愛すべき後輩から、いや、言葉通り、嘗て、そう、未だ青く若かりしわたしが愛した後輩から手紙が届いた。
 碌に整えていない前髪が風に揺れる。それを一房だけ、ぎゅぅっとにじる。冷たい空気を肺へ運ぶ。そうして、改めて手紙を見ると「とうとうこの日が来たか」と感慨深くもなるものだ。
 括っていた腹も漸く落ち着くことができそうだと安心する。反面、寂しさがないと云えば嘘になる。どうかわたしの美しい想い出が、お前の、なァ、独歩、お前だよ、お前の想い出に、嗚呼、僅かにでも残らねばと、わたしは願うばかりである。
 じっとりと冷たい、水気を多く含んだ空気が肌をべたつかせる。今日は雨が降るのかもしれない。嘗てわたしの愛した後輩、国木田独歩の結婚式の招待状が届いた、日曜の朝のことである。
 わたしは郵便受けの前で立ち呆けた。不細工な鳥の鳴き声を聞き乍ら、真っ白い封筒を、阿呆のように、ただただ眺めていた。だので、頭皮と首と、肌着に収まっていない肩の辺りだけがヘンに焼けてしまったのも、嘗て愛した後輩の所為である。


▽△▽



 こんなに美しいわたしが先輩であることを、それから、こんなにも優秀なわたしが先輩であることを、独歩は神に感謝するべきであろう。わたしが、このわたしをわたしとして生んでくれた両親に感謝し、己の努力を誉とするように。


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 国木田独歩という後輩は、己の人生計画を事細かに記載している手帳を所持している。彼曰く理想。その気味の悪い手帳には、未来の伴侶と成るべくする女性像も事細かに記されているらしい。わたしはそんな独歩理想の女性像の容姿に見合っていたようである。
 独歩との初対面は忘れない。彼は「ングッ!」と奇妙な音を発し顔を真っ赤に染めたのだ。わたしは優秀な探偵社調査員であり、亦、これまでの経験から、この男はわたしに一目惚れしたのだと容易に察した。

 愛だの恋だのと云うならば、連鎖的に想い出すのが佐々城信子との出逢いである。
 佐々城信子とは、或る事件で知り合ってしまった。彼女は被害者であり、加害者であり、真犯人である。
 佐々城の顔は、このわたしが驚く程に、わたしと瓜二つであった。勿論この顔を女性像の理想と説く独歩の鼻の下は伸び目元が緩んでいた――ような気もする。朧の記憶だが、独歩が佐々城に優しくあったのは無根の事実である。
 この佐々城という女は、わたしのかんばせに非道く似ていたが、然し彼女は謙虚で奥ゆかしく、大和撫子の意であった。まるでわたしとは似ても似付きやしなかった。
 独歩の理想は、佐々城のような内面の美しさをも求めていた。その所為か、独歩はわたしの美しさに魅了されているにも関わらず、愛を囁かれるようなことはなかった。

 間もなく佐々城信子は死んだ。
 去る事件の幕引きが佐々城信子の死であった。わたしは自分の死に顔をどうしても見なければいけないという、或る種の使命感に襲われ現場に向かった。
 現場には佐々城信子と六蔵少年の躰が横たわっていた。床は血液で赤く染まっている。現場に居合わせた太宰と独歩は情けなく突っ立っていた。
 佐々城の死に顔はわたしの寝顔のように、矢張り美しかった。屈強に難解な事件を論破していくこの頭脳を以てして、真犯人の死に顔の醜美以外に何も感じることが出来ない自分が惨めになった。
 駆けつけた警察車両の警報音が今でも耳に五月蠅く感じる。


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 忘れない。
 わたしと何も変わらないこのかんばせを。死に顔を。

 許さない。
 わたしではなく佐々城信子に抱いた愛情を。


▽△▽



「所詮お前は他人をその理想に当て嵌めることでしか価値を測れない人間なんだ」

 わたしは独歩に非道くしてやりたかった。

「不満そうな顔をしているな。何、お前の云いたいことは判るとも。ただね、理想の為に生きているお前の理想であれない自分が歯痒いのさ。同時に苦しい」

 独歩の理想になることはわたしを以ってすれば他愛ないことであった。ただ、わたしは独歩に非道くしてやりたかったのだ。
 佐々城信子で在った。
 佐々城が死んでから、わたしは彼女を模倣して生きた。独歩がわたしに愛情を向けるのが判っていたが故にだ。


▽△▽



 大人ふたりで過ごすには狭い寮で暮らした。たった数ヶ月だ。
 あの部屋にいると、何処に居ようが独歩が視界に映り込んだ。何処に居ようが声が聞こえる。僅かな吐息さえ耳が拾った。独歩の背中に揺れる金の毛束が好きになった。独歩は小まめに爪を切る。指先が几帳面に整えられていることに気付いたのは、一緒に生活を始めてからだ。
 隣で眠る独歩を見ると「ああ、このままでは駄目だな」と漠然と感じ、目頭が熱くなった。その思惑はだんだん歪な恐怖となり、時には夢にさえ出てきてわたしを脅した。

 ――佐々城信子。

 あの女の死に顔を覗いた日と同じ惨めさがわたしの中でふくふくと肥える。
 独歩が向ける愛情は佐々城信子に向けているものだということは始めから理解していた。だのに、なんだか勿体なくて、だって、佐々城はもう死んだのだ。わたしが貰ったって善いじゃないか。佐々城のふりをして得た愛情だとしても、往き場のない感情ならば、わたしが背負ったって、善いじゃないか。
 ……判っているのだ。そうではないという事を。そうではいけないという事を。だって、わたしはわたしなのだから――!


