80円ずつ上がる値段に吐き気を追撃され、寮までまだ三百は尺がある路地で黒塗りのハイヤーを降りた。運転手に支払いを済ませると、財布に残ったのは銅とアルミの小銭だけであった。血液が冷えた。
 外気を含んだ肺はすこぅしだけアルコールを溶かし、この身体を正常に動かしてくれるような気がした。頑張れわたしの両の脚。寮まであと三百尺。

 告白すると飲み過ぎた。居酒屋二件でこのザマとは、情けない。







 今夜は予てより計画していた友人の誕生会であった。
 定時を知らせる鐘の音に立ちあがる同僚を羨ましく思い乍ら、自分の庶務机に乗っかる「今日中」と書かれた箱を見つめる。積まれた書類。
「無理でしょ」
 思わず零れた声に、ギラリと鋭い視線が突き刺さる。
「終わるまで帰れると思わないことです」
 同じく「今日中」と書かれた箱に庶務机を占拠された同僚、国木田君が低い声で云った。腹でも捌かないと逃げられそうにない。捌くくらいなら括る方が真面だ。わたしは花金に徹夜、更には休日出勤に腹を括ろうとした――矢先に庶務机に佇んでいる月表を見つけてしまった。今日の日付に目出度く装飾されている。おやおや? 数刻悩む。次に手帳を確認し、ここでわたしは漸く友人の誕生会を思い出したのであった。
 ああ、申し訳ないなあ。本当に。申し訳なくって、どうも頬が緩む。
「そういうことなので国木田君。去らば」
 同僚に簡素な別れの挨拶を済ませ、わたしは走った。猛烈に走った。振り返れば国木田君に腹を捌かれかねないからである。

 人の多い路地に逃げ込むとようやく国木田君の姿が見えなくなった。
 それにしても、学生時代からの付き合いである友人の誕生会を忘れるくらいのわたしである。プレゼントという概念は死んでいた。何か用意するべきなのは瞭然であるが、ここで問題なのは予算であった。
 誕生会を失念していた給料日前のわたしの財布はと云えば、かくも虚しい閑古鳥。……先週末は三連単ではなく単勝狙いでいくべきだったか。然し過去に思いを馳せてももう遅い。未来への遺産として心に刻もう。競馬は1着を当てる単勝式が本筋であり美学である!

 そんなわたしが友人への誕生日プレゼントとして用意した苦肉の策は「引換券」であった。というのも、この友人は昔から券というものが好きな女である。お手伝い券。肩たたき券。何でもする券。学生時代は今よりも自由に使えるお金が少なかったため、今日のような金銭面に余裕のない誕生日や、ノートを代弁した時なんかは彼女から券を貰ったものだ。
 この友人に嘘など吐いても仕様がないので、わたしは正直に所持金延いては貯金さえも馬に食われた旨を打ち明け頭を下げた。
「本当に申し訳ない。今度は単勝狙いで勝ってみせるから、プレゼントはそのときにこの引換券で」
「給料日後じゃないんだ」
 サボンのスクラブをプレゼントした友人が云った。







 久しぶりのローストビーフに胃袋を活気付け、気持ちよく酒を飲んだ。半ば夢心地の脳は、二件目を如何するかという言葉に凪いだ湖畔のように静まり返った。残金を考える。恐らく駅前から寮までハイヤーで丁度といったところだろう。二件目で乾杯してしまったら最後、終電には間に合わずハイヤーに乗るお金もなく途方に暮れることは目に見えている。今駅に向かえば未だ電車も走っている。帰らねばならない。帰るべきだ。そんなことは判っているが、それでもみんなと愉しく飲みたい――ッ!
 そんなわたしの心中を察した友人が歪な笑みを向ける。
「今のご時世、お金を払わなくてもお酒を飲めるところがあるんだなあ」
 友人の鼻の下が伸びている。……其処ははたして大丈夫な店なのか。一抹の不安が過るも、所詮タダ酒という勿怪の幸いに、わたしの脳内では軽快にオーラ・リーが流れ始めるのだった。虎穴に入らずんば虎子を得ずってね。







