marlboro
自分でいうのもなんだが、私はモテるらしい。
「好きなんだ、ミョウジ准尉」
「えっ」
しかし、所謂高嶺の花というやつに勝手に据え置かれているらしく、実際に告白というものをされたのはこれが初めてだったのだ。
「…良かったら、俺と付き合ってみないか?」
そう言って、地球上の誰よりも早く私にストレートを投げたのはブレダ少尉だった。
「ミョウジ准尉とブレダ少尉が? 何かの間違いじゃないですか?」
早朝の司令室。ハボックが動揺しながら捲し立てた内容を聞いたフュリーはそれがにわかには信じられず、ハボックに聞き返した。
「いや本当なんだって! 俺だって何かの間違いだと思いたかったさ! ブレダなんかに手を握られてあんな風に頬を染めるミョウジ准尉を見たくなかった! でもファルマンも見ただろ?」
「…見ました。あれは間違いなく恋人同士の雰囲気、しかも出来たてほやほやの初々しさが嫌味なほど醸し出されていました!」
そして、うおーん、と朝から泣き叫ぶ男のハーモニーを途切れさせたのは、上司の登場だった。
「…何を朝から泣き喚いている。みっともない」
「「「大佐ーーー!」」」
かくかくしかじかで、ハボックが出勤前に見たことをマスタング大佐に伝えた。
「あのミョウジ准尉が、ブレダとだと…?」
大佐も明らかにショックを受けていた。無理もない。大佐も彼女をことあるごとに口説いていたのだから。東方司令部に勤める男なら一度は彼女に話しかけ、口説いたことがあるはずだ。そして彼女は今まで誰一人として相手にしなかった。ブレダ少尉も例外ではないと思っていた。なのに何故その二人が仲睦まじく出勤するという姿をハボック少尉が目撃することになったのか。その謎を解くべく、一同はブレダとナマエの出勤を心待ちにした。
「おはようございます」
現れたのはナマエだった。
「「「ミョウジ准尉!」」」
「ななな、なんですか皆さん揃って」
「君がブレダ少尉と付き合い始めたというのは本当かね?」
入室するや否や同僚組に詰め寄られ驚いたところへ、彼らの後ろから彼らよりかは冷静な大佐が三人の代弁をする。そして彼女は当たり前のように首を縦に振った。
「だって、付き合ってって言われたのブレダ少尉が初めてだったんです」
彼女の肯定を聞いた瞬間、三人は絶望に打ちひしがれたが、その阿鼻叫喚の中で大佐だけが彼女の言葉を拾った。
「っち、ちょっと待て。…初めてだと?」
「はい」
「君のような麗しい女性が今まで男に好きだと言われたことがないわけないだろう」
「好き、とは言われたことはあります。でも誰も彼もそれだけでしたので、男女間の好意ではないのかと」
「君はっ……いや。では私にもう一度チャンスをくれ。ナマエ、好きだ。愛してる。私と付き合って欲しい」
「え、いや…あ、え、」
あまりに無粋で鈍感な彼女の言い分に言葉を失ったが、マスタング大佐は一度口を噤んでから彼女の手を取って至近距離で告白した。しれっと名前で呼び、今度ははっきりと要望を添えて。するとどうだろう、明らかに取り乱して赤面する彼女を見て、大佐は「イケる」と思った。
「ブレダと交際する手前頷けないのは分かっているよ。だから今日一日だけでもいい。君の時間を私にくれないか? 必ず私に夢中にさせてみせるから」
「た、大佐…」
いつもの軽いナンパのような誘い方ではない。顔良し頭のキレ良し体格良し声良し地位有り戦力申し分無し色気むんむんの物腰良しというマスタング大佐にこれほどまで熱烈に口説かれては、女としてはたまったものではなかった。至近距離で見つめ合う視線を逸らせないまま、大佐の手が彼女の腰に回ったその時。
「っ、」
後ろから引っ張られて誰かに抱きしめられた。こんな大胆なことが出来るのは大佐の他にただ一人、昨日恋人の座を掴み取ったブレダ少尉だ。
「大佐、ひとの彼女口説かないでもらえますか」
「見せつけてくれるじゃないか、ブレダ少尉」
一人の女を挟んで啀み合う男二人の図が完成した。古今東西、これを崩すのはいつの時代も女であることが多い。ナマエは勇気を出して声を上げた。