▽△▽



「別れよう」

 静かな夕方だった。
 今日とは違い、季節の終わりで、窓を抜ける風が心地よかった。床に倒れていた独歩は二、三度瞬きを繰り返して、それからゆっくりと上体を起こした。
「何故」
「所詮お前は他人をその理想に当て嵌めることでしか価値を測れない人間なんだ。不満そうな顔をしているな。何、お前の云いたいことは判るとも。ただね、理想の為に生きているお前の理想であれない自分が歯痒いのさ。同時に苦しい」
 わたしと独歩。一緒に暮らしてみたけれど、一緒に働いていたけれど、きっと離れてしまっても、そんなに不自然ではないんだなあ。気付かされたときに感じた寂しさが、お前へ向けてのものではなかったことは、たまらなかったよ。
 こんなに美しくも賢いわたしだが、ようやく気付いたのだ。

 どんなに容姿が似ていようとも、わたしは佐々城信子では在れない――。

 烏が鳴いた。
 胸に蟠っていた惨めさは嘘のように消え去った。


▽△▽



「何だその恰好は朝っぱらから莫迦かお前は」
 思わず口から滑り出た言葉に、独歩は顔を顰めた。わたしの手には、未だ開封されていない独歩の結婚式の招待状が握られている。
「莫迦とは何だ! 莫迦とは!」
 今度はわたしが顔を顰める番になった。如何見ても、朝っぱらから決して高級とは云えない社員寮から白いタキシードを纏った男が出てきたら、それは莫迦者である。大莫迦者である。

 ――あれから独歩とは結果破局し同棲も解消したが、相変わらず一緒に働いているし同じ寮に住んでいる。

「どうぞお幸せに。浮気はしないように」わたしは嫌味ったらしく未開封の招待状を振った。
「何だ、未だ開けてないのか」独歩は鼻を鳴らした。
「開けなくても判る。然し丁度善かった。わたしは欠席だ」
 わたしは独歩に開けてもいない招待状を押し付けた。押し付けたが独歩はそれを許さなかった。取り敢えず開けろ。そして読めと、全く朝から白いタキシードの男は五月蠅い。
「開けなくても判ると云っているだろう」
「読まなければ俺がただの莫迦ではないか」
「現にそうだろう。理解していなかったのかお前」
「俺がッ! なんでッ! 朝っぱらからッ! 白いタキシードなんか着てッ!」
「……そんなお目出度い莫迦の考えは天才たるわたしの知るに至らんよ」
「巫山戯るなッ!」独歩は吠えた。
「貴様が結婚式を挙げるのならば自分の誕生日が善いと宣い旦那様は白いタキシードが似合わねばならんと云ったのだろうが! 今日は何月何日だ! 貴様の誕生日は何月何日だ! 」
 理解できたかと鼻息荒く、肩で息をする独歩は白いタキシードを着ている。
 旦那は白いタキシード。結婚式は誕生日。果たしてわたしは何時そんなことを云っちゃったのだろうか。……記憶にない。記憶にない上に、旦那様には白いタキシードを着て欲しいだとか、結婚式は己の誕生日が善いだとか、そんな恐ろしい考えを巡らせたことだってない。然し思い当たる節がある。
 ――佐々城信子。わたしが彼女に自身を重ねていた頃に、或いはそんなことを口走ったのかもしれない。それなら成程、理解に達する。
 白いタキシードに身を包んだ独歩を改めて見る。率直な感想は“独歩によぅく似合っている”だ。云ってはやらないけれど。
「独歩、お前は全く本当に莫迦だなあ」
 相変わらず独歩は理想に生きている。
 わたしはどこで間違えてしまったんだろうなあ。
 なあ、独歩。今度生まれ変わったら、わたしに好機はあるんだろうか。なあ、独歩。独歩。
「……式を挙げる当日に、自分の結婚式の招待状が届くなんて莫迦な話があるかよ」
「予行練習だ」独歩は漸く笑ったようだった。
 ああ、独歩。本当によぅく似合っているよ。云ってはやらないけれど。

 ありがとう。そして、去らば。苦いほど眩い想い出の日々。


▽△▽



 わたしは退職届を提出していた。
 わたしは自らの誕生日に結婚式を挙げたい女ではなかったが、有給を数え、自らの誕生日に寿退社を計画する女ではあった。同時に新居への引っ越しも計画していた。詰まるところ、あの日のあの朝が国木田独歩との紛れもない決別であった。
 未だ封が閉じられている結婚式の招待状を取り出す。ゆっくりと力を込めれば、簡単に亀裂が入った。びりびりと軽快に千切られ出来た紙吹雪は、車窓から美しく飛び立っていった。隣では手紙の内容を知らないであろうわたしの婚約者が、どこか可笑しそうに笑っていた。男は勿論白いタキシードなんか着ちゃあいなかった。


20170409
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