梶井は自分の胸の中で眠る女を見る。
余程爆弾魔だぞ僕はと云って女を叩き起こしたかったが、あまりにも気持ちよさそうに寝ているのでやめた。それは女が起きているときに散々云った。丸善ビルで爆破事件で二十八人殺したのはこの僕だと。云っても平気な顔をしていた女だった。
女の息はひどくゆっくりと繰り返されている。呼吸は口元に耳をぴったりとくっつけないといけない距離でしか聴き取れない程で、気持ちよく眠っているどころか死んだのではと思わせるものだった。肌が白く、体温は低い。入道雲が今にも襲い掛かってきそうな空だった。女を叩き起こさない利点として、この季節にはありがたい低い体温があるのだ。梶井は自分に言い聞かせた。決して恋慕などでは――。
▽△▽
梶井と女の出会いは数日前。商店街の八百屋であった。
店先にはつるりと品のいい檸檬が籠に入れられていた。梶井は模型用に購入を決めたが、伸ばした手の先には白く細い腕が既に籠を掴んでいた。梶井は負けじと手を伸ばし、力任せに手繰り寄せた。
「ちょっと貴女! とても卑怯よ。その檸檬はわたしが先に手を付けたの」
おじさんも見たでしょう、と店主に視線を送る女は檸檬よりも何倍も瑞々しかった。
「それは知っているけど、違うんだ。お嬢さんがあまりにも魅力的だから、この檸檬をプレゼントしようと思ったの」
そんなわけないだろ莫迦め。檸檬は全てこの僕梶井様のモンじゃい。梶井は脳内で悪態をつくが、女はそんな梶井の腹の内を知る由もなく素直に喜んだ。
先ほどまでキリリと釣り上げた眉毛をゆるりと下げて「あらそうなの?」と笑った。
瞬間、梶井の胸にはストン、と何かが刺さった。梶井は衝撃のあった辺りを擦ってみるが外傷はない。なんだこれは?
「名前ちゃんはかわいいから人生お得だね」
八百屋の店主が云う。すると名前と呼ばれた女は麦わら帽子を深く被り直し「シーッ」と唇に人差し指を当ててみせた。それからまいどありと云われるが儘に代金を支払い、紙袋に入った檸檬を持ち帰路についた。隣には麦わら帽子をかぶった女が居る。
「わたしをどこまで連れていく気よ」
「そっちが勝手に着いて来てるだけでしょ」
梶井は面倒くさそうにシッシッと犬猫を追い払う仕草をした。
「檸檬をプレゼントしてくれるって云ったじゃない!」
「あのねえ」梶井はため息を吐く。店先で揉めたくなかっただけの嘘に決まってるでしょ、と云えば名前はこの世の終わりを見たような顔をした。
「嘘を吐いたのね」
「悪い?」
「悪いわ。最も悪い」
「じゃあ正直に言うけど、僕はポートマフィアだから関わらないべきだ。檸檬ごときに執着して命を落とすなんて莫迦莫迦しいと思うだろ」
ポートマフィア。その名を聴いて名前は目を丸くさせた。それからこてんと首を倒す。梶井は「おや」と思い、もしかしてこの女はポートマフィアを存じ上げないのではと思った。
「君、ポートマフィア、判る?」
「港の悪い人かしら」
「丸善ビル爆破事件ッ! あれの犯人が僕ッ! 港の悪いチンピラと一緒にしないでくれる?」
丸善ビル爆破事件といえば一般人が二十八人殺害された衝撃的な事件である。顔写真付きの指名手配書は未だ街中に張られており、犯人は未だ捕まっていない。その犯人がポートマフィアの梶井だった。
「僕ってば、結構有名人だとは思っていたんだけど……」
「あら、わたしだって結構有名人だと思っていたんだけど」
梶井は自らの正体を明かしても全く動揺しない女を、もしかして同業者なのではないかと考えを巡らせた。自ら有名人と名乗る女を確かに梶井はどこかで見かけた気がしたのだが、名前の頭のてっぺんからつま先までじっくりと見ても、どうも同業者には見えない。隙が多すぎる。梶井の信条ではないが、携帯している果物包丁を取り出せばあっさりと首元に突き付けることが出来た。
「どう考えても同業者ではないよねえ」
「わたしを殺すの? わたしを檸檬ごときに執着して命を落とす莫迦な女にしてくれるの?」
名前は笑っていた。目の奥には期待の熱を孕んでいた。
「死にたいの?」
「どうかしら。死とは、どういうことなのかしら」
梶井は且つて同じ質問をした。女医のことを思い出す。あの女医は、確か「命の喪失」だと云っていた。
「それは、命の定義が曖昧だわ。例え肉体が滅びても、わたしは死にきれないのよ」
「……面倒くさい女だって云われない?」且つての自分を棚に上げて梶井は云った。
「可愛く笑えば皆許してくれるわ」
にっこりと微笑んだ名前は確かに可愛い。梶井の胸には再びストン、と何かが刺さった。矢張り外傷はない。なんだこれは?
