白鯨の中での推理遊戯は実に有意義なものであった。
結果は自身の敗北にせよ、因縁の対決を経た収穫は大きかった。乱歩に次の勝負も期待していると云わしめたのだ。
エドガー・アラン・ポオ、齢二十八。帰郷は軽快な足取りであった。根暗な彼がとうとう狂ってしまったのでは、と周囲が疑問を抱くほどに。そんな心配を余所に、ポオは鼻歌まで歌う始末である。
「ポオ、ご機嫌ね」
隣人の名前が顔を出す。
元々他者と関わり社会の内部で生きることを苦痛とするポオは極力の外出を控えていたが、六年前から、増してである。空腹も、生活インフラも限界まで我慢する男であったので、隣人は気が気でなかった。四半世紀の付き合いであるが、なかなか懐かないので世話のし甲斐もある。
「事件は無事に終わったのね。怪我はない? 心配するから電話の一本でも寄越して頂戴。いつ帰ってくるのか判らなかったけど日持ちするものを冷蔵庫に買い足しておいたからきちんと食べること。暫くは家にいるのかしら。それならお肉やお魚、精のつくものも買ってこなくちゃ。少し見ない間にまた痩せたんじゃない? 羨ましいわ。でも彼方はそれ以上痩せるべきではないの。きちんと食べてね。カールも元気だったかしら。もう。危ない仕事ならカールは置いて行ってと云ったでしょう。迷子にでもなったら大変だわ。その間はわたしが責任をもってお世話しておきますから」
ああもう! ポオは頭を掻き毟る。
「五月蠅いのであるッ!」
隣人の声は留まることを知らず、言葉は機関銃の如く乱射されポオの精神をずたずたに打ち抜いた。堪らずポオは叫号した。
「我輩は今まさに忙しいのである! 名前に構っている暇なんてものはこれっぽっちもないのだ! 乱歩君と再戦のための高位推理小説の執筆に勤しまねばならない!」
「ポオ、もっとお腹に力を入れて発声してみて」
男の悲痛な主張はか細く、隣人の声にかき消された。それどころか発声の指導が入り、愛玩動物であるアライグマのカールは退屈だとばかりに欠伸をした。主人が虐められているというのになんという狸だ。何故こうなるのだ。何故そうなのだ。ポオは思う。折角晴れやかな気持ちで帰ってきたというのに、小うるさい隣人が全て掻っ攫って行ってしまう。
「我輩のことなど構ってくれるな! 異能力――」
ポオの能力「モルグ街の黒猫」は読者を自身の執筆した小説の中に引きずり込むというものであった。隣人はたちまち本の、ポオの異能力の中に吸い込まれた。
――殺害されるのは事件発端の一人だけ。
ポオが隣人に宛てた小説は、読者が被害者になることも、また加害者になることもない、至極単純で安全な推理小説である。隣人としての誼だ。尚、ポオの異能力は小説の中の真実を暴くまで戻ってくることはできない。
これで二、三時間は静かに執筆作業へ没頭できるだろうと、ポオはようやく一息つくことができた。
▽△▽
名前の眼前には一人分の死体が転がっていた。
胸には、ずっぷりと包丁が食い込んでおり、ベッドは血液に染まっていた。
▽△▽
超大作が出来上がってしまった!
