恋人に、好きだとか愛しているだとか、はたまたうんと甘くて浪漫のある言葉を掛けられたいと思うのは、決して贅沢なことではないと思うのです。
そう、贅沢なわけがないのです。苗字名前は自分に何度も言い聞かせた。
▽△▽
名前の恋人である宮沢賢治という男は、純粋で心優しい少年である。
愛の告白をしたのは名前からで、賢治は嬉しいと応えた。晴れて付き合う運びとなったわけであるが、名前の欲望はふくふくと肥えて、もう破裂寸でのところに至っていた。
名前が好きだと云えば、賢治は僕も好きですと返すし、名前が今日の服は如何かなと尋ねれば、賢治はとても可愛いですと微笑んだ。名前はそれが嬉しくてたまらなかった。
それも回数を、亦月日を重ねると、だんだん自分が誘導して云ってもらっているように思えて、惨めな気持ちが大きくなった。
賢治が自ら好意を伝えてきたことがない、ということに名前が気付いたのは、交際を始めて三ヶ月が過ぎようとした頃であった。
名前はうんと考えた。
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「賢治君。あのね、伝えたいことがあって、吃驚するかもしれないんだけど」
「はい。何でしょう?」
にこにこと笑う賢治に、名前は悪い気持ちでいっぱいであった。手の平にはべったりと汗が滲んでいるし、額にも脂汗が噴き出ているのが判る。人中が痙攣を始めた。
「……赤ちゃんが、できました」
嘘である。
「……はい?」賢治は笑顔を貼り付け、聞き返した。
「赤ちゃんが、できました」
真っ赤な嘘なのである。
賢治に愛の言葉を囁かれたくて、あわよくば結婚しようなんて云われてみたくて、崖っぷちにまで追い詰められた名前が脳漿を絞り滅茶苦茶に試行錯誤した結果の虚言なのである。
赤子を孕んだとあれば、流石の賢治でも「僕は名前さんを愛しています。結婚しましょう。素敵な家庭を築きましょうね」なんてめくるめく恋愛話が展開されるのではないかと、名前はそう思ったのだ。
「そうですか。それは、おめでとうございます」
「はい!」
名前は「さァ来るか!」と、次に飛んでくるであろう甘い言葉に身構えた。然し、飛んできた拳は予想よりも力強かった。
「何故それを僕に?」
右ストレートは顎下を抉った。
甘い言葉どころか、僕そんなの関係ないもんと云われてしまえば、事実無根の虚言はなんの意味も成さない。
返答できないでいると「そもそも僕たち性交渉をしたことはないですよね」と云われ、名前の泳いでいた目は賢治を捉えた。
「どなたとの間にできた赤子なのか聞いてもいいのですか?」
苗字名前は甞めていた。名前は賢治の純粋さと心優しさを過信し、自分に都合のいいような妄想で彼を固めてしまっているところがある。名前の今回の作戦の大きな失敗はそれと云えよう。
賢治は赤子の宿し方を知らないものと思っていた。なんていっても彼は未だ十四歳である。赤子というのは、コウノトリが運んで来たり、甘藍畑で育まれたものであると思っている、と思っていた。従って、甞めていたのである。セックスもしていないのに赤子ができたと豪語し、愛の言葉を賜ろうとした。自分の恋人を甞めて嘘を吐いた、それが名前の罪である。
「すみませんでした」
▽△▽
名前は謝った。それから嘘を吐かなければならない経緯を説明した。
賢治は自前の麦わら帽子で顔を隠し大きく息を吐き出した。
「よかった」
賢治の口から出た言葉に名前は衝撃を受けた。矢張り自分のことなんて微塵も想ってくれてはいないのか。そりゃあ、十四歳で父親だなんて荷が重いにも程があるよなあ……なんて、気持ちは割り切れても、悲しいものは悲しい。悲しければ、涙が出る。
「えっ! どうしたんですか」
「御免ね。本当に、御免なさい」
「僕こそ、名前さんを不安にさせてしまったんですよね。すみませんでした。お相子です。ですから、泣かないでください」
賢治は子供をあやす様に名前の髪の毛を混ぜて、自分の麦わら帽子を被せる。名前は引っ込めようとした賢治の腕をぎゅうと掴み「嫌いにならないで」と懇願した。
賢治はぎょっとした。
「如何して、僕が名前さんを嫌いになるんです?」
「嘘を吐いて、それもあんな嘘……嫌になったでしょう?」
「確かに肝が冷えました。盗られたと、思いました。だって僕は貴女を抱いてすらいないのに」
赤ちゃんができたなんて、と云う声は次第に小さくなり、やがて消えた。
「賢治君が、わたしのことを好きでいてくれたら、嬉しい」
名前の涙は引っ込んでいた。「これからは欲張らないよ、大人だから」と云う名前の笑顔は成程大人のそれである。賢治は焦る。自分は未だ十四歳で、本当に自分の恋人が他の男に掻っ攫われてしまう日が来てしまうのかもしれない。
名前の作戦は道半ば失敗かと思われたが、着陸先は思いもよらぬところになった。自分の気持ちを伝えられ、恋人としての絆がより固く結ばれたのだ。これはよもや作戦成功と云っても過言ではないのではない。
「偶に好きを伝えてくれれば、もっと嬉しいな」
「そうですね。そのためには、名前さんが今後、僕に一切の嘘を吐かないと約束してくださいね」
「はい!」
素直に返事をする恋人を慈しむように賢治は笑う。
未だ十四歳の自分では、もし、別の男にたぶらかされてしまった恋人を繋ぎとめておけるのか。否、繋ぎ留めておかねばならぬことは判っている。
「それでは、嘘を吐かないで教えてください」
ならばもう、年齢なんか大した問題ではないのだ。
「性交渉とはどういうものなのでしょうか?」
嘘を吐かないで、教えてくださいね。できれば身体で。賢治は笑った。
2016.06.19