土曜日、朝。


 名前は赤茶けたレンガ造りのビルヂングを急ぎ足で通り過ぎた。
 ビルヂングの一階に入っているのは「喫茶うずまき」。
 横目で人の入り具合を確認すると、正午前だというのに様々な客層で賑わっていた。店員は可愛らしい給仕服の裾を翻して、忙しそうに店内を駆け回っていた。
 名前は信号を渡り、喫茶うずまきの向かいのビルヂングのさらに奥、入り組んだ裏路地を進む。都会の喧騒から切り取られたような緑が広がってくる。そこに鬱蒼と茂る蔦が這う建物が名前の目的地だ。蔦から辛うじて覗く扉を押せば、カランと涼しげな鈴の音が鳴った。
「おはようございます」
 名前が挨拶をすればカウンター席に腰掛けた女が「おはよぉ」と間延びした声で返した。
「店長。うずまき、朝から賑わってましたよ」
「うちは未だ開店時間前だから」
 店長と呼ばれた女は未だ眠たそうに瞼を擦りながら笑う。
「店員も、可愛い給仕服を着てました」
 ひらひらの、と名前が身振り手振り伝えれば、店長は「名前ちゃんはそのエプロンに不満?」とデニム生地の簡素な前掛けを指さしながら云った。
「そうじゃなくて。うちももう少し目立つ処に移転するとか、せめて店を這う草を一掃するとか、集客するべきだと思うんですよ」
 名前が鼻息荒く力説すると店長は眉を寄せた。
「うちはそういう店じゃないからなあ」
「そういう店って……だって、うちに来るお客さんってどこか訳あり風な常連ばかりじゃないですか」 
 名前は店に来る客を思い返しながら前掛けを付ける。名前がこの喫茶店で働き始めてから新規の客を見たことがない。その上、すぐに顔も名前も憶えられるほど客足は少なかった。お給料はちゃんと貰えているから、わたしが心配するようなことではないんだろうけど――名前はこの店が好きだからこそ心配してしまうのだ。

「店長、この店の収入源ってどうなってるんですか?」







日曜日、夜。


 名前は気を付けて帰ってね、と店長に手を降られ蔦まみれの店を後にした。
 入り組んだ路地裏を抜け、車通りの多い道に出る。交差点を渡って喫茶うずまきの前を通ると店内は未だ賑わっていた。
 喫茶うずまきは近くにある同業店ということで、名前は勝手に妙な敵対心を抱き、ついつい気にしてしまうのだ。店長は気にしない気にしないと笑うが、彼女がそんなふうに呑気に笑うものだから、余計、名前は気になってしまっていた。
 ひらひらと裾のフリルが踊る給仕服が羨ましくない、と云えば嘘になってしまう。女の子ならば、甘いレースのジャンパースカートに身を包まれて頭にヘッドドレスをちょこんと乗せることに一度は思いを馳せてしまうものではないのだろうか。
 店内には可愛らしい給仕と、年齢も服装も統一性はないが美男美女揃いで、あちらとこちらではまるで別世界のようだった。
 店長の料理も珈琲も絶品だ。客足が少ないのは、矢張り立地と外観の問題じゃないだろうか。名前は考える。







月曜日、朝。


「あの、店長、その方は……?」
 名前が出勤すると、カウンター席にはいつも通り店長が腰掛けている。いつもと違うのは、その真後ろのボックス席のソファで、見たことの無い男が寝ているということだった。
 真逆、店長の……? 店長は店の二階に住んでいるので彼女の友人が時々顔を出すこともあるが――名前がへんに勘ぐるとどうやら顔に出ていたようで、店長は違う違うと訂正した。
「朝、扉を開けたら店に引っかかってたの」
 店に、引っかかる? 名前は男が店に引っかかっているという状況が一体どういう具合だったのか想像できず、表情がどんどん険しくなる。
「何でそんな怪しい男を拾ってきちゃったんですか!」
「この辺、飢えたカラスが多いでしょう。店の前で鳥葬が始まったら大変だと思って」
「店に引っかかってる男なんか捨て置けばいいんですよ! 市警に連絡はしましたか!? 所持品は確認しましたか!? この男の身元は!? わたしが来るまで店長が無事だったから善かったものの――」
 名前が店長の身体の無事を確認しながら捲し立てると「ううん、五月蠅い」と低い声が唸った。
 ちらりとボックス席のソファを見ると、男はもぞもぞと寝返りを打とうとして床に落ちた。
「痛っ!」
 男は床に落ちてから身体を起こそうとして今度は机に頭をぶつけた。
「痛っ! なになに敵襲!?」
 寝ぼけながら机の下から這い出て来た男は漸く意識がはっきりしてきたようで、店内をゆっくりと観察し始めた。彷徨う黒目が名前と店長を捉える。名前と店長も男の顔を覗き込む。途端、男はにぱっと笑顔になる。

「目が覚めたら美人がふたり! 私ってばツイてるぅ!」







火曜日、昼


「職場から程なく近い、善い隠れ家を見つけてしまったなぁ」
 男はカップに口を付けた。
「平日の昼から入り浸って……暇なんですか、太宰さん」
 名前が太宰と呼んだのは、昨日店に引っかかっていた男である。
 何でも変なキノコを食べてから記憶がないらしく、どうやって店まで来たのかも、どうして店に引っかかっていたのかも記憶にないらしい。意識が戻ってからは盛大に腹の虫を鳴らし、店長の拵えたモーニングをガツガツと平らげた。
「昨日も思ったけど、不思議な空間だよねぇ。此処は」
 太宰が店内をぐるりと見回す。
 外壁を這っている蔦は窓にもびっちりと敷き詰められ、店内に外光はない。剥き出しの電球がいくつもぶら下がっており、店内を橙色に照らしていた。控えめなピアノ曲とシーリングファン、古時計の秒針の音だけが聞こえる。
「食事を出されるまで朝だって気が付かなかったもの」
「確かに、此処にいると時間の流れが判らなくなります」
「ね。今日は時間に気付かなかったことにして、就業時間までここで名前ちゃんとお話する日にしようっと」
 太宰は矢鱈時間に五月蠅い同僚と、自分が居なくて慌てふためくであろう後輩の姿を脳裏に浮かべた。