「それが許したってことよ」
名前が云った。梶井は腑に落ちない。
「もしかして異能者?」
「なぁにそれ」
名前が恍けているふうには見えなかった。組合には異能ではないとんでもない能力を持っているやつがいたと中原が云っていた。そのようなものだろうか。
「其れよりも檸檬よ」
「いい加減に諦めたら?」
「貴方こそ諦めるべきだわ。見て頂戴」
名前は持っていた紙袋を開けてみせた。中には蜂蜜と砂糖と炭酸水が入っていた。レモネードを作る予定だったと云う。
「檸檬がなければ、わたしは如何したらいいの?」
「砂糖水を飲むしかないね。トッピングに蜂蜜は好きなだけかければいい」
良かったじゃないと梶井が云えば名前は悔しそうに頬を膨らませ眉毛を釣り上げた。ケチ、ケチとまるで子供のような悪態をつく。
「僕の爆弾もレモネードっていうんだ」
「悪趣味ね」
でも、と名前は続ける。
「興味があるわ」
名前は梶井の腕に自らの腕を絡め微笑む。ぎゅっと身体を押し付けられる。ここで三回目の胸へのストン攻撃に、梶井はいよいよ意識が朦朧としてきた。これはもしかして精神攻撃なのか!
「貴方もわたしのレモネードに興味があるでしょう?」
この笑顔になんだか弱いのだ。
梶井はぐっと言葉に詰まる。如何も五月蠅え、と叫びきれない。
レモネード。この暑さも紛れそうだし、何より名前に惹かれるし、飲んでやらないこともない。模型用の檸檬だって二つ、三つあればまあ十分だろう。
この精神攻撃の微笑みが罠だったとしても、自分の領域内であればいつでも息の根を止めてくれるからな。この梶井様の檸檬爆弾で死んでも死にきれないなどとあってたまるものかッ! うはははははっ!
梶井は女を自分の研究室に連れ込んだ。
金魚よりも鮫のようになりたかった
「純情派として人気を博していたアイドル、苗字名前さんの失踪について、目撃情報がございましたらご連絡ください」
テレビから聞こえてくる名前はつい最近知った名前で、今まさに自分の胸の中で眠る女が液晶の中でカレールーの箱を片手にくるりと回り微笑んでいた。
梶井はおかしくておかしくてしょうがなかった。
「うははっ、純情派って、ははっ」
確かにカレールーのコマーシャルは何度か見た気がする。歌番組や雑誌の表紙でも見たような気がしてきた。まさか本当に有名人だったとは!
「……成程。嘘を吐くことは、最も悪い」
梶井は名前の首筋に舌を這わせ、柔らかい肌を撫でた。純情派と謳ってきたこの女が自分の手に翻弄され、あられもなく喘ぎ狂うことを国民は知らない。今、生まれたままの姿で梶井の胸の中に抱かれていることを知らない。
名前に純情さを押し付けてきたファンは莫迦だ。心の奥底では、その純情さを汚したくて仕様がなかったくせに。男は脳内で暴行し、女はそうして落ちぶれていくことを期待し、マスコミはその無残さを報道したくてたまらなかったくせに。いつまでカレールーの箱を持たせ、くるりと回らせ、微笑ませ続けるつもりだったのだろうか。本人でさえも純情派アイドル苗字名前が汚泥に塗れることを望んでいたというのに。
2016.08.19
夏に恋する企画’16