部屋を案内され一息つく。
 ヤコフに連れてこられたのはあの元ボリショイ・バレエのプリンシパル、リリア・バラノフスカヤの家だった。まさかこのババアの家に住み込みで稽古を付けられるハメになるなんて日本に行く前には夢にも思わなかっただろう。
 これから世話になる家だ。少し家の中を探索するかとドアを開けると、知らないアジア人の女と目が合った。……仕様人か? 頭のてっぺんからつま先まで値踏みしていると、女の顔は見る見るうちに赤く染まっていった。……ははん。そうだろう。ロシアの妖精と言わしめんオレの美貌に声も出ないだろう。そうだ。丁度いい。この女に家の中を案内させよう。
「おいお前、この家を案内しろ」
 言っても女の反応はない。聞こえてんのか? ロシア語がわかんねえとか? 考えていると、女が後ずさりするので、思わず肩を掴む。
「おい…………あ?」
 女は顔を真っ赤にさせたまま、ぼろぼろと大粒の涙をいくつも零した。


▽△▽


「こっちは名前・苗字。私の教え子よ。貴方と同じで住み込みで稽古をつけているわ」
「それを早く言えババア!」
 名前がぼろぼろ泣くもんだから、それで泣き止まないもんだから、思わず大声でヤコフを呼んだ。飛んできたヤコフはオレの頭に拳骨をひとつ落とした。それを見た名前は今度は声を上げてわんわん泣いた。
「名前は未だロシア語に馴染んでないのよ」
 リリアと名前は英語での会話が主流のようだった。甘やかされてやがる。
 名前を見れば、一瞬だけ視線がぶつかる。すぐに視線はそらされて、床へ。成程。その恵まれた体躯と綺麗な姿勢はバレエダンサーのものか。眉間に力が入ると、すぐにヤコフの手がオレの頭を掴んだ。


▽△▽


 リリアの家での生活にも慣れてきた頃、どうやら名前もオレに慣れてきたようだった。
「ユーリ! 買い物に行くならわたしも付いて行っていい?」
「早く準備してこい」
 肩を触っただけでばろぼろ泣いた女の面影はない。
「ひとりだとこういうところはまだちょっと怖いし」
「ロシア語もわかんねぇしな」
 名前は露店で買ったブリヌイを美味い美味いと頬張る。
「フクースナ」
 名前は黒い瞳をまぁるくさせてオレを見る。
「ロシア語で美味いって意味」
「ふぅん」


▽△▽


 名前はコンクールで数日家を空けると言った。ババアは付いて行かなくていいのかよと聞けば、そういうものではないらしい。
「じゃあ、行ってきます」
 玄関先で、しっかりねとリリアが名前を抱きしめる。頑張れよとヤコフが頭を撫でる。
「ユーリ」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、頬に柔らかい熱を感じた。頬に触れた名前の唇はすぐに離れたのに、オレの頬はじわじわと熱を燻ぶらせている。
「フクースナ」
 名前は悪戯に笑った。


20161211
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