酔っぱらいの笑い声。怒声。泣き声。それから調理場の火と油がぶつかる音。粋のいい店員たちの声は、そんな喧騒を蹴散らし見事に注文を伝達していた。大衆居酒屋、天晴。
暫く旦那が出張だからと、名前は羽根を伸ばしに同僚と食事がてら愉しく酒を飲みに来た。
手羽先。箸なんかで身を解してなんかやらない。名前は皿にごろんと乗っかって出て来た手羽の両端を、甘辛いタレなんか物ともせずにむんずと掴み、ばっさりと裂いた。先ずは大きい身のついている方から豪快に食いちぎり、ぷりぷりの肉の触感を口の中で楽しむ。指についたタレをべろりと舐め、身が削げた骨を皿に返す。口の中に残る肉の風味と後を引く甘辛いタレを麦酒でぐいっと流し込んで、もう一口。ジョッキを傾け、弾け乍ら喉を押し進める麦酒をままに喉を動かすと、同僚は云い飲みっぷりねと思わず拍手を送った。
「名前さん旦那さんって何の仕事に就いているの?」
小さい方の手羽に口をつけようとしたところで、同僚からの質問に名前は硬直した。肉に齧り付こうとあんぐりと開いた口はそのまま、目玉だけギョロリと同僚に向ける。
名前は空に己の夫の顔を思い浮かべる。
柔らかい黒の髪の毛に被写体のような体躯で、くねくねしながら「名前ちゃぁん」とへらり、笑顔を浮かべて手を降っている。名を太宰治という。仕事は探偵社の調査員をしている、らしい。名前は実のところ、太宰のことをよく理解していない。
同僚に説明する前に考えてみたのだが、成人済の男の職業が探偵とは、なんだか怪しい。さらに太宰という男は悩ましいほどの美丈夫で、探偵としての胡散臭さといえば折り紙付きであった。
「今回は上司の付き添いで九州の方にって聞いていたけど」
今回は九州。たまにふらっと消えてはその辺の川を流れていたところを拾われたり、その辺の山で倒れていたところを拾われたのち最悪な場合として軍警からの報告があるが、今回は事前に説明があった上に同行者がいるというのだから珍しいことなのだ。謝りながら身元を引き取りに往く心配が薄い。従ってこうして気楽に酒を飲みに出かけられるのだ。
「旦那さん若いんだ。上司の付き添いなんて大変そうね」
太宰の齢は二十二。あまりにも若すぎるのでこれは同僚に云い難い。曖昧に笑えば「うちのもね――」と同僚の旦那の話題に移る。
揚げ出し豆腐。はしたないが底の深い皿に口を付けて、だし汁から頂く。このだし汁がまた冷や酒に合うのだ。
最終電車が出てしまう前に切り上げようと云ったのは名前であった。同僚の瞼は間もなく降りきる。もう呂律の回りも怪しく、これはタクシーにブチ込むしかないなと名前は諦めた。同僚をタクシーに乗せたら、名前は電車に乗る算段だ。それでも、自分のこの心地よい浮遊感を茶漬けや拉麺で消してしまうのはどうも勿体無く、締めの一品として頼んだのが揚げ出し豆腐であった。
そういえば、太宰も豆腐作りに精を出していた頃があったと云っていたような気がする。名前は細かく刻まれた葱と大根のおろしを、豆腐一口に見合うよう分配しながら再び夫の顔を思い浮かべる。ダシに絡んだ衣が上手く豆腐を切らせてくれない。同僚に目を向けるととうとう瞼は閉じられ、えへへと笑っていた。善い夢を見ているのだろう。ならば、ええい、構うかと適当に切ったところで口まで運び、無理やり押し込むと口の中には旨味とともにとびきりの熱が襲ってくる。はふはふとみっともなく咀嚼しながら冷や酒で流し込む。ようやく一息つくと胸の辺りがじんわりと熱くなる。熱燗にしようか悩んだが、冷やで正解だったなと名前は自分の采配に満足げに頷いた。
さてもう一口、と箸を勧めたところで携帯電話が震えた。
太宰の九州への出張は思ったよりも早く終わりを告げた。というのも、流石は探偵社を支える稀代の頭脳、江戸川乱歩と云うべきか、現場に到着するや否やあらかたの謎は解いてしまったのだ。それから現場の刑事を野次ったり、観光地を巡ったり、美味しいものを食べたり、とにかく遊んで過ごした。乱歩がそろそろ退屈になってきたなあと両手に溢れんばかりのお土産を抱えたところで、図ったように横浜で乱歩の頭脳が入用な依頼が舞い込んできた。
「という理由だよ、国木田くぅん」
私が居ない探偵社は寂しかったかいと二○加煎餅を目元に当てながら太宰は云った。
「お前が居ない探偵社は空気が澄んでいた。清々した。判ったらサッサと報告書を仕上げろ」
国木田は太宰が遊んでいる二○加煎餅を取り上げ思い切り齧り付いた。日は既にどっぷりと沈んでいた。
「……美味いな」国木田が一つ目の煎餅をぼりぼりと食べつくし、二つ目の煎餅に手を出そうとしたところで制止の声がかかった。
「それはうちにお土産だから駄目だよ」
「お前に土産なんぞ渡す相手がいるのか」国木田は怪訝な顔で太宰を見る。