 そういえば、国木田君っていくつだったかしら。確か太宰君と同じだから、二十歳そこそこ。思えば、彼らはとても立派な大人の男であった。御免な。明日からもっと敬います、と悔い改めたのは目の前の男の子達の所為である。
 タダ酒に釣られ、友人に連れてこられたのは相席屋であった。気が付けば誕生日である主役の友人は忽然と姿を消している。
 相席屋というのは見ず知らずの男女が相席をし、新たな出逢いを故事付けてくれる店である。また、男性が割高な料金を払うおかげで女性が無料で飲食できる制度を設けている。従って、わたしは相席した目の前の若い男の子たちのおかげでタダ酒に有りつけている。制度のおかげもあってか、威張り散らす……とまではいかないが、明らかに年下だろうに尊大な態度で振舞ってくる男の子たちを前に、どうも楽しく飲める気分にはなれなかった。
 浮わついた様に薄く整えられた眉毛。脱色された髪の毛はその有頂天な心を映したかのようにツンツンと上を向いていた。大ぶりな装飾品や時計も年齢にそぐわず下品。彼らは当然わたしの脳内なんか知る由もない。知らないとはすごいことで、男の子たちはわたしの下降する気持ちを加速させるように、自らの武勇伝を語り始めた。
 彼らと同年代であろう敬語を使える国木田君と太宰君は立派だ。利発であるし、服装も品性を保っているし、立派だ。
 友人はこの場を楽しんでいるようだったので、わたしはひとり不味いタダ酒で気を紛らわすしかなかった。







 矢張りタダ酒は善くない。日頃汗水垂らして働いたわたしの努力の結晶である給与を差し出し得られる酒だからこそ、至高なのである。
 頭が痛い。気持ちが悪い。ローストビーフがそこまで迫り上がってきている。絶対あの焼酎は安物だった。安物の酔い方だもんこれ。
 部屋に辿り着いたら先ず水をたらふく飲んで、一回吐きたい。サウナに入ってこの体内を巡る悪しきアルコールを汗と共に放り出したい。味の濃い豚骨拉麺を食べたい。いつもはなんてことの無い三百尺を果てしない荒野のように感じながら、ようやくの思いで寮に辿り着くと、太宰君が車を整備していた。
「あれ、名前さん。今帰ったんですか?」
 深夜にそぐわない太宰君の声音にとうとう胃袋が悲鳴を上げた。返事をする余裕もなし。わたしは口元を抑え太宰君を見なかったことにし、部屋まで走った。

「飲み過ぎですか?」
「勝手に入らないでね、太宰君」
 吐いても未だ体内に潜伏するアルコールがわたしの気分を害すのだ。けっして太宰君に当たっているわけではないが、君、女性の部屋に勝手に入るのは止め給え。
「名前さん飲み方が若いですねえ」
 御尤もである。ぐうの音も出ない。自分より若い男に云われると羞恥心も一入である。そんな羞恥心を払拭し、また念願叶えるべく水をがぶがぶ飲んでいると、ひとつ閃いた。
「太宰君って料理できるんだっけ」
「一時期は創作料理に凝っていましたよ」
「豚骨拉麺が食べたいなあ。臭いくらい味が濃いやつ」
 太宰君は悩んだようにしてから、食べに往きましょうかと提案した。
「無理。わたし歩けない」
「おぶりましょう」
 太宰君はにこにこと力こぶを作って見せたが、細い。なんだその二の腕は。程よく筋肉が付きすべすべの腕はなんだ。その細腕で細腰にわたしなんか背負ったらパッキリと折れてしまうんじゃないだろうか。ははん。さてはそうして自殺を図ろうってんだな、この自殺愛好家さんめ。
 わたしの表情が険しくなるのを感じたのか、太宰君は「冗談ですよ」と腕を引っ込めた。変わりに衣嚢に手を突っ込む。取り出されたのは車の鍵で、太宰君の綺麗な指はくるりとそれを弄んだ。
「週明けに遠出の仕事が入ったので車を借りたんです。久しぶりの運転なので明日慣らそうと思って、先程整備を」
 拉麺屋まで如何ですかと尋ねられれば手放しに喜ぶしかないだろう。わーい! 拉麺拉麺! くっさい豚骨拉麺! この際甘えに甘えて太宰君に奢らせよう。お馬さんが勝ち次第、返金します。