ポオは満足げに微笑む。その表情は伸びきった髪の毛に隠れて見ることは叶わない。月明かりが不気味さを演出する。妙に筆が乗ってしまい、気が付くと陽はとっくに落ちていた。
そういえば名前はどうしただろうか。いくらポンコツの隣人の脳みそでも、流石に半日も経てば事件は解決している算段である。小腹が空いたような気がする。名前は肉と魚を買ってきただろうか。しかし我輩はマッケンチーズが食べたい気分である。横浜で食べた蕎麦も寿司もオムライスも美味であったが、離れてこそ故郷の味の良さが身に染みた。ポオは米国の家庭料理を思い、空腹を摩る。
「名前……名前……」
呼べども隣人からの返答はない。マッケンチーズが食べたい。ほかほかのパンも添えて欲しい。
四半世紀の間中、甲斐甲斐しく世話をしてきた名前が、今更ポオを突き放すなんてことは考え難かった。抑々、考えたくなかったので考えたことがなかった。こんなに暗いのだ。名前は、きっともう自宅に帰ってシャワーを浴びて寝たのだろう。……そう思うにも、普段であれば絶対に無理やりにでもポオの頭を撫で繰り回し頬に唇を落とさなければ帰らない困った隣人であったので、厭な不安が胸をよぎるのだった。
「キーキー」アライグマが鳴く。
カールも腹が減ったのかと、ポオが振り向いた先には、隣人を閉じ込めた本。
「真逆……」
▽△▽
「大変だったわね」
名前は大きな男の肩を抱き、慰めた。
「真逆、死んでいるなんて思わなかったんだ」
「隣人をあのようなかたちで失くすなんて、誰も思わないわ」
名前は木綿のハンカチーフを差し出す。さぞ衝撃を受けたでしょう。男は名前に抱き着いた。
▽△▽
「この茶番は何事かッ!」
ポオは叫号した。腹筋にありったけの力を込めて、発声した。
しかし、本の中の隣人には届かない。
あらあら、ではない! 胸部に顔を埋める男を許すな! ポオの心は急激にささくれ立ち、空腹のことはすっかり忘れていた。アライグマは未だキーキーと鳴いていた。
▽△▽
「彼は、とても優しい男だった。隣人として越してきた僕に、とても良くしてくれていて」
男は過去の思い出を振り返り、時折言葉を詰まらせながら殺害された男の話をしてみせた。
「ええ。わかるわ。わたしにもとても素敵な隣人がいるのよ」まだ生きているけど。
「嗚呼、どうか貴女はその隣人を大切にするべきだ」
「そうね。ねえ、もっと彼方たちの思い出を聞かせてくれないかしら。お恥ずかしながら、わたしは隣人関係がうまくいっていないようなのよ。わたしは隣人のことがとても好きなのだけれど、きっと彼はわたしのことを煩わしく思っているのね。だから――」
名前は続く言葉を飲み込んだ。
だから、こんなところに閉じ込められてしまったのだわ。
ポオの怒った顔を思い出すとひどく胸が痛んだ。名前が悲しそうな顔をすると、男は任せてと笑った。
「彼は難聴でね。僕が引っ越してくる以前から容体が悪化して、最近手術をする予定だったんだ。耳が聴こえなくても筆談や手振り、表情で補えたけれど……聴力が回復したらコンサートに行こうと約束もしていたんだ。地方ですごく有名なんだけど、判る?」
男が差しだしてきたのは二枚のチケットであった。その歌手に名前は見覚えがなかった。判らないわ。ごめんなさい。音楽にはめっぽう疎くて。名前が正直に言うと男は笑った。
▽△▽
「それは我輩が考えた空想のオペラ歌手である! 名前の知る由もないことだ! そんなことはどうでも善いのだ! 本当に! どうでも!」
ポオはひとり、本に向かって孤独の部屋で叫び続けた。早く真実を暴いて出てこい。マッケンチーズを振舞いやがれ!