「もうやめてください! 私が悪いんです!!」
お決まりの台詞だが、ナマエの叫びはその場に静寂と冷静さを齎した。そして「軽蔑される覚悟でお話します」と前置きし、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昨日、告白されて、私はブレダ少尉のことを好きになりました。でも、付き合うべきではありませんでした」
「え…」
その告白にブレダ少尉がショックを受けた表情を浮かべた。
「大佐にも、今、ドキドキしてしまいました。…ブレダ少尉、ごめんなさい」
「ナマエ…」
一般的にはブレダはそこまで良い男とは言えない。そりゃあ大佐のような男に言い寄られれば心揺れるのも致し方ないだろう。この部屋の誰もがーーブレダでさえーーそう思ったのだが、どうやらナマエの事情はもっと深刻らしかった。
「…実は私、惚れっぽいんです。すぐ男性にときめいてしまうんです。ちょっと手が触れたり、声をかけられたり、見つめられたり、笑いかけられたり、凛々しい表情を垣間見たり…、我ながらあまりに節操が無いから、本当に恋をしているのかどうかずっと分からなかったんです。でもブレダ少尉ははっきりと私を求めてくださって、私は安心してこの人を好きになっていいんだと思えました」
特定の男性と付き合っていながら他の男性にも好意を寄せるのは裏切りだと知っていた。いつかこうなると分かっていながら、それでも嬉しかったから、ついYESと返事をしてしまった。他の男性への興味を捨てられない私にそうする権利などなかったのに。この浮気な心を、許して貰えるはずないのに。
***
彼女の本当の気持ちを、その残酷な真実を聞いて頭の中が忙しい。やっぱり、知らない方が幸せなことってあるんだな。彼女のときめきは男の俺が否定していいものではない。普通は女よりも男の方が節操無しなのだから。俺へのときめきを肯定し他の男へのそれを辞めろなどと制御出来るものでもない。ただ、好きと伝えた時、彼女がほんの少し嬉しそうに頬を染めたから、もしかしたらと一縷の望みにかけて交際を提案したのだ。反応を見れば分かる。確かに彼女は自分に好意を抱いてくれたはずだ。残念なことにそれは俺限定ではなかったというだけのこと。頭では受け入れられても、男としての矜恃が彼女を受け入れられず目に涙が滲んだ。最初はそれでも良かったはずだった。だけど実際交際に進んで浮かれていたと同時に思い上がっていたのだ。自分は彼女に相応しい男だと。彼女が認めた男は自分だけだと。しかし、大きな誤解だった。そう、この交際は大きな誤解だった。
「別れよう、ナマエ」
自分の決断に涙する彼女。きっと、軽蔑されたなどと誤解して泣いているのだろう。ああ全く、俺達は誤解ばかりだな。誤解から始まり、終わる時も誤解に塗れた交際だった。でも、これからは、男女としてではなく、人として、誤解ではない関係を築こう。きっと俺達なら出来るだろう。
「ブレダ少尉…、ごめんなさい」
結局一度も名前で呼んで貰えなかったなあ。まあそれでいい。逆に良かった。
何度も何度も謝るナマエを抱きしめてあやすことも、その見当違いの涙を優しく拭って「違うんだ」と慰めることも、もう俺の役目ではなかった。ただ、遠慮がちに、その垂れた頭を撫でてやった。別れる直前の恋人ととしての行動なのか、それとも同僚としての行動なのかは自分でも分からなかった。
「ナマエ、いいんだ」
お前が謝る必要なんて無いのだと、これでどうか伝わってくれと願った。
***
「話がある」と、「飲みに行かないか」と大佐に誘われたのは昨日の今日で、あまりに真剣な眼差しにお断りの返事を取り上げられてしまった。昨日は朝からあんなことがあったので一人で出来る資料室での業務にしてもらい、今日出勤したらブレダ少尉はいつもみたいに挨拶してくれてそれがまた涙腺を弛めた。みんなが腫れ物に触るような扱いをしてくる中、大佐だけは違った。それを説明するには私なんかには大佐という為人は理解し難く崇高な存在と言える。つまり大佐の様子を形容するのに私の語彙では到底足りずまさに筆舌に尽くし難いということだ。そして、少なからず身構えていた私にその彼はこう切り出した。
