西洋菓子“猪口令糖
チョコレート
”。どうやらその歴史は“お口の恋人”を掲げる大手菓子会社によると、紀元前まで遡るようであった。
 猪口令糖
チョコレート
とは紀元前の古代メキシコで神の食べ物と云わしめるほど高価であり、

の国の皇帝は猪口令糖
チョコレート
を黄金の器で愛で、亦西班牙の将軍は死闘に身を投じる兵士の活力剤とした。従って、猪口令糖
チョコレート
とは敬い崇めるほどに高価で気高くあるものの、我々の心を神癒してくれる、謂わば神の食べ物……否、神なのである。
 今でこそ我々庶民にも手の届き、その蕩ける甘さに舌鼓を打つに至るがチョコレートであるが、当時は擂り潰したカカオ豆と玉蜀黍の粉を甘く香り付けをしただけものであった。ヴァン・ホーテンやダニエル・ピーターといった猪口令糖
チョコレート
をこよなく愛した先人たちの知恵や爆発的な技術の進歩により今の形となったのだった。





 客の居ない武装探偵社応接室の机には有名洋菓子店の箱が鎮座していた。
 国木田は明後日の方を向き、静かに有名洋菓子店の箱に身体を寄せる。
「右善しッ! 左善しッ! 再び右善しッ!」
 周囲の確認、問題なし。
 問題というのは、此の探偵社の諸悪の根源とも云うべき調査員の太宰治である。気配は無いが、あの唐変木のことだ。国木田は万が一に備え、身体を出来る限り離し慎重に手を伸ばした。深く息を吸い込み、止める。箱の封を開けた国木田は素早く手を引っ込める。
 無音。
 身構えたが衝撃は無し。ゆっくりと息を吐き出すが、未だ油断してはならない。国木田はのろのろと上体を起こし、箱の中身を覗き込む。箱の中を覗き込めば、国木田はカッ目を見開いた。

「……何故このような処にこのようなものが?」
 箱に入っていたのは正真正銘有名洋菓子店の焼き菓子であった。罠では無かったのか。国木田は漸く胸を撫で下ろす。

「特務課からのお礼だそうだよ」
「ヒッ!」
 突如背後から投げかけられた声に、国木田は処女のような悲鳴を上げ飛び上がった。
「何やってンだい」
「よ、与謝野さん」
 探偵社お抱えの女医である与謝野は、有名洋菓子店の箱とその甘味を想いだらしなく頬を垂らした国木田を交互に見て、手術患者を見つけたときのよう微笑みを浮かべ告げた。

「一人ひとつさね。アンタ、よぅく頭を使って食いなよ」





 ふたりは事の重大さに気付いていた。

 異能特務課から捜査協力の礼だと渡された紙袋からは、とろけるほど甘い匂いが漂っている。
 その紙袋に印字されたロゴタイプは、先日西班牙から日本初進出を控えているということで話題の洋菓子店のものである。日本初進出を控え、先行上陸で宣伝販売をしているのだ。宣伝販売を謳っているものの、その認知度は瞬く間に巨大に育ち、連日早朝から行列を作っては即完売という偉業を成し遂げている。それだけ美味いってことである。
 その店の目玉はなんといっても菓子職人の大会で世界一を認められたチョコレートケーキだった。
 ふたりは事の重大さに気付いていた。

「チョコレートケーキがひとつしか無い!」

 稀代の名探偵江戸川乱歩は、勿論世界一のチョコレートケーキが食べたい。それから至高の奇術師苗字名前もまた、世界一のチョコレートケーキをその口へと狙う者なのであった。

 見た目は正に菓子職人の母国を思わせる西班牙オムレツ。上生地に華陀爾拉液
バニラエッセンス
を染み込ませて、下には肉桂
シナモン
丁香
グローブ
等の香辛料が混ぜられたオリーブオイルケーキ生地が隠れている。それをチョコレートムースで装飾して、天辺にはチョコレートマカロンが鎮座している。これが世界一のチョコレートケーキか。
 こうして様々なケーキと所狭き箱に詰められていると、矢張り世界一に輝いたチョコレートケーキの堂々たる佇まいと云うべきか、貫禄が違う。
 江戸川と苗字はその艶やかに装飾されたチョコレートムースの輝きに恍惚の表情を浮かべた。

