メルローを譲ってもらったので、今日は予てより中也とふたりで北京ダックを食べようと計画を立てていたのだ。
それがどういうことだ。中也は予定の取引が長引いた上に帰りの山道が爆破事故により通行止め、わたしは中也を待っている拠点で暇なら手伝えと云う梶井の檸檬爆弾をせっせと木箱に詰めていた。中也が拠点に戻って来たのは朝と夜とが出会う寸でのところで、中也の顔にもわたしの顔にも揃いの疲労が浮かんでいた。梶井許すまじ。
「悪い。北京ダックを作る気力がねえ」中也は目頭を押さえた。
「わたしも今なら葡萄酒の匂いだけで寝れる」
否、酒瓶の輪郭を想像しただけで寝れる。
「北京ダック……」中也は譫言のように呟き、力尽きたように眠った。それがなんだか哀れで泣けた。
マフィアといえど仕事に真面目で会社に従順な中也とわたしがふたり揃っての休日というのは、とびきり稀有だった。中也のこしらえた北京ダックをメルローで乾杯。わたしは叶わなかった夢を瞼の裏に描きながら、中也に寄り添い眠りについた。
ぐずぐずと意識が浮上する。寒い。わたしは一度ぶるりと震え、そこに在るはずの温もりが無いことに気付いた。
「ちゅうやぁ」
そこに在るはずの温もりの名前を呼ぶために少しだけ布団から顔を出せば、焼ける肉の匂いが鼻の穴から脳みそまで駆け巡った。空きっ腹にはあまりにも魅力的な匂いである。思わず取り込んだ空気を食べた胃の虫も鳴いた。
……如何しようか。起きようか。否、然し寒い。そして眠い。
弥がうえにも、もう一度寝て起きれば意識はシャッキリするだろうし、この上とも部屋は十分に温まっていているだろう。おまけに珈琲も引かれていることだろう。そんな訳で、おやすみなさい。ぐゥ。
「そうはさせるか!」
なんて都合の悪い間合いで登場するのだ、この男は。
「…………」
わたしは自身の演技力という付け焼刃ほどの武器で狸寝入りを決め込む。
「目が覚めたんならサッサと布団から出てこい」
「…………」
「起きてんのは判ってんだよ!」
さっき名前を呼んだだろうがと、実質最初にして最後の砦である布団を捲られてしまった! 地獄耳め! 畜生、寒い。変梃りんに寒い。冷えていく皮膚を感じぶるぶると震えるも、自棄になったわたしは瞼をぎゅっと閉じ、敷布にしがみ付いた。
「風邪引くぞ」
全くその通りの寒さである。わたしは冷たい鼻を啜り乍ら、中也にアグリィメントを与えた。わたしの狸寝入りなんてすっかり見抜いている中也はしょうがねえなあと溜息を吐き、わたしの身体を抱える。
「……中也あったかい」
大人しくその腕に収まったわたしは、温い中也の肩口にぐりぐりと洗っていない顔を押し付けた。
「そのままくっついてねえと何処だり飛んで往くからな」
飛んで往く? 空飛ぶ肉屋じゃあ、あるまいし。云っている意味が判らず、おそるおそる中也から手を離せば、中也もわたしの身体から手を放した。瞬間、悲惨な程に嗤えない素人寸劇の如き落下を覚悟したわたしの思いとは裏腹に、此の身体はふよふよと宙に浮いた。
「ちゅ、中也!」
「如何だ? 無重力体験の気持ちは」中也は喉の奥でクッと笑った。
「異能力反対!」
わたしが手足をばたつかせ、みっともなく宙を泳げば中也は手を差し伸べてくれる。
「おら、眠り姫様」
わたしは悔しい思いをし乍らも素直に中也の手を取った。そのまま中也の首に手を回し、中也の腰に脚を回した。宛らちいさな子守熊のようだった。これがまた悔しさに拍車を掛けた。
「そのまま大人しくくっついてろ」
中也はわたしの悔恨の意が腹を蹴られた馬が如く邁進していることなど知る由もなく、満足そうな笑顔を浮かべていた。
悔恨の意など、此の無重力の身体で三度ばかり宙を漂えば死んだ。わたしは為すが儘、大人しく中也に抱っこにおんぶで運ばれるだけである。
「お肉は!」
起き抜けに嗅いだ肉の焼ける匂いが記憶の彼方此方に残っているわたしはてっきり肉を期待した。中也は呆然とするわたしの衣服を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
此処は脱衣所。何故? 肉は? わたしは疑問符と肉を思い浮かべる。未だ重力の無い身体は、中也に襯衣を一枚剥かれては宙を漂い、腕を手繰られてまた一枚とひん剥かれた。
「先に身体でも洗ってろ」
「中也っ!」すっぽんぽんに成ったわたしの悲痛な叫びも虚しく、重力を失った身体は簡単に風呂場に放り込まれてしまった。
死んだ、否、最早中也に殺されたと云っても過言ではない悔恨の意に手を合わせ、わたしは中也への反逆心に燃えた。お前の敵はわたしが獲ってくれようぞ! 復讐である!
