少女の瞳は涼し気な硝子玉のようだった。そこには澄んだ青と深い青とが、悠々と同居しているのである。
 男はその瞳を美しいと思った。それから艶を多く含んだ暗い髪の毛が垂れる深紅の長着と年齢が食い違い、調和が保てない艶やかさも気に入っていた。然し少女は自分の容姿にはあまり頓着していないようだった。
 男は、その陶器のような肌が勿体無いような気がして、硝子玉のような瞳を暴いてやりたくて、定期的に少女の前の髪の毛を切り揃えていた。
 此れは、坂口の前に男の部下を務めていた少女の話である。

 尾崎紅葉が少女――苗字名前と出逢ってしまったのはその数年後の出来事だ。


▽△▽



「なんじゃ、あの女は」

 苗字が廊下を闊歩する。風が吹く。
 艶を多く含んだ暗い髪の毛が束になって宙を漂い、白い首が晒される。太い革の首飾りが不均衡さを象徴するように鈍く光った。その様子が尾崎の眼にはまるで映画の一場面のようだと感じさせた。
「……あんな女は居ったかのう」
 尾崎の瞳は苗字を写し、記憶しようと瞬きを忘れた。頬に朱が差す。尾崎は恋を覚えた少女の様に、好奇で胸が跳ねた。
 そんな彼女の様子に気付いた周囲の大人は口を揃えて警告をした。

「苗字名前には関わるな」

「何故」
 尾崎が問えば、横隊した噂が波の様に身を打った。
 苗字名前は己の仕事の為には手段を択ばない非道さを孕んでいる。仲間を平気で売るし、傷付ける。殺したっていう噂も聞く。爆弾が内蔵されてるから近づくなって云われたぜ。大人達は口々に苗字の悪評を挙げた。
「……仲間殺し、のう。仮にその噂が本当であれば、勿論首領の耳にも届いておるじゃろうて。真実であれば首領が咎めるはずじゃ。あの女がこうして拠点内を闊歩しているということは、殺された側に否があったか、本当に噂なんじゃろうて」
 尾崎の余裕のある物言いに大人達は口を噤んだ。

「――是非、お近づきになりたいものじゃのう」


▽△▽



 再び尾崎が苗字に遭遇したのは、それから数日後であった。
 苗字は、ポートマフィアが非合法で手に入れた資金を洗浄する会計施設で助手として働いていた。施設は湾岸沿いに建っていたため、本部に身を置いている尾崎と苗字が顔を合わせる機会は少なかった。

「善い着物じゃのう」
 深紅の長着は目立つ。ポートマフィア拠点内が広いと云えど、噂が回るのも早い。本部に使わされた苗字を捕まえるのは容易であった。
 尾崎が声をかけると、苗字は成程噂通りに人を殺せそうな視線を向ける。
「本部内はこうして男ばかりじゃろう。私に齢の近い女友達なんていうのは居らんでな。其方とお近づきになりたいと思っておったのじゃ」
 ギラギラと殺意を孕んだ瞳に負けまいと、尾崎は穏やかな口調で云った。周囲の構成員は息を飲む。張りつめた空気にとても見ていられないと逃げ出す者も居た。
「お近づきに?」苗字は吐き出す様に云った。
「友達と云えば通じるかのう」
 友達。尾崎の言葉を復唱して、それから苗字は可笑しそうに歯を鳴らした。
「貴女が、わたしの、友達に? 友達って、如何いう友達なのかしら。取り巻きが欲しいの? 知り合いを増やしたいの? 偏に友達と云っても様々な友達の種類があるでしょう。わたしとは如何やって付き合っていくお心算かしら。その答えによってはなってあげても好いわよ。――そのお友達に」
 ね? と云い切ったところで、苗字の表情が歪む。目尻が下がり口角が上がる。然しそれは笑顔とは云い難い。歪められた苗字の表情に、尾崎は一瞬怯んだ。深く、長く息を吐き出す。
「……取り巻きなんかでは意味がない。知り合いでは事足りぬ。本当の友達じゃ。そうじゃのう。例えば、世界中の人が敵になっても必ず味方になるような、そんな関係が望ましい。如何じゃ。お気に召さぬか?」
 苗字は口元に人差し指を当て、悩んだ素振りを見せる。
「口では何とでも云えるのだわ」
 啖呵を切った尾崎の額にはうっすらと汗が滲んでいた。初めて人を殺した時でさえこんなに脂汗が浮かんだだろうか! こんなにも息苦しかっただろうか……ッ!
「貴女。ねえ、それが嘘だったとき、わたしは貴女を殺すわよ」
 殺す、という言葉に反応を示したのは、今まで事態を見守っていた構成員であった。あの噂の苗字名前の口から出た殺人予告に、周囲は静かにどよめいた。
「――どう? それでもわたしと友達になりたいのかしら」
 苗字の値踏みしているような視線に、己の上っ面の体裁を保とうとしている様が、まるで遊女のそれで莫迦莫迦しくて可笑しくて堪らなかった。それでも尾崎が苗字の信用を得たかったのは、彼女の殺意を潜んだ青い硝子玉のような瞳の奥に、とても清らかな羨望が見えたからだ。その羨望を、どうか掬ってやりたかった。

「約束しよう。私が其方を失望させたとき、この命は其方にくれてやる」

 それから、尾崎紅葉と苗字名前はいつでも一緒だった。


201707xx
ALICE+