なんだってこの僕、名探偵江戸川乱歩さんが、こんなに息を切らして走らなきゃいけないんだ!
向かうべき場所は知らないし、どの道を進めば善いのかも判らない。判らないが、脚はまるで本能に従うかのように勝手に進む。勝手に進むが、如何せん僕の体力は底を尽きそうで、水分の足りない喉はひっつき口の中には鉄の味が広がっていた。肺も膝も限界だと震えている。それでも走らなければいけない。勿論何故かは判らないが、そうしなければいけない事が正解である。
ようやく脚が止まり、辿り着いたのは何処ぞの教会か結婚式場で、屋根には大きな十字架が突き刺さっていた。
僕はいつもの服で着帽。祝儀も持たない。おまけに息は切れているし汗だく。無礼にも程があるのに、何故かすんなり受付を通してもらった。
扉を押すと、新郎新婦は既にバージンロードを歩き終え、教壇の前で今まさに愛を誓おうとしているところだった。ステンドグラスから注ぐ光に漸く目が慣れた頃、長いトレーンのウエディングドレスを纏った花嫁の顔がはっきりと見えてくる。
「名前……?」
僕の可愛い恋人の、その名を呼べども花嫁は隣の新郎の顔を見るばかりだ。綺麗にドレスアップされているけど、名探偵の目は誤魔化せない。横顔だってもう数えきれないほど見ている。僕が見間違うはずがない。あの花嫁は名前だ。
名前の隣に並ぶ新郎は、名前と揃いで仕立てられた白いタキシードに身を包み、ゆっくりと僕に向く。畜生! 新郎は余裕たっぷりに微笑んでいた。畜生! 僕だって! 僕だって、寝坊なんかしなけりゃなあ!
「そこに立つに相応しいのは僕だ!」
最悪の夢見だった。
部屋はまだ薄暗い。心なしか息が上がっている気がする。まったく厭な夢を見た。目を擦り、腕を伸ばせば柔らかい温もりがあった。
「名前……」
名前を呼んでもぴくりともしない。名前は僕の気も知らないで穏やかな寝息を立てて寝ている。おい、元はと云えば君が昨日あんなものを持ってあんなことを云うから、僕があんな夢を見たんじゃないか! そうだ! そうに違いない!
元凶はあれだ。女性誌のくだらない記事。結婚適齢期なんてものはなあ、人それぞれなんだ。僕だって気が付いたら二十六年も生きてしまっていたわけだけど、この愛らしさと頭脳は齢26に見えない自負がある。そんな名探偵の僕に庶民の結婚適齢期を当てはめるなんてのはまったく野暮な話じゃないか。
忌々しい女性誌め。名前を上手く唆しやがって。
結婚がしたいとかしたくないとか、そういう話じゃない。結婚資金があるだとかないだとか、そういう話でもない。敢えて云うならある。山のようにある。愛もある。山より高く海より深い。然し、そういう話じゃない。全てはタイミングなんだ。
探偵社に人虎が転がり込んで来て、ポートマフィアとドンパチやったと思ったら、今度は三十五人殺しが現れた。ポートマフィアだけでは飽き足らず、組合も混ざって戦争だ。此の魔都横浜は、それじゃあ満足しないのか、最近では異能兵器でドカンとやらかそうとしやがった。今じゃない。僕は名探偵で、けっして占い師みたいな胡散臭い者ではないが、確実に結婚のタイミングが今年じゃないことは判っている。今じゃないんだ!
そんな僕の思いなんか全く判らないだろう苗字は、三流記者が書いただろう下らない記事を眺めてから芳香剤のコマーシャルの如く、小花を散らしながらほほ笑んだ。はい、可愛い。
「乱歩さん。今、わたしの考えていることが判りますか?」
判る。十分、いや十二分に理解した。プロポーズね。オーケー、オーケー。でも今じゃないんだ。だからその煌煌とした瞳を向けないでくれ! 今は未だそのときじゃないんだ!
「なかなか難しい問題だなぁ。一晩考えさせてくれ」
僕が頼めばしょうがないですねえと下がる眉もまた可愛くて、唇を寄せると気持ちよさそうに煌煌とした瞳は漸く閉じられた。さあどうやってこのかわいこちゃんを誤魔化そうかと考えながら、うっかり僕も目を閉じた。その結果がこの夢だ。朝だ。朝か。一晩経ってしまったか。ここまで悩ませるとは本当になかなか難しい問題だ。
「ん……らんぽさん、もう起きたんですか……?」
僕がのた打ち回っていると、ようやく名前の意識も浮上したのか寝ぼけた様子でゆっくりと身体を起こした。違うもん。別に僕が起こしたわけじゃないよ。
気が付けば朝日は昇っていて、ステンドグラスではないが、薄い窓掛けが光に色を付け名前を後ろから照らしていた。なんだか呼吸が上手くできない。なんだこれ。ん? なんでステンドグラス? なんだかこの光景は、つい最近、見たことがあるような?
名前が瞼を擦りながら僕を探す。そのときにちらりと覗いた横顔の輪郭に、嗚呼、あの夢かと頭を抱えた。大丈夫。夢じゃない。夢とは違う。今ここにいるのは僕と名前だけである。
「らんぽさん早起きですねえ」
「寝坊するとお嫁さんを取られちゃうからねえ」
僕が云えば名前はまだぱやぱやしているであろう頭で一生懸命考えているようだった。
「難しい?」
「らんぽさんが云うことはいつも難しいです」
降参、と僕の布団に潜りこんでくる名前の肩は少し冷えていた。まだ朝は早い。温い湯たんぽも転がり込んできたわけだし、僕もこのままもうひと眠りするかと布団に潜る。
狭い布団の中をもそもそと動く名前を捕まえ、額に唇を押し付ける。次に瞼。それから頬と、唇に。
「寝っ転がったままの誓いのキスは格好がつかないな」
いつかあの夢のように、祝福の光を浴びて教壇の前で。それまではまだ、僕のかわいこちゃんには、この布団の中で妥協していて欲しい。
そういえば、あの夢で見た新郎がどこか僕に似ていたような気がしてきた。
20161110
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「乱歩で甘い雰囲気のもので恋人同士」
リクエストありがとうございました!