「太宰さんは珈竰が好きだったよね」
苗字が唐突に云った。
芥川は嫌な予感がした。脳天から爪先までビビッと来たのだ。暗い室内。ゆっくりと、足音を立てずに、気配を消して消えてしまおう。脳が思えば、身体はすぐには動いた。
「芥川君」
然し、そんな芥川に出し抜かれる苗字ではない。苗字は一言芥川の名前を呼ぶだけで良い。そうして芥川が振り向けば此方のものだ。逃がさないぞという無言の圧力をかける。
苗字の策略通りに名前を呼ばれ振り返った芥川は、シマッタと思う。暗い室内にぼんやりと浮き上がる苗字。その目元も、口元も、それは綺麗な弧を描いていた。
芥川は息を飲む。蛇に睨まれるとはこういうことかと実感した。僅かな光を捉え光る白目。惚れた弱みなんかでは、決して、ない。
紙魚のようなくちづけ
芥川は給湯室で珈竰を煮詰めていた。
何故急にまた珈竰なのだ。鍋の中をぐるぐとお玉を回し湧き上がる気泡を潰しては、何故、何故と疑問が沸く。
「芥川君まだぁ?」
「間もなく出来上がります」
わぁい、と喜んだふうに声をあげ、苗字は足取り軽く給湯室を去って往った。芥川はひとり分のカレーライスをよそい、苗字の後を追った。
苗字は眉間に皺を寄せる。
「芥川君も、芥川君の作った珈竰を食べようよ」
「僕は腹が減っておりません」
「血に飢えて腹が減らないなんて変なの」
「変ではありません。唐突に珈竰が食べたいという苗字さんの方が……」
芥川は口を噤む。苗字さんの方がよっぽど頭がイカれてるんじゃないのかと口走りそうになったのだ。相手は部下の樋口ではない。芥川は自分の自制心を褒めた。
「変ではありませんの後にわたしの方がってくれば、わたしがイカれてるって続くのが道理じゃない」
苗字は芥川の心を見透かしたように云った。芥川は褒めたての自分の自制心を「お前がもたもたしていたばっかりに」と叱責する。ぐっと言葉に詰まれば、それすらも見透かしたように「気にしてないよ」と苗字は芥川に身体を寄せた。
苗字は手を合わせる。いただきます、と云い、匙を茶色の海原に沈める。白米をルーに漬け、口元に運ぶ。部屋はすっかり香辛料の香りが充満していた。香辛料がダイレクトに苗字の口の中を刺激する。
「お味はいかがですか?」
「まぁまぁ」
想いを寄せている女に珈竰を唐突に、それも半ば無理やり作らされ、少し自信があったものの感想はまぁまぁ。芥川は「……そうですか」と力なく返事をした。食べてみて、とむいむい唇に匙を押し付けられる。芥川は無言で拒否するものの、匙は唇を割り、前歯をガツガツと攻撃してくる。芥川はしょうがなく、押し付けられる匙を咥内に迎え入れた。
「どう?」
「……まぁまぁですね」
芥川は調理中に何度も味をみた。そういう理由で、珈竰はもういいやと苗字分のカレーライスしか準備しなかったわけであるが、味をみた珈竰は美味しかった。何一つ変わらない今食べた珈竰も勿論美味しかった。苗字と味覚が違うのだろうか。芥川は疑問に思い「何が駄目なのでしょう」と尋ねれば、唐突に液晶の電源が付いた。
「これは?」
「蒸発したアイドル。最近この話題で持ちきりだよ」
芥川君知らないのと尋ねられても芥川はさっぱり知らなかった。液晶の中のアイドルは成程可愛く、軽快な曲に合わせて歌い、踊る。それから、カレールーの箱を片手にくるりと回ってはにこりと微笑んだ。
「珈竰が好きな人は消えてしまう運命なのだわ」
苗字は悲劇のヒロインのような悲壮感を醸し、まぁまぁと云ったカレーライスを口に運ぶ。このアイドルも太宰という男も、珈竰を愛したが故に消えたとでも言いたいのだろうか。抑々の誤解が生じているのだが、アイドルにしても太宰にしても珈竰が好きだったわけではない。アイドルは仕事としてカレールーの宣伝をしていただけに過ぎず、太宰に至っては珈竰が好きなのは彼の友人だ。