「私はそれでも構わないよ」
「え」
その言葉が示す意味の恐らく半分も理解しないまま条件反射のように動揺してしまった。昨日話した私の悪癖についての話だと、前もって気づいていたからだ。動揺する私とは逆に大佐はお店の雰囲気に馴染んで落ち着き払っていた。一体どれほどの人生経験を積めば、ここまで大人の余裕というものを惜しみなく醸し出せるのか。その佇まいはもはや私とは別の次元の人に見えた。
「君はそれをいけないことのように言うが、誰かを好きになることが出来るのはその人の美徳だとは思わないか? 君はきっと、誰よりも広い視野を持って誰かを愛そうとしているんだろう。…感情を一つ二つと数えることは出来ない。想いの大きさも測れない。例え世界でたった一人へ向けられた愛情でなかったとしても、君からの好意なら私は…喉から手が出るほど欲しいよ」
「っ、」
口説かれているのだと気付いた。大佐が紡ぐ言葉は私が自分を責めないようにと慮ったものだろうと言えた。しかしその眼差しは違った。まるで捕食獣が獲物を捕らえようとするかのような鋭さと、それから美しさが隠れていた。それを脳より先に身体が、五感が悟った時、私の預かり知らぬ所で何かのタガが外れたような気がした。
「元来男とは移り気な生き物だ。移り気な女がいても不思議じゃない。君がそれに苦しむ必要などない」
大佐の声音はとても心地良かった。いつまでもこの声に微睡んでいたいと思えるような響きを含んで。しかし誘われてうっかり視覚を差し出してしまえばもれなく貪欲な黒曜石に絡め取られ、螺旋を落下していった。きっとその最後には貴方が口を開けて待っているのだろうと想像させつつ、分かっていても抜け出せない恐怖がそこには存在した。いつも見ているはずの大佐の黒い瞳に、初めてのものをいくつも見出していた。底知れなさ、恐怖、美しさ、そして狂気。比較的平凡な人生に馴染みも縁も無いそれらは、為す術ないほどに魅力的に映っている。
「私も男だから、沢山の女性に愛を囁いてきたよ。昨日君に言ったようにね。それでも、そのどれもが私の本心だ。愛情に番付をする必要もないし愛情を無理に糊塗する必要もない。愛する人が二人居てもいいじゃないか。自分の手で幸せにする人が三人居てもいいじゃないか」
目から鱗だった。まるで美談に聞こえもするが、言っていることはやもすれば最低だ。であるのに、お店の音楽や雰囲気に流されてこの男の繊細な暴論に納得してしまいそうだ。私の脳内には大佐の口八丁に毒された自分が半分、そして「そんなの相手が悲しむでしょう」と冷静に反論する自分がもう半分。
「愛する人は、…一人がいいです」
脳内葛藤を経てやっとのことで私が絞り出すと、大佐はこれまた目が離せなくなるような悩殺スマイルでフッと微笑った。
「それもいいだろう。…Man always remember love because of romance only.」
「え?」
「人は本当の愛を見つけるために恋をするのだから」
「本当の愛を見つけるため…」
「これはどこかで聞いた受け売りだがね」
ああこの人は、今までにも同じことを言って星の数ほどの女性を口説いてきたのだろう。そう頭の隅で警鐘を鳴らす自分と、それをふわふわの毛布で覆い隠してしまう自分がいる。しかし警鐘などもはや手遅れで、毛布を手にする自分の方が既に圧倒的に多かった。完敗したのだ。
「ナマエ。私と、本当の愛を見つけるために本気の恋をしないかい?」
まるで魔法にかけられたように、店内の雑音が一斉に消えた。もし、この妙技が目の前の大佐やはたまた精霊さんや誰かの仕業でないのなら、私の思い込みが成した幻覚であるのなら、これは運命の瞬間というやつかもしれない。
実に一時間にも及ぶ口説き文句だったそれに対して、私が彼に是と応えたのは言うまでもない。
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「好きなんだ、ミョウジ准尉」
