狽えながらも探している仕事道具が乱雑に束ねられていた。
「辻村君気を付けろ。それから不法侵入者への茶は不要だ」
「御客人にお茶も出さないなんて!」苗字は糾弾した。いやに堂々とした振る舞いである。
「こんな男に負けるなんて! 悔しい! 嗚呼! 悔しいったらないわ!」
 そう云った苗字の手には、空のマイセンが握られていた。綾辻の目は探偵ものに変わる。遠くで湯を沸かす音が聞こえた。
「ハンチング帽に色眼鏡に煙管で人形を傍らに携えているなんて気障ったらしい」
 つい今まで空っぽだったマイセンには珈琲の湯気が渦巻き立ち上っていた。
 苗字名前の異能力であることは間違いない。綾辻は考える。例えば、珈琲を瞬間的に淹れる能力。じゃあ何か。この女は珈琲店の店員だとでもいうのか。さては辻村君が毎朝お世話になっている店だな。……なんて、莫迦な。そんな能力者が特務課の包囲網を抜けて特一級危険異能者宅に侵入出来るわけがない。
 不可解な中に不可解な事と云えば、辻村のあんぐりと開いた口以外では、マイセンが握られてから珈琲の湯気が立つまでの間だ。何故苗字は空っぽのマイセンを握っていたのだ? 始めから珈琲が注がれたマイセンを握っていることが自然だ。あの時、遠くで湯を沸かす音が聞こえた。苗字にはマイセンを握ってから珈琲を淹れるまでの時間がなかったのだ。従って、マイセンを握ってから珈琲が注がれるまでの間に動作を挟まなければならなかった。その時に“二回目”の異能力が発動されたわけであるが、しかして、彼女の異能力とは――。
「お前の異能力はおおよそ把握した」
「えっ!」
 声を上げたのは辻村だった。
「流石綾辻先生」
「辻村君。君は本当に特務課のエージェント……」
 綾辻が云い終えないところで机に二つの湯呑が並ぶ。中には黒々とした汁がふくふくと湯気を蓄えていた。どうぞと苗字が云う。またしても彼女の能力によって珈琲が二杯、淹れられてしまった。辻村はこれはどうもすみませんと椅子に腰かけ、湯呑に手を伸ばす。綾辻は文字通り辻村を一蹴し「湯呑に珈琲を注ぐな」と、色眼鏡の奥の眉を寄せた。 
「文句を云うくらいなら御自身でどうぞ」
 苗字の言葉に辻村は日頃の思いを込めて力強く頷いた。
「こんな男のどこがいいのかしら! わたしのほうが綾辻君よりも久保よりも、もちろん飛鳥井よりもうんと力になれたのに!」
 苗字は怒りと共に珈琲を一気に流し込んむ。喉奥が焼けたのか、渋面をして見せた。
 綾辻は苗字の云う名前に、なにか思い当たるぞと空を見た。この世のものではない目玉と視線がぶつかる。
「またお前か、京極」
 綾辻は呟いた。その言葉に、否、名前に、苗字の瞳は輝いた。先ほどの渋面は如何した。
 嗚呼、京極関係か。厭だなあ。綾辻は思う。苗字を見る。クソ。此方をそんなふうに笑み笑みと見るんじゃない。
「辻村君。投げても構わない匙をありったけ用意しろ」
 散々罵った挙句注意しろと云ったり暴力に訴えたり、今度は匙をありったけ用意しろとは、さては今日の綾辻の機嫌は悪いなと、辻村は大人しく台所に撤退した。
「夏彦さぁん! 夏彦さぁん!」
 苗字は繰り返し京極の名を呼ぶが、一向に姿は見えない。
「無駄だ。どうやら俺にしか見えんらしい」
 綾辻が云えば、苗字は膝から崩れ落ちた。
「久保も飛鳥井も貴方もそう。もしかしてって、ずぅっと引っかかりがあったのよ。夏彦さんの終の棲家である貴方から聞いて頂戴」