「それにしても、本当に太宰君は立派だよねえ」
 足元がおぼつかないわたしを支え、階段を下る太宰君は立派以外の何者でもない。
「……そうですか? 国木田君からは唾罵の毎日で、こうして女性に褒められると照れちゃうなあ。まあ国木田君のアレも愛情から成るものだっていうのは判ってますけどね」
 太宰君は何故か誇らしげに日々国木田君から吐き出された不名誉な称号を並べてみせた。
「相席屋に往ってきたんだけどね、一緒に飲んだ男の子たち――太宰君と同い年くらいかなあ。それで思い知ったのよ。如何に太宰君と国木田君が立派な大人の男であったか」
「へえ……名前さん、相席屋に?」
「無料だっていうから友達に誘われてね」
 もう当分往きたくないと告げれば、太宰君はそれはお疲れ様でしたと頭を撫でてくれた。そのまま扉を開けて、ゆっくりと壊れ物のように助手席に詰め込まれる。
 運転席に乗り込んだ太宰君はエンジンをかけ、あの綺麗な手でギアを変えた。手首を軸に、優雅に指先で動かされたギアに目を奪われていると、不意に視線がぶつかる。
「少し下げますね」
 太宰君は云うなり助手席に手を回すので、じりじりと距離が縮まる。いい匂いがする。鼻先に砂色の外套が触れてくすぐったい。
「じゃあ出発しますよ」
 ぱっと身体を離され、ようやく太宰君が車を後退させていたのだということに気付く。だ、抱き寄せられたのかと思った。……それにしても、いい匂いがした。
「名前さん、往きたいお店はありますか?」
「健康ランドが近い拉麺屋がいい」
「健康ランド?」
「サウナでこの呪いのようなアルコールを全て排出したい」
 太宰君は乾いた笑いを浮かべると、それなら丁度いいところがありますよ、と提案してくれた。
「拉麺の味は保証できませんが」
「もう拉麺じゃなくても塩辛くて味が濃ければいい気がしてきた」
 太宰君は再びギアを握る。
「了解しました。では、往きましょうか」
 晴れやかな笑みと共にアクセルとクラッチが踏まれた。



 車内では太宰君が発狂し、わたしの絶叫が木霊した。



 あのまま太宰君がハンドルを握った車に居ては死んでしまっていだろう。同じく命を捨てるのならば、せめてもの抵抗をしてみよう。わたしはそう決心し、お願いだから止まってくれと太宰君の頭を思いっきりぶん殴った。
 ……止まった。
 今まで体験したどんな絶叫マシンよりも絶叫した。アルコールの所為だけではない。わたしの頭はガンガン痛み、落ち着いていた吐き気が逆襲に向かってきた。
「名前さん、大丈夫ですか? 私、すこしはしゃいでしまったみたいで」
 意識を取り戻した太宰君は申し訳なさそうに謝った。わたしこそぶん殴ってごめんねとはとても云えなかった。すこし? はしゃいで? そんな度合ではなかった。この男は悪魔学のベリアルが如し、さながらこの車は燃え上がる戦車であった。そんなもんに酔っぱらいが乗せられてみろ。この世を失楽園まっしぐらだぞ! そうやって背中を優しく摩られたって絶対に謝ってなんかやるもんか!
「太宰君、出る出る、出ちゃうから摩らないで!」
「拉麺食べれます?」
「少し休ませてくれれば大丈夫だから」
 会社で借りた車内で吐くわけにはいかない。もういっそ寝てしまえばいいのではないだろうか。そうだ、そうしよう。
「それなら安心してください! これから往く場所の主な用途は男女の休憩です」
 太宰君の声はもうあまり入ってこない。わたしは胃からせり上がるローストビーフの残兵と戦いながら、そっと意識を手放した。



20161120
100000hitフリーリクエスト企画
「太宰さんとドライブデート」
リクエストありがとうございました!

※アルコール分を摂取した後のサウナは脳卒中になる可能性がありますので絶対に真似しないでください。
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