「えっ」
しかし、所謂高嶺の花というやつに勝手に据え置かれているらしく、実際に告白というものをされたのはこれが初めてだったのだ。
「…良かったら、俺と付き合ってみないか?」
そう言って、地球上の誰よりも早く私にストレートを投げたのはブレダ少尉だった。
「ミョウジ准尉とブレダ少尉が? 何かの間違いじゃないですか?」
早朝の司令室。ハボックが動揺しながら捲し立てた内容を聞いたフュリーはそれがにわかには信じられず、ハボックに聞き返した。
「いや本当なんだって! 俺だって何かの間違いだと思いたかったさ! ブレダなんかに手を握られてあんな風に頬を染めるミョウジ准尉を見たくなかった! でもファルマンも見ただろ?」
「…見ました。あれは間違いなく恋人同士の雰囲気、しかも出来たてほやほやの初々しさが嫌味なほど醸し出されていました!」
そして、うおーん、と朝から泣き叫ぶ男のハーモニーを途切れさせたのは、上司の登場だった。
「…何を朝から泣き喚いている。みっともない」
「「「大佐ーーー!」」」
かくかくしかじかで、ハボックが出勤前に見たことをマスタング大佐に伝えた。
「あのミョウジ准尉が、ブレダとだと…?」
大佐も明らかにショックを受けていた。無理もない。大佐も彼女をことあるごとに口説いていたのだから。東方司令部に勤める男なら一度は彼女に話しかけ、口説いたことがあるはずだ。そして彼女は今まで誰一人として相手にしなかった。ブレダ少尉も例外ではないと思っていた。なのに何故その二人が仲睦まじく出勤するという姿をハボック少尉が目撃することになったのか。その謎を解くべく、一同はブレダとナマエの出勤を心待ちにした。
「おはようございます」
現れたのはナマエだった。
「「「ミョウジ准尉!」」」
「ななな、なんですか皆さん揃って」
「君がブレダ少尉と付き合い始めたというのは本当かね?」
入室するや否や同僚組に詰め寄られ驚いたところへ、彼らの後ろから彼らよりかは冷静な大佐が三人の代弁をする。そして彼女は当たり前のように首を縦に振った。
「だって、付き合ってって言われたのブレダ少尉が初めてだったんです」
彼女の肯定を聞いた瞬間、三人は絶望に打ちひしがれたが、その阿鼻叫喚の中で大佐だけが彼女の言葉を拾った。
「っち、ちょっと待て。…初めてだと?」
「はい」
「君のような麗しい女性が今まで男に好きだと言われたことがないわけないだろう」
「好き、とは言われたことはあります。でも誰も彼もそれだけでしたので、男女間の好意ではないのかと」
「君はっ……いや。では私にもう一度チャンスをくれ。ナマエ、好きだ。愛してる。私と付き合って欲しい」
「え、いや…あ、え、」
あまりに無粋で鈍感な彼女の言い分に言葉を失ったが、マスタング大佐は一度口を噤んでから彼女の手を取って至近距離で告白した。しれっと名前で呼び、今度ははっきりと要望を添えて。するとどうだろう、明らかに取り乱して赤面する彼女を見て、大佐は「イケる」と思った。
「ブレダと交際する手前頷けないのは分かっているよ。だから今日一日だけでもいい。君の時間を私にくれないか? 必ず私に夢中にさせてみせるから」
「た、大佐…」
いつもの軽いナンパのような誘い方ではない。顔良し頭のキレ良し体格良し声良し地位有り戦力申し分無し色気むんむんの物腰良しというマスタング大佐にこれほどまで熱烈に口説かれては、女としてはたまったものではなかった。至近距離で見つめ合う視線を逸らせないまま、大佐の手が彼女の腰に回ったその時。
「っ、」
後ろから引っ張られて誰かに抱きしめられた。こんな大胆なことが出来るのは大佐の他にただ一人、昨日恋人の座を掴み取ったブレダ少尉だ。
「大佐、ひとの彼女口説かないでもらえますか」
「見せつけてくれるじゃないか、ブレダ少尉」
一人の女を挟んで啀み合う男二人の図が完成した。古今東西、これを崩すのはいつの時代も女であることが多い。ナマエは勇気を出して声を上げた。