「フッフッフ」太宰は勿体ぶるように低く笑い云った。
「その人は屹度今にも私を恋しがって布団を涙で濡らしているに違いない」
「そんな理由あるか! 俺は今度こそ騙されんぞ!」幾度となく太宰に騙され煮え湯を飲まされてきた国木田は唸った。
「それなら今からここで確認して見せよう」太宰は自らの携帯電話を取り出した。
太宰が電話番号を入力すると呼び出し音が流れる。国木田の今度こそ騙されんという気合いは呼び出し音が繰り返される度に擦り減り、飛び出し音が止んだ時に破裂した。太宰の携帯電話からは「治君どうしたの」と女の声が聞こえる。
「名前ちゃぁん。なんと私、今横浜に居るのだよ」
「えっなんで」
「思いのほか早く事件が解決してしまってね。それより随分賑やかなようだけど、どこに居るのかな」
「同僚と飲んでるの。もう帰るとこ」
「ええ! 私も名前ちゃんと酒を酌み交わしたかった!」
「また今度ね。用件は終わり? 治君も気を付けて帰ってね」
「待って待って! あっ! イイコトを思いついた!」
「じゃあ切るよ」
「私飲んでないし名前ちゃんのことを迎えに往こうかな、車で」
太宰はうふふとお茶目に笑った。
「此方が同僚の国木田君。そして此方が先程話した私の妻の名前ちゃん」
太宰の言葉に国木田の魂はすぽんと抜き出た。抜け殻となった国木田の肉体は頭蓋からステアリング・ホイールに突っ込む。駅裏のロータリーにはクラクションの音が響いた。耳を劈くようなその音が、まさに国木田の断末魔ではないかと、太宰はすこぅしだけ、吃驚した。
車を運転したのは国木田だった。
国木田とて、名前とて、断固として太宰に運転させるわけにはいかなった。太宰にハンドルを握らせたその車体には死神が憑りつき、先ずは精神を蝕み運が悪ければ肉体を滅ぼす。乗車した者の寿命は四半世紀縮むと専らの評判だ。
「本当は私が格好良く運転して迎えたかったのだけど」太宰は助手席からひょっこり顔を出す。
「国木田さん有難う。治君が車で迎えに来るって云った瞬間は念仏を唱えたよ」名前が後部座席に乗り込む。
国木田は後部座席の扉が閉まった拍子に抜き出た魂を手繰り寄せ、どうにか息を吹き返した。それから数回ぱちくりと瞬きをし「太宰と婚約をしているのか」と尋ねた。車が発信した。
「婚約と改めて云われると照れるなあ。まあ、そうなんだけど」
名前が頷けば、太宰は「ねー、私たち新婚でラブラブなの」と、幸せですという電波をバリ3で飛ばしながら云った。
「失礼だが名前さんの婚約しているその男は見た目こそ人の成りをしているが、その実、メフィストフェレスやアザゼル、シャイターンからオーガまでありとあらゆる悪魔を煮染めた出汁を固めたような男だぞ」
国木田はフロントミラー越しに名前の顔を確認しながら険しい声で云った。
「知ってる。気が付けば川を流れているし山に埋まっているし」フロントミラーに映る名前は微笑んで云う。
「先日はドラム缶に詰まっていた」名前の靨に比例するように国木田の眉間に皺が寄った。
「女性と見れば心中の誘いをして歩くし。わたしにもそうやって声を掛けて来たの」
名前が太宰との馴れ初めを話し始めたところで国木田は待ったを掛ける。
「此れから良い話になるんだよ!」太宰は云った。国木田は構わない。
「何故そんな男と婚約を決めたんだ」
名前はううん、と唸り「容姿以外で、強いていうなら可哀想だから」と告白した。
「なんだか可哀想でしょ。死にたくて、自殺未遂を繰り返して、それでも死ねなくて。屹度死んでも死にきれないのよ、この人。だからかなあ、心中は御免だけど、治君とね、同じ墓に骨を埋めたいと思ったの」
容姿以外で、というのが国木田の心には引っかかったが、隣の太宰を見ると蕩けた顔で「私ってば愛されてるぅ」と宣っていた。成程、駄目な男にほど手を焼きたがるものだって云うしな。国木田は自身を無理やり納得させ、アクセルを強く踏み込んだ。
「だから私も安心して自殺を繰り返せるという理由だよ」
「接続詞の意味が全く判らない」
「死んで焼かれて骨になったら、名前ちゃんと同じところに仕舞って貰えるからね」
国木田は聞かなかったことにして、ラヂオの電源を入れる。何故自分は各種悪魔を煮染めたような根性の同僚の妻を迎るために車を走らせているのだろうか。何故そんな夫婦の不可解な惚気話を聞かされているのだろうか。ラヂオからはジャズのインストゥルメンタル曲が流れてきた。
20161027
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「太宰で夫婦の話」
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