わたしは宙に浮こうとする身体を手摺と壁を頼りに何とか身体を洗い終え、宇宙飛行士とは何と偉大なもんだろうかと感心した。中也は一度その異能を宇宙センターにでも披露するべきだ。
「碌でもねえ事を考えてんのはお見通しなんだよ」
「出たな! わたしの悔恨の敵!」
「阿呆か」
悔恨の敵もとい中也は修行僧のようにお湯を掛け流しわたしを抱え湯船に浸かった。
「ぐえっ」
「ンだ、その蛙が潰れたみてえな声は」
「身体……重……」
重力が戻ってきたわたしの身体は宙を漂っていた有らぬ身軽さなど疾うに忘れ、其の重さに鉛を付けられた囚人ほども動けない。果たして此れがわたしの元の重さなのだろうか。そうだとすれば、痩せよう。痩せるしかない。わたしは今にも湯船に沈んでしまいそうな身体を中也の胸板に預けた。
「今日こそ北京ダック。夕方から仕込む」
中也はそう云いながらアヒル隊長を湯船に放った。優雅に水面を泳ぐアヒル隊長と目が合う。
「中也ぁ、泡風呂にしようよ」
「あ? 手前は風呂で遊び始めると長えんだよ」
「アヒル隊長も泡風呂が好いって云っていることですし」
「今日は鴨肉燻してるから今度な」
「か、鴨肉……」
「卵と乾酪も」
「鴨肉と卵と乾酪の燻製!」
これは朝から祝杯になってしまうな。何のと云えば、我らが祝日に。感謝の気持ちを込めて「中也好き好き」と云ってみれば中也は額から眉間まで皺を寄せた。善し、善し。ハンムラビ法典の一説を以って此れを悔恨の復讐としよう。
「中也も好き。鴨肉も好き。卵も乾酪も好き」
中也の顔が見る見る歪む。まるで同列に云うなと云わんばかりで、実に見事な皴である。
「……あと10分で上がんぞ」
すっかり機嫌を損ねた中也は、わたしとアヒル隊長を押し退け立ちあがった。中也が立ち上がった勢いで荒れ狂う水面に、アヒル隊長はアッと云う間に渦に飲み込まれてしまった。「アヒル隊長っ」わたしの右手はすぐさまアヒル隊長の救助に向かった。
さて、どうやって中也の機嫌を取り戻そうか。わたしは広くなった湯船にゆっくりと浸かり、アヒル隊長の腹にジュブジュブとお湯を蓄え乍ら考える。まァ、未だ休日は始まったばかりなのだ。こんな些細なことは、大概美味い料理を食べて美味い酒を飲めば忘れてしまえるのだ。鴨肉の燻製、楽しみだなあ。
わたしは中也のお尻の割れ目を狙って、アヒル隊長必殺の水鉄砲を発射した。
「名前ッ!」
休日の朝、風呂場には中也の怒号が木霊した。
20161213
100000hitフリーリクエスト企画
「中原中也で同じポートマフィア所属ヒロイン。甘で仕事がないときに二人で休日を過ごす内容(料理を一緒に作ったり)」
リクエストありがとうございました!