「もうやめてください! 私が悪いんです!!」
お決まりの台詞だが、ナマエの叫びはその場に静寂と冷静さを齎した。そして「軽蔑される覚悟でお話します」と前置きし、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昨日、告白されて、私はブレダ少尉のことを好きになりました。でも、付き合うべきではありませんでした」
「え…」
その告白にブレダ少尉がショックを受けた表情を浮かべた。
「大佐にも、今、ドキドキしてしまいました。…ブレダ少尉、ごめんなさい」
「ナマエ…」
一般的にはブレダはそこまで良い男とは言えない。そりゃあ大佐のような男に言い寄られれば心揺れるのも致し方ないだろう。この部屋の誰もがーーブレダでさえーーそう思ったのだが、どうやらナマエの事情はもっと深刻らしかった。
「…実は私、惚れっぽいんです。すぐ男性にときめいてしまうんです。ちょっと手が触れたり、声をかけられたり、見つめられたり、笑いかけられたり、凛々しい表情を垣間見たり…、我ながらあまりに節操が無いから、本当に恋をしているのかどうかずっと分からなかったんです。でもブレダ少尉ははっきりと私を求めてくださって、私は安心してこの人を好きになっていいんだと思えました」
特定の男性と付き合っていながら他の男性にも好意を寄せるのは裏切りだと知っていた。いつかこうなると分かっていながら、それでも嬉しかったから、ついYESと返事をしてしまった。他の男性への興味を捨てられない私にそうする権利などなかったのに。この浮気な心を、許して貰えるはずないのに。
***
彼女の本当の気持ちを、その残酷な真実を聞いて頭の中が忙しい。やっぱり、知らない方が幸せなことってあるんだな。彼女のときめきは男の俺が否定していいものではない。普通は女よりも男の方が節操無しなのだから。俺へのときめきを肯定し他の男へのそれを辞めろなどと制御出来るものでもない。ただ、好きと伝えた時、彼女がほんの少し嬉しそうに頬を染めたから、もしかしたらと一縷の望みにかけて交際を提案したのだ。反応を見れば分かる。確かに彼女は自分に好意を抱いてくれたはずだ。残念なことにそれは俺限定ではなかったというだけのこと。頭では受け入れられても、男としての矜恃が彼女を受け入れられず目に涙が滲んだ。最初はそれでも良かったはずだった。だけど実際交際に進んで浮かれていたと同時に思い上がっていたのだ。自分は彼女に相応しい男だと。彼女が認めた男は自分だけだと。しかし、大きな誤解だった。そう、この交際は大きな誤解だった。
「別れよう、ナマエ」
自分の決断に涙する彼女。きっと、軽蔑されたなどと誤解して泣いているのだろう。ああ全く、俺達は誤解ばかりだな。誤解から始まり、終わる時も誤解に塗れた交際だった。でも、これからは、男女としてではなく、人として、誤解ではない関係を築こう。きっと俺達なら出来るだろう。
「ブレダ少尉…、ごめんなさい」
結局一度も名前で呼んで貰えなかったなあ。まあそれでいい。逆に良かった。
何度も何度も謝るナマエを抱きしめてあやすことも、その見当違いの涙を優しく拭って「違うんだ」と慰めることも、もう俺の役目ではなかった。ただ、遠慮がちに、その垂れた頭を撫でてやった。別れる直前の恋人ととしての行動なのか、それとも同僚としての行動なのかは自分でも分からなかった。
「ナマエ、いいんだ」
お前が謝る必要なんて無いのだと、これでどうか伝わってくれと願った。
***
「話がある」と、「飲みに行かないか」と大佐に誘われたのは昨日の今日で、あまりに真剣な眼差しにお断りの返事を取り上げられてしまった。昨日は朝からあんなことがあったので一人で出来る資料室での業務にしてもらい、今日出勤したらブレダ少尉はいつもみたいに挨拶してくれてそれがまた涙腺を弛めた。みんなが腫れ物に触るような扱いをしてくる中、大佐だけは違った。それを説明するには私なんかには大佐という為人は理解し難く崇高な存在と言える。つまり大佐の様子を形容するのに私の語彙では到底足りずまさに筆舌に尽くし難いということだ。そして、少なからず身構えていた私にその彼はこう切り出した。