▽△▽
「本当に、ふたりは素敵な隣人なのね。ふたりでコンサートに行くなんて、徒ならぬ仲なのだわ」
「そうかい? 僕たちはこれが普通だから判らないけど」
「だって、ただの隣人ならば一緒の部屋で寝ないでしょう。だって、隣人なんだもの」
男の表情が固まる。
「どうして僕が彼の部屋に泊まったと思うんだい?」
「彼方、警察に証言していたでしょう。自分が第一発見者で、あまりにも鳴りやまない目覚まし時計に痺れを切らして、見たら、彼が刺されていたって」
「それは、僕の部屋にまで響くくらい五月蠅くて、見に往ったんだよ。僕の部屋から、彼の部屋へ。ほら、僕たち、隣人だから」
男が早口で捲し立てると、名前は親指の爪を唇に当て、首を傾げた。
「それなら、猶更可笑しいじゃない。だって、彼、重度の難聴を患っていたんだもの。目覚まし時計なんて使うはずがないじゃない」
何かが引っ掛かる。名前は自分の言葉を咀嚼する。そうよ。そうなのだわ。目覚まし時計なんて、可笑しいじゃない。名前は、はっとした。気づいてしまった。
「彼方が、彼を殺したのね……?」
名前は男を見る。男は悲しそうな顔をしていた。視界が白んでいく。どうして殺さなければならなかったの? よりにもよって、隣人を。ポオが考えた筋書きだと判っていても、否、ポオの考えた筋書きだからこそ、名前は知りたかったのだ。然し、その願いは空しく叶うことはない。
隣人は小説の中から帰還した。
▽△▽
「非道い! あまりにも非道い話だったわ!」
戻ってくるなり隣人はポオの胸を叩き、抗議した。
ポオはおかえりと言う前に、名前の勢いに閉口以外の術を絶たれてしまった。隣人は如何にポオが人間としての道徳と倫理が欠損しているか説いた。
「なんでよりにもよって隣人殺人事件だったのよ!」
それは本当に偶然だったが、ヒステリカルな女に、偶然、偶々、ついうっかりは火種に油を注ぐことをポオは知っていた。押し黙ると名前は「わたしのことも殺したいほど憎いというわけね」と自虐的に笑った。隣人の目の縁にはみるみる涙が溜まり、口角を下げると同時に綺麗な弧を描いて落下した。
「云ってくれればいいじゃない。大事なことは云ってくれないと判らないの。云ってくれれば、わたしにだって何度も引っ越す機会はあったのよ。進学でしょう。就職でしょう。それにボーイフレンドができたとき。同棲を誘われたの。彼とはもう別れたけど。それから転職。そして今ね。嗚呼、駄目ね。これが駄目なのね、わたし。つい喋りすぎちゃって、御免なさい」
ポオは衝撃を受けた。確かに自分は人間然として道徳と倫理が足りなかったように思えたからである。
然しポオは知らなかった! 隣人が引っ越しを考えていたことなど!
更にポオは知らなかった! 隣人にボーイフレンドがいたことなど!
「どうせなら、温かい恋愛小説に閉じ込めて。ポオが書く恋人なら、わたし、きっと好きになるわ」
星が飛んだ。
飛んだ星は瞼の裏に、ガツンと落下した。
「如何して、如何してそのようなことを云うのだ……」
「このままポオに囚われていたら、わたしは老婆になってしまうの。賢くて富も名声もある米国一である名探偵の彼方と違って、わたしは駄目な女だから、それはとても恐いのよ」
駄目な女でも好いではないか。駄目な老婆でも好いではないか。自分に囚われたままであれば何も問題ないではないか。ポオは思う。
「我輩に囚われているのならば、我輩が責任を執れば解決するのであろうか」
隣人は顔をしかめる。「簡単に云わないで」
「賢くて富も名声もある我輩が云うことの何に恐れる」
「駄目なわたしを許してくれる貴方に、わたしは何を捧げればいいの? お願い。云って頂戴。大事なことは云ってくれないと判らないの」
ポオは腹から声を押し出し、云った。何、簡単なことである。
「頭を撫で繰り回して頬に唇を落とし、それからマッケンチーズを振舞ってくれれば」
隣人との距離が縮まる。ゆっくりと、ポオの頬には名前の唇が押し付けられた。ポオの細い身体は、そのまま抱きしめられて、唇がくっついたまま頭を撫で繰り回される。未だ只の隣人である。ポオの腕が彼女の背中に回ることは遠い。
「自分のことを忘れてくれるな」
そう云うように、アライグマがキーキーと鳴いた。
2016.06.xx