 その謂れは甚だ不愉快である。抑々、此方から京極へは声が届いているのだから綾辻が伝える義理なんてものはない。そのまま其処で蜂吹いてくれ。辻村君、匙を、早く。綾辻はなかなか戻らない助手の行方を、珍しく待ち詫びていた。
「矢張り夏彦さんは男色家なのかしら……ッ!」
 金属が床に叩き付けられ、四散五裂に飛び跳ねる。
「た、確かに京極は毎朝綾辻先生の枕元に立ち先生が開眼するまでその寝顔を眺めていたという前科がありますが、えっ真逆そういう……!」
 待ち詫びた助手が戻ってきたが、戻ってきてみれば戻って来なければ善かったのにと思わざるを得なかった。床に散らばるめいっぱいの匙。綾辻はそれを一つ手に取り、静かに彼女の名前を呼んだ。
「辻村君」
 京極という男は空でゲラゲラ嗤っていた。
 振りかぶった腕は空しく、暴投に終わった。投げられた匙は京極を擦り抜け、辻村の頬を掠めた。「チッ!」綾辻の舌打ちが静かな室内に零れた。
「苗字と云ったか。何が目的だ」
 綾辻は二本目の匙を選ぶ。
「目的はないのよ。ただ、夏彦さんの置手紙を辿って此処に来ただけ」
「京極とはうんと齢が離れているように見えるがどういう関係だ」
 苗字は確かに久保や飛鳥井よりも能力に長けている駒に成り得そうだったが、京極に対する熱というものが、彼らとはまったく別物であった。それから、京極の表情や声音もまた、苗字に向けられるものは別物であるのだ。
「どういう関係、と尋ねられると……」
 口ごもる苗字を余所に、空で京極が呟く。
「花妻じゃよ」
 その甘く、柔らかな声にゾッとした。
 殺人探偵の綾辻であれど、過去ここまで身の毛が弥立つほど戦々恐々とさせられた事件、妙技、または悪意があっただろうか。否、無い。やるな京極。綾辻は心の中で怨敵ながら見事であると称賛し、手に取った二本目の匙を投げ付けた。
「ロリコン爺ッ!」
 匙は勿論京極の身体をするりと抜けた。苗字も幼女や少女と云われる齢ではないが、ロリータ・コンプレックスと揶揄されてもしょうがないと頷ける年齢差である。
 匙が京極目掛けて軌道を描くと、「其方に夏彦さんが?」と苗字は匙の投げた方角に飛び跳ねた。
 綾辻は京極を見る。至極楽しそうに笑っていた。この爺のこんなとろけた表情を過去に見た事があっただろうか。……記憶にはない。そして未来永劫に見たくもなかった。
「まあ然し、儂がこうなってからというもの、名前には自由に生きてもらいたいもんじゃ」
 別にそんな言葉も聞きたくなんてなかったし、どうでも善いのだが、京極。嘘ならもっと上手くつけ。お前なら出来るはずだ。
 何が名前には自由に生きてもらいたい、だ。綾辻は、見えない京極を追い部屋中の空気を抱きしめようとする哀れな苗字に視線を戻す。彼女の背後に憑くのは、守護霊と云うには凶悪すぎる八匹の大蛇の頭。大蛇たちはうようよと空中を舞い、綾辻なんて何時でも喰い殺してやるぜと云わんばかりに眼光鋭く控えていた。あの一件の覚という妖怪なんていうものが可愛く思えてくるほどに、凶悪の権化とも云わしめんものを自分の女に憑けておいて、一体どの口が何を云うんだ。
 部屋中をぴょこぴょこと駆け回る不法侵入者苗字。見えない愉快な妖怪京極。そんなふたりに翻弄されて負の感情を百面相させる監視対象綾辻。辻村は、床にとっ散らかした匙をかき集めながら、上司である坂口に心の中で助けを求めていた。


20161013
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