「私はそれでも構わないよ」
「え」
その言葉が示す意味の恐らく半分も理解しないまま条件反射のように動揺してしまった。昨日話した私の悪癖についての話だと、前もって気づいていたからだ。動揺する私とは逆に大佐はお店の雰囲気に馴染んで落ち着き払っていた。一体どれほどの人生経験を積めば、ここまで大人の余裕というものを惜しみなく醸し出せるのか。その佇まいはもはや私とは別の次元の人に見えた。
「君はそれをいけないことのように言うが、誰かを好きになることが出来るのはその人の美徳だとは思わないか? 君はきっと、誰よりも広い視野を持って誰かを愛そうとしているんだろう。…感情を一つ二つと数えることは出来ない。想いの大きさも測れない。例え世界でたった一人へ向けられた愛情でなかったとしても、君からの好意なら私は…喉から手が出るほど欲しいよ」
「っ、」
口説かれているのだと気付いた。大佐が紡ぐ言葉は私が自分を責めないようにと慮ったものだろうと言えた。しかしその眼差しは違った。まるで捕食獣が獲物を捕らえようとするかのような鋭さと、それから美しさが隠れていた。それを脳より先に身体が、五感が悟った時、私の預かり知らぬ所で何かのタガが外れたような気がした。
「元来男とは移り気な生き物だ。移り気な女がいても不思議じゃない。君がそれに苦しむ必要などない」
大佐の声音はとても心地良かった。いつまでもこの声に微睡んでいたいと思えるような響きを含んで。しかし誘われてうっかり視覚を差し出してしまえばもれなく貪欲な黒曜石に絡め取られ、螺旋を落下していった。きっとその最後には貴方が口を開けて待っているのだろうと想像させつつ、分かっていても抜け出せない恐怖がそこには存在した。いつも見ているはずの大佐の黒い瞳に、初めてのものをいくつも見出していた。底知れなさ、恐怖、美しさ、そして狂気。比較的平凡な人生に馴染みも縁も無いそれらは、為す術ないほどに魅力的に映っている。
「私も男だから、沢山の女性に愛を囁いてきたよ。昨日君に言ったようにね。それでも、そのどれもが私の本心だ。愛情に番付をする必要もないし愛情を無理に糊塗する必要もない。愛する人が二人居てもいいじゃないか。自分の手で幸せにする人が三人居てもいいじゃないか」
目から鱗だった。まるで美談に聞こえもするが、言っていることはやもすれば最低だ。であるのに、お店の音楽や雰囲気に流されてこの男の繊細な暴論に納得してしまいそうだ。私の脳内には大佐の口八丁に毒された自分が半分、そして「そんなの相手が悲しむでしょう」と冷静に反論する自分がもう半分。
「愛する人は、…一人がいいです」
脳内葛藤を経てやっとのことで私が絞り出すと、大佐はこれまた目が離せなくなるような悩殺スマイルでフッと微笑った。
「それもいいだろう。…Man always remember love because of romance only.」
「え?」
「人は本当の愛を見つけるために恋をするのだから」
「本当の愛を見つけるため…」
「これはどこかで聞いた受け売りだがね」
ああこの人は、今までにも同じことを言って星の数ほどの女性を口説いてきたのだろう。そう頭の隅で警鐘を鳴らす自分と、それをふわふわの毛布で覆い隠してしまう自分がいる。しかし警鐘などもはや手遅れで、毛布を手にする自分の方が既に圧倒的に多かった。完敗したのだ。
「ナマエ。私と、本当の愛を見つけるために本気の恋をしないかい?」
まるで魔法にかけられたように、店内の雑音が一斉に消えた。もし、この妙技が目の前の大佐やはたまた精霊さんや誰かの仕業でないのなら、私の思い込みが成した幻覚であるのなら、これは運命の瞬間というやつかもしれない。
実に一時間にも及ぶ口説き文句だったそれに対して、私が彼に是と応えたのは言うまでもない。
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