「名探偵さんはご存知かしら。且つてチョコレートというものは神の食べ物と呼ばれていたの」
 苗字のその口ぶりに矢張り彼女は奇術師なんかではなく、よっぽど蘊蓄
うんちく
垂れであると江戸川は確信を持つ。
 苗字は自らを奇術師と名乗るが、彼女が得意とする千里眼はあらゆる情報から成る確率で導かれた占いのようなもので、その達者な口ぶりで他人に暗示をかけ精神状態を支配するのだから実に恐ろしい蘊蓄
うんちく
垂れである。
「知っているも何も、その話は探偵社にチョコレートケーキが登場する都度名前から聞かされているからね。厭でも覚える」江戸川は口を尖らせ乍らチョコレートケーキに手を伸ばす。
「何てことを!」苗字はチョコレートケーキを襲撃に向かった江戸川の手を自らの手で撃ち落とした。
「何をするんだ!」江戸川は打たれた手の甲を摩りながら訴える。
「神の食べ物であると云ったばかりだというのに、よくも平気でチョコレートケーキに手を伸ばせたわね」
「神の食べ物であるということは詰まり僕の食べ物であるということじゃないか。ああもう、このやり取りも過去に何度繰り返したと思ってるの? まったく、名前は学習できないお莫迦さんなんだから」
「神の食べ物が乱歩さんの食べ物だなんて、そんなことよく平気で云えたものね!」
「じゃんけんは埒が明かないし、早い者勝ちじゃない? こういうのって」
「耳穴かっ穿ってよぅく聞いて頂戴! チョコレートが神の食べ物であると同様にケーキもまた古代ローマや古代ギリシアという古くから宗教儀式に用いられてきた神聖な食べ物なの! これがどういう事か、乱歩さん貴方理解してる? 神の食べ物と神の食べ物のドッキングなの! ドッキング!」
「本当に五月蠅いな君は! 蘊蓄
うんちく
も御託も沢山だ! 神の食べ物と神の食べ物のドッキングでも何でもいい! 僕は只世界一のチョコレートが食べたいんだよッ!」
「わたしもだよッ!」
 白熱するふたりは扉の開く音なんて聞こえやしない。

「何を騒いでいる」

「しゃ、社長……!」
 扉の音なんて聞こえやしないが、やんわりと怒気を含んだ我らが探偵社の長の声は何よりも鮮明に耳が拾った。
「事務員たちから騒音の苦情があったのだが」
 武装探偵社社長福沢諭吉は数多の修羅場を見て来た眼で江戸川と苗字を一瞥する。口を閉ざし背筋をしゃんとさせても時既に遅し。江戸川と苗字はあっけなく廊下へと摘み出された。





 摘み出されたふたりが辿り着いたのはわずか数尺先の給湯室である。
 あれだけ騒いだのだ。現場にいた社員は間違ってもチョコレートケーキには手を出さないことだろう。江戸川も苗字も存分に高を括った。とりあえずチョコレートケーキに合う飲み物でも用意しようと薬缶を火にかける。
「矢張りチョコレートケーキには甘いココアだね」江戸川は云った。
「探偵って推理以外はてんで能無しなの? それとも味覚が死んじゃったの? なんで甘いものを甘いもので食べちゃうの?」
「あのねえ、味覚は死んでいないし常にこの頭脳を活かしているからこそ糖分を欲しているわけ。失敗しない無所属の有名外科医だって手術後には砂糖液を砂糖液で割って飲んでいるじゃない。折角の甘いものを苦い汁で食道に流し込むなんて、それこそナンセンスだと思うけどね僕は」
 ふたりは眉を吊り上げ睨み合った。
「乱歩さんなんて風船ガムでお腹が膨れて果てしなく飛んで往ってしまうのがお似合いだわッ!」
「随分と懐かしいチョコレート工場映画の話を出してきたもんだな蘊蓄
うんちく
奇術師! 名前なんて栗鼠が割った胡桃の殻と一緒に残飯に塗れてしまえッ!」
 ピーッ! 薬缶がけたたましい音を立て、戦場と化した給湯室を演出する。

「乱歩さんに名前さん、一体何をそんなに揉めているのです」
 最中、一触即発の給湯室へ現れたのは眉を下げた国木田であった。一見救世主の登場かと思いきや、国木田の口周りには見事にチョコレートムースが附録している。片や稀代の名探偵江戸川乱歩。片や至高の蘊蓄
うんちく
王……元い奇術師苗字名前。推理なんてしなくとも、反射のように判ってしまった事実にふたりは開いた口が塞がらない。塞がらなければ、節理、決壊待ったなしである。
「……おふたりでお茶の準備ですか?」
 あんぐりと口を開いたまま固まる探偵社の頭脳に、国木田は恐る恐る声を掛ける。ピーッ! 薬缶は未だに鳴いている。国木田の声が合図となって、ふたりは声を合わせ叫んだ。

「国木田が神の食べ物を口にしやがった!」





 まるで子供の玩具にされてしまった国木田を見て、与謝野女医は愉快そうに破顔させ「だから、よぅく頭を使って食いなよと忠告したじゃないか」と零した。そんな声も国木田には届かない。武装探偵社きっての頭脳が二つ揃った奴隷ごっこに付き合わされるその御身は生きて今日を終えられるのだろうか。そのときは妾の出番かね。死にかけたら回収して医務室に引っ張り込むとしようじゃないか。与謝野女医は靨を一層深く刻ませた。


20170126
100000hitフリーリクエスト企画
「江戸川乱歩とチョコケーキを取り合うギャグ風味の話。最後は国木田に取られる(悪意はない)」
リクエストありがとうございました!
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