水曜日、夜。


 名前の手には焼き菓子の入った袋があった。
 今日も太宰さん来るかなあと店長が焼いたのだが、結局太宰は来なかった。一日ガラスケースに仕舞われていた焼き菓子は、名前が帰る際に「夜食にでもどうぞ」と店長が渡してくれた。嬉しい反面、こんな時間に焼き菓子を食べるという行為に背徳感が沸いてくる。
 交差点を渡ると、ガラスケースに仕舞われていた焼き菓子を食べるはずだった男がそこにいた。
「おや、名前ちゃんじゃないか」
「太宰さん。もしかしてお仕事ですか」
「そう云う名前ちゃんはお仕事帰りかな」
 太宰は昨日よりも疲れた顔をしていた。大変な仕事なのだろうか。名前は手の中にある袋を思い出した。
「太宰さん、これ、善かったらどうぞ」
 名前が袋を差し出すと、太宰は大げさに喜んで見せた。
「わぁ! 名前ちゃんからプレゼントだなんて、なんだろう。嬉しいなあ」
「店長の焼き菓子です」
「店長さんの。それはさぞ美味しいだろうね。でも、私が貰ってしまっていいのかい?」
「太宰さんお仕事でお疲れでしょうから、甘いものを食べてください。わたしは夜に食べる焼き菓子の背徳感と闘っていたところでしたので」
「では、喜んで頂戴するよ」
 名前はぺこりと頭を下げ、太宰と別れた。
 ふと目についた灯りは、喫茶うずまき。中では裾のフリルを翻す店員が店仕舞いをしていた。華奢な身体が纏っているクラシカルな給仕服は、屹度自分には似合わない。太宰に焼き菓子を渡せて善かった。
 名前は自然に早くなる足で家を目指した。







木曜日、朝。


 名前が出勤すると、カウンターには茶色い遮光瓶が座っていた。
 郷愁漂う店内の、そこだけ時空が歪んでいる気がするほど不似合いである。ラベルを見ると日本酒のようだった。
「店長。如何したんですかこれ」
「今朝、太宰さんが置いて往ったの。お世話になっているからって」
 名前は昨晩のことを思い出す。
 店長の焼き菓子は美味しかっただろうか。
「名前ちゃん、昨晩太宰さんに遇ったんでしょう」
 丁度考えていたことを云い当てられ名前の肩が跳ねる。
「そこの交差点で、ばったり」
「焼き菓子美味しかったって云っていたから」
 焼き上がった時の香りといい、きつね色の焼き目といい、確かにどこからどう見ても美味しそうだった。美味しいに違いなかった。昨晩は背徳感と闘ったが、今差し出されたら間違いなく飛びついて食べるだろう。
「今日もお客さんが少なそうだったら焼こうかなあ……って、こんなことを云ったらまた名前ちゃんに怒られちゃうか」
 店長は眉を下げながら云うと、前掛けを付けて開店準備を始めた。名前も店長に倣い、前掛けを付ける。
「わたしには屹度、ひらひらの給仕服は似合いませんけど、このお店が好きなんです」
 名前が云うと、店長はそんなことないよと返す。
「名前ちゃんのエプロンの裾にいっぱいフリルつけようか?」
「要らないです! そうじゃないです!」
 名前は耳まで真っ赤にさせながら踵を返した。







金曜日、夕方。


「ここ最近の花金は居酒屋で一杯ひっかけるのが至高だと思っていたんだけど、変わっちゃいそう」
 太宰はこれでもかというほど果物が詰まったグラスを傾けながら云った。
「こんなに豪快なサングリア見たことないよ」
「店長の趣味ですよ」
 名前が料理を運んでくると、太宰は名前ちゃんも一緒に如何? と誘った。
「太宰さん、うちはそういう店じゃないからね」制止したのは店長であった。
「店長さんも一緒に如何です」
 太宰が懲りずに誘うと店長は笑った。名前も釣られたように笑う。
「先日名前ちゃんに労わられたときに、仕事頑張ってよかったなあと思ってね。あ、云っておくけどねえ、あの時だけでなくいつも頑張っているのだよ。時間に細かい鬼のような同僚と、最近入社した後輩のお世話と――」
 名前が太宰の言葉を区切り、お疲れ様ですと云うと、太宰はぴたりと動きを止め、まじまじと名前を見た。
「な、なんですか」
「エプロン姿の女の子にお疲れ様ですって云われるのは、なんともグッとくるものがあるなあと思って」
「太宰さん、うちはそういう店じゃないからね」本日二度目の店長の声音は少し低い。
「店長さんも勿論素敵ですよ」
 太宰は初めてふたりに出会った時のような笑顔で云った。
 訳あり風な常連がまた増えてしまった。名前は思う。それが決して厭なわけではないんだけれども。
 太宰は一頻り喋り、話し、飲み、食べ、笑うと「それじゃあ私はこれで」と席を立った。
「いつでもいらしてくださいね」
 名前は微笑んだ。


20161030
100000hitフリーリクエスト企画
「飲食店で働く夢主が何らかのきっかけで太宰と仲良くなる」
リクエストありがとうございました!
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