「本当は芥川君、この珈竰を美味しいと思ったでしょう」
芥川は正直に頷く。苗字には全てお見通しなのだ。嘘を吐いても仕方がないと腹を括った。
「味覚障害の原因として心因性のものがその一つとして挙げられるんだけど、太宰さんの喪失が原因として、わたしがこの珈竰をまぁまぁだと感じるのはパターンとして乖離性味覚障害だと思うのね」
芥川は聞いたことの無い単語に首を傾げる。
苗字は出逢った頃からこうだった。嫌いな蜜柑を渡されヘンテコなことを云われた。芥川が苗字と数年付き合って学んだのは、こういう話は聞き流していいと言うことだ。
苗字は喋っている間にも次々にカレーライスを口の中に運び、腹の中に納めた。残った皿は見事に空で、その端では満足そうに銀の匙が輝いていた。完食だ。
「ねえねえ聞いてるの芥川君」
「聞いております」
「聞いていないでしょう。これっぽっちも。ねえ、だから、芥川君は居なくならないでねって話」
そんな話だっただろうか。芥川は眉間に皺を寄せた。にこりと微笑む名前の口元には珈竰が付着している。芥川はやれやれと自分の首元のスカーフを外して、まだ乾いていない珈竰を優しく拭い取ってやった。
「芥川君まで居なくなったら、わたしの味覚が衰退して、食べ物に執着しなくなって、飢え死ぬでしょう」
「成程」
汚れたスカーフはこのまま洗濯しよう。汚れが乾かないうちに皿を洗おう。芥川が腰を上げようとすると、勢いよく苗字が飛びついて来た。そのまま外套を手繰り寄せられ、芥川はこの展開か、と想い乍ら慣れたように床に倒れ込んでいった。
「不安になったら胎内回帰が一番」
「苗字さんは不安になっていたのですか」
芥川の問いに、苗字は一瞬停止する。それからいやらしく微笑む。
「口実に決まっているでしょう。口実」
こんな強引な人の胎内回帰という名の抱擁に、口実も何もあるか。芥川は呆れたようにため息を一つ。然し苗字の云い分としては、女性にこんなことを云わせるなんて狡い男ねというところだった。
芥川はおいでと云わんばかりに手を広げる。芥川は待つ。……可笑しい。その腕に苗字が治まる気配が一向にないのだ。芥川が不思議に思っていると「芥川君、慣れてきてちょっと厭」と云われた。想い人に厭と云われれば芥川が広げた手の行き場はなく、宙を空しく彷徨った。
芥川が隠しきれずに、その悲しみを表情に表すと苗字は嬉しそうに喜び、笑い、抱き着いた。芥川は悲しみのあまり、待ちわびた重みが、果たして夢なのか現実なのか受け入れることが出来ず、その手は未だ宙を彷徨っていた。そんな芥川を余所に、苗字はお構いなしといった様子で「胎内回帰」と云い乍ら、芥川の下腹部に自分の頭を押し付ける。ぐりぐりと思う存分頭を擦りつけ、一旦顔を上げる。
「あっ」苗字は気づいた。
芥川の首元にはいつもぶら下がっているスカーフが無かったのだ。
というのも先程、苗字の口元の珈竰を拭ったのがそれだったせいである。スカーフが無い。取った時に釦も外れたのか、普段はぴっちりと仕舞われている芥川の白い鎖骨が、どうぞ見てくださいと剥き出しになっていた。
苗字を突き動かすのは本能だった。
苗字は考える間もなく、芥川の鎖骨に唇を寄せ皮膚の上からちゅうちゅうとその骨の形を確かめた。
首元に舌が這う生温い触感に、漸く正常な意識が戻って来た芥川は、目下自分の首元を必死に吸う女に眩暈がした。再び意識が遠のきそうになるが、これではマフィアの名が廃る。芥川は、漸くの思いで苗字の腰に手を回し、抱きしめた。
2016.08.28
夏に恋する企画’16(カリソメ番外編)