「芥川君、否、芥川さん。昇進おめでとうございます」
 一週間ぶりに遇った苗字さんは、襯衣の一番上の釦までぴっちりと留められており、彼女にしては珍しい正装という井手達だった。その黒の外套を纏った苗字さんを見たのはいつぶりだろうか。
「改まって、どうしたのです」
「云ったとおりだよ。あ、です」
「はァ」
「芥川さんはこの度、首領直属の遊撃隊の隊長に座しましたので、わたしのような下級構成員が生意気を云って許される関係ではなくなってしまったのです。しかしながら、かつての同好の士として、芥川さんの昇進はわたし自身の誇りとも感じ得る喜び。なにか捧呈させて戴きたいと存じるのです」
 つい最近まで「ねえねえ、芥川君。珈琲にオレンジ風味のシロップは合うと思う?」と言っていたとは到底思えぬ変貌ぶりであった。ましてや胎内回帰などと猥褻な行為に及ぶ女人にはとても思えぬ。服装も相まってか、廉潔ささえ見てとれた。
「苗字さん」
「敬称も、敬語も不要に御座います」
「否、苗字さん。どうか今までと同様の対応でお願いします」
「大変嬉しい申し出ではあるのですが、それではわたしが上から叱られてしまいます」
 先日、中原さんが苗字さんを直々に迎えに見られた。苗字さんの配属先は中原さん直属の部隊であった。
 苗字さんはあんな調子であったので、中原さんは出会い頭から言葉遣いが成ってねェと怒り散らし、太宰さんはそんなことを云わなかったと反撃し、最終的には殴り合いながら部屋を後にし往った。挨拶も碌にできない別れであった。
 彼女の云う上、とは中原さんのことであろう。
「五大幹部で在る太宰さんには、下級構成員の友人がいました」
「織田作之助ですね」
「太宰さんは、階級など露程も気にせず、彼のことを織田作という愛称で呼んでいました。勿論、敬語もありません」
「我々の関係は友好と云っていいものだったのでしょうか」
「爾汝の交わりと云っても過言ではないでしょう」
「……ふっ、くッ、あは、あはは! 芥川君でも冗談を云うんだね。 ふふっ」
 苗字さんは観念したように笑った。
 この笑顔を見るのも実に一週間ぶりだ。
「この服も、難い話し方も、とても窮屈だったの!」
 苗字さんはタイを放り投げ、襯衣の釦を引き千切り、外套を脱ぎ捨てた上に寝転がった。
「とても貴女らしくなくて別人かと思いました」足元の苗字さんの目線まで姿勢を下げる。
「今、この一週間で一番生きている心地がする」
 ぐん、と襟巻を引っ張られ、つんのめる。
 嗚呼、これは、いつもの。
「胎内回帰」
 苗字さんの顔に、僕の胸部が押し当てられる。ぐりぐりと擦られる額は徐々に力が籠り、彼女の腕が僕の腰を掴む。僕は苗字さんを潰さないように間抜けな体位を維持しながら、ただただ床を眺めていた。

2016.06.14
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