苗字名前さんは実に不思議な女性である。
飄飄としているようで、周りを見ている。のらりくらりとしているようで、計算高い。気が付けば苗字さんは人の懐にすっぽりと収まっている。そうして、全く自分たち兄妹は、なんだかこの人の喜ぶ顔が見たくなってしまうのだ。
「銀ちゃん、聞いてる?」
目の前には先日兄と購った大きな黒クマのぬいぐるみがいた。
「芥川君とふたりで出掛けたのでしょう。今度はわたしも誘って欲しいな」
苗字さんはクマの手を動かしながら云った。彼女に贈るには子供っぽいのでは、と思いながら選んだものの、この様子ではどうやら気に入ってくれたようだ。
「芥川君にも云ったんだけどね。そうしたら、今度一緒に出掛けようって」
あの人がポートマフィアを去った時に、憔悴していた兄を支えたのは苗字さんだった。
あの人と苗字さんの関係を知らない。屹度、兄も知らない。それでも、あの人が居なくなった時の苗字さんを見れば、彼女にとって、あの人がどれ程の存在であったのかということはありありと理解した。
苗字さんを絶望の淵から引き上げたのは兄だった。彼女を支えることで、兄は、自分を支えていた。太宰治の消失という傷を舐め合うふたりに手を伸ばす行為が、自分にはどうも役不足であることだけが真実であった。
足元に柔らかな衝撃が走る。
視線を落とせば、床には兄が贈った大きな黒クマのぬいぐるみが横たわっていた。不思議に思い、再び苗字さんに視線を向ければ、彼女は下腹部を抑えて険しい表情を見せた。
大丈夫ですか。肩を支えれば、大丈夫だよと眉を下げ、笑う。
違う。そうじゃない。自分たち兄妹は、貴女の、そんな笑顔を見たいわけじゃない。
「最近忙しいから、心因性の胃炎かな」
痛みが一過性のものだったのか、苗字さんはすぐにクマのぬいぐるみを抱え起き上がった。それでも、何故か彼女の弱々しい笑顔がいつまでも脳裏を過り、不安を煽ったのは、あの人が消えた季節だったからでしょうか。
20161225