改札を抜けて駅を出て、それだけなのに空はもう暗い。
 朝は家から駅まで歩いて、夜は駅から家まで歩いて、その間は会社に居るだけで、それだけ。たったそれだけで、私の一日は終わってしまう。
 そんな夜によろよろと歩いて帰ることが私の些細な楽しみであったりする。
 帰路にはバスケットボールのゴールがある。海外のストリートバスケのような仕様ではなく、申し訳程度に設置されているものだ。夜間も弱い電燈で照らされている。私が帰宅する時間にも、誰かが練習に使っていた。真剣にボールとゴールに向かっている姿を見るの好きだった。
 フェンス越しに見えたのはえらく長身に黒髪の男の子だった。
 ダム、とボールを一回だけリバウンドさせてから、するっと伸びる腕。素人目から見ても綺麗なフォームだとわかった。ボールが空中に弧を描く。ボールは決まっているかのように、当然のように、リングに吸い込まれていく。見事なシュートであった。
 えらく長身で黒髪の男の子は湘北高校のジャージを着ていた。彼との遭遇率は比較的高い。たまに朝も見る。
 彼以外にも、赤毛の男の子やかわいい女の子をよく見かける。それでも、この、えらく長身で黒髪の男の子との遭遇率がやっぱり一番高い気がした。
 ばちりと視線がぶつかる。「あ」と低い声が零れた。私のものではない。
 えらく身長の高い黒髪の男の子は、ズンズンと私の方に向かってくる。
「あの」男の子が言う。
「どうも」私が返した。
 近くで見ると、想像していたよりも大きい男に、声が震えた。私と彼を挟むフェンスも相まって、さながら猛獣のようで、すこし怖い。何せ、遭遇率が高いといえどこうやって話すのは、初めてなのだ。
「アメリカに行こうと思って」
 彼の声は思っていたよりも低い。男は汗を拭いながら私に言った。
 アメリカに行くだなんて、そんなことを言われても私はどうすればいいのか。なぜと聞くべきか。いつと聞くべきか。どうして私にと聞くべきか。
 悩みながら彼の目を見ると、自然と出たのは「そうですか」。とりあえずの当り障りのない相槌。なんてつまらない返事なのだろうか。まるで私そのもののようで、言って、少しの羞恥心が沸いた。朝は家から駅まで歩いて、夜は駅から家まで歩いて、その間は会社に居るだけで、それだけのことしかしていない私に、アメリカへ行こうと思うと啖呵を切る男は大きすぎる。
「私も、もっと貴方みたいに熱心になれるものがあればそう思うのかもしれません」
 社会の歯車のように、あってもなくてもいいもののように成ってしまった私。それはきっと、一概に、熱中できるものがなかった事が理由ではないと思うけど、きっと彼らのように毎日ボールを触っていたら、私もアメリカに行こうと思えたかもしれない。
 私がバスケットゴールの横を歩く時だけ足を止めて、食い入るように彼らを見ていたのは、羨望だとさえ思う。亦は若さに対する嫉妬なのかもしれない。
「一度きりの、貴方の人生ですよ」
 こんなつまらない女の言葉なんて聞いて欲しくはないけれど、彼はそれでも私に声を掛けてしまったのだ。どうか私のように成ってくれるなと願いを込めた。フェンスだけの壁が心許ない。
「明日、監督に相談する」
 頑張って。じゃあ。おやすみなさい。短く会話は終了した。
 彼が背を向ける。やはり、大きい男は背中も大きかった。見慣れているはずなのに、どうしてか一段と大きく見えた。
 バスケットボール。アメリカ。監督に相談。となると、やはりバスケットボールでの留学なのだろうか。全く知らない男子高校生のことだけど、きっと彼なら私には大きすぎる壁も、スマートに熟してしまうんだろうなあ。天を仰ぐ。空は雲で覆われている。星なんてロマンチックなものは見えない。誰かが東京には空がないと言ったのを思い出す。じりじりと電燈だけが光っていた。

 じりじりと電燈だけが光っていた、翌日である。
 私は今日もごった返した駅から排泄されるように押し出された。
 よろよろとコンクリートの上を歩き家を目指す。
 ダム。ダム。ボールの音が響く。
 フェンス越しに、今日もじりじりと鳴く電燈に照らされるのは、昨日の男。
「あの」男が言う。
「どうも」私が返した。
 昨日の応答となんら変わらない。私はこれでいいのかもしれない。そして彼もこれでいいのだ。
「アメリカ延期になった」
 一瞬面食らう。監督と話したのだろうか。詳しくはわからないが、そう言った彼は穏やかな表情であった。「そうですか」とりあえずの当り障りのない相槌。なんてつまらない返事なのだろうか。まるで私そのもののようだったけれど、変に見栄を張る必要もないように思えた。
「諦めてねーけど」
「そうですか」
 少し笑った。今夜も星は見えない。

20120130
20160904加筆訂正
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