「貴女は、違う生き方もできたでしょう」
助手席で頬杖をつきながら苗字名前先輩は云った。苗字名前先輩が硝子越しに見ている景色は、私が見ているものとは、きっと、随分と違う。
硝子に映る、疎ましそうな瞳と視線が絡み合う。私はその視線に沸々と怒りがこみ上げてくるのを感じた。
苗字名前先輩は毎朝ふらりと私の通勤路を塞ぐ。当たり屋のように車の真ん前に立ちはだかり、私が動揺している間に助手席に乗り込むのだ。そうして「早く出しなさい」と出発を促す。
ポートマフィアに所属し早数ヶ月。苗字名前先輩との付き合いも早数ヶ月。私は苗字名前先輩の送迎運転手ではない! 断じて違う! こんなのって無い! それなのに、苗字名前先輩という女は何故こんなにも私の愛車の助手席に乗り込み、それを悪びれず、寧ろ億劫そうにしているの?
「最悪です。私は苗字名前先輩にこうして毎朝足にされるようになってから不幸続きなんです。昨日だって、スーパーのレジに並んでいたら後ろから知らないオジサンに声を掛けらました。公共の場だというのに、オジサンが話し始めたのは猥談です。信じられますか。無視してやりましたけど、そうしたら俺は客だぞと私の脛を蹴っ飛ばしたんです。最悪です。意味が解りません。私だって、客なのに。嗚呼、もう、最悪です。最悪の、最悪です」
私は思わずアクセルを強く踏み込んだ。一回踏み込めば愉しくなって“最悪”と云う都度、アクセルを踏んだ。
「ふっ」
助手席から漏れた声に今度はブレーキを踏んだ。
「急ブレーキは止めて頂戴」苗字名前先輩はそう云うが、だって、止まらずにはいられないじゃない。
「苗字名前先輩、今、笑ったんですか」
「……笑ってなんかいません」
「いいえ! 今のは笑ったでしょう!」
「笑ってなんかいませんってば!」
「苗字名前先輩も、笑ったりするんですね」
「わたしだって、笑います。たくさん笑いますよ」
嘘だ。私は苗字名前先輩をここ数ヶ月見てきたが、いつも口は真一文字に結ばれており、笑ったところなんて見たことが無い。
「樋口後輩の前では笑わないと決めているだけです」
苗字名前先輩は再び硝子の向こうに視線を向けてしまった。
「……樋口後輩を見ていると苛々します」
それなら毎朝毎朝目の前に現れないでくれよ。私は曇る気持ちを紛らわす様にゆるゆるとアクセルを踏み込んだ。
20170131