プロローグ

 恋人と連絡が取れなくなったとき、普通の人ならどうするのだろう。
 依織はダイニングテーブルに腰掛け、うんともすんとも言わないスマホを眺めながらそう思った。
(今日で一週間……最長記録……)
 スマホを机上に置き、背もたれに寄りかかって後ろに仰け反った。
「う〜もう一回連絡してみようかな〜」
 ぐうっと伸びをして、背後にあった時計を逆さまに見る。すでに夕方の四時。そろそろ今日の夕飯をどうするか考えないといけない。
「甚くんなにしてるのかな……」
 恋人である絵心甚八は、元々マメな性格でもない。クラスメイトだった高校時代ならいざ知らず、その後は彼は海外へと旅立ってしまい、所謂「遠距離恋愛」期間が圧倒的に長い。その遠距離期間にも、こうして連絡のつかないときはあった。なるべく一日に一度はメッセージを交わすようにはしていたものの、試合が近づいたりと忙しくなると連絡が途切れることは多々あった。
 それでも、最短で一日……最長で五日だ。
 今回のように一週間、なんの音沙汰もないのは初めてだった。しかも、彼が選手を引退した現在では祖国――日本で一緒に住んでいるのに、である。
 なんの前触れもなくいなくなった訳ではない。
 一言、「今日の夕飯はいらない。あとしばらく帰れない」と簡素な文章が届いた。
「一年前ぐらいからちょっとバタバタしてたし、多分サッカー関連でなにかあるんだろうけど……」
 むしろ、サッカー以外で絵心が活発に動く様はほとんど見たことがない。なんせ、自己PRの長所と短所に「サッカー以外興味がないところ」とケロッとした顔で記載する男なので。
 己の優先事項の一番が恋人でもなく「サッカー」な男だが、依織は、絵心のサッカー狂いを不快に思ったことはなかった。
 そりゃ、何年も会えないのはちょっぴり淋しいなって思ったり、寝ても覚めてもサッカーのことしか考えていないのには妬けることもあるけれど、依織が出会った高校生の絵心甚八は、すでにそういう男として完成されていたからだ。
 サッカーに興味のない絵心は、絵心ではないとすら思える。
 本来であれば、サッカーが絡まなければ他者に対して興味も関心もない男だ。サッカーどころか運動すら壊滅的で、文化部だった依織を恋人に据えていることがイレギュラーなのだ。
 ――お前以上に大事なものはサッカーしかない。
 突然引退を表明して帰国したと思えば、「一緒に住んで欲しい」と伝える前置きの決め台詞にそんな言葉を投げかけてくるどうしようもない男である。
 あまりにもいつも通りで、依織は心配していたのも吹き飛んでしまい、思わず笑って了承した。
 多分、依織が女性で、あれがプロポーズのつもりだったのなら、レストラン中に響き渡るぐらいに力を込めて横っ面を引っぱたいたとは思うけれど……。
「……いやだな。余計なこと思い出した」
 ぽっと自分の頬が熱くなる。当時は「思わず頷いちゃった」と茶化して合鍵を受け取ったものだが、内心では人生で一番と言うぐらいには嬉しかったのだ。
(だって、世界がサッカーでしか出来てないような甚くんが、サッカーの次に大事だって……)
 出会ってから、彼がどれだけサッカーを愛しサッカーだけに人生を捧げてきたか、全てとは言わずとも知っている。そんな男から、あんな言葉を言われて喜ばない者がいるだろうか?
(きっと甚くんは、俺がそんなに喜んでたって知らないだろうけど……)
 これは依織の勝手な想像なのだが、絵心は他者からの束縛も重い感情も好きではないと思う。
 だからこそ依織は、大袈裟な反応はしないように心がけていた。
 喜怒哀楽はちゃんと表に出すけれど、絵心へ向ける愛情に関しては「重い」とは思われたくないから。
 「好き」も「愛してる」も伝えるが、日常会話でさらりと口にする程度。あまり感情をのせてしまうと、自分の重たい気持ちに気づかれそうで嫌なのだ。
 そもそも二十代も半ばを過ぎてから、男からのプロポーズまがいの言葉を受け取る人間の気持ちが軽いわけがない……のだが、そのあたりは恋愛偏差値がほとんどゼロに近い絵心なので気づくことはないだろう。
(まあ甚くんもちゃんと俺のこと愛してくれてはいるけど……)
 じゃなきゃ、初めての恋人という立場も初めてのそういった行為も、男である依織に差し出すわけがないのだから。
 いつも淡々とした様子で、性欲なんて知らないような白けた顔をしているくせに、今では「元」がついてしまうがさすがサッカー選手だ。依織との体力の差なんて一目瞭然で、いつだって依織が「もう終わりにして」と泣き出してからが本番のようなもの。
 ――依織
 耳の奥で、掠れた絵心の声を思い出し、依織は顔を真っ赤にさせて立ち上がった。
「ひ、一人でうじうじしてるから余計なこと考えちゃうんだ! ご飯作ろう!」
 一応、と絵心には、
 ――いつごろ帰って来れそう?
 ――心配だから暇があったら連絡してね
 と、とりあえず心配してるよって気持ちが、多少なりとも伝わるように簡潔に文字を打った。
「甚くん帰ってくるか分かんないし、とりあえず二人分作って……」
 もし今日も帰ってこなかったら明日のご飯に回そう。
 そう思って、依織は夕飯の支度に取り掛かった。

 
 食事の支度を終え、少し時間が早かったので風呂掃除と湯張りの予約も済ませた。
 作業中はテレビなんてつけないので、落ち着いてふとした瞬間、シンとしたリビングの空気に気づく。
 当時新築だったこの五階建てのさほど大きくもないマンションは、絵心が一人で見つけてきて部屋の契約まで済ませていたものだ。
 依織に断られていたらどうするつもりだったのかは分からない。
 けれどあの日は、珍しく格式張ったホテルのレストランに呼ばれたし、緊張という言葉を知らない絵心が、どこかそわついていたので、不安な気持ちはゼロではなかったはずだ。
 鍵を受け取った依織は当時住んでいた部屋を引き払い、そう経たずにマンションを訪れた。
 都内にあるにしては規模の小さいマンションだったが、高層建築物が好きじゃない彼らしいな、とは思った。
 依織が部屋を取り払うまでの間に、すでに絵心はマンションのほうに移住していて、
(家具やら家電は俺が行ってからかな……)
 と思っていたのに、ほとんど揃っていたから驚いたものだ。
 人間らしい暮らしをしている様が思い浮かばない絵心だったが、依織が料理が好きだと言ったことや木目調のアンティークが好きと言ったことを覚えていたらしく、家電は最新のものが一通り揃っていたし、リビングの内装はアンティークな落ち着いたものになっていた。
 さすがに自室に関しては自分で好きにしろと言われたのだが、部屋に入ってそのリビングに出迎えられたものだから、感激して飛びついたのを覚えている。
 ほっそりしつつも体幹がしっかりしている絵心は、自分よりも小さい依織に抱きつかれたところで体勢を崩すことはなかったけれど。
 しかも、それぞれ自室はあるものの、寝室は一緒だというのだから驚愕を通り越して心配になったものだ。
 部屋を探検中、扉を開けた途端にキングサイズのベッドが目に入った衝撃たるや――。
「えッ!? 寝室一緒なの!?」
 探検する依織の後ろを着いてきていた絵心に訊けば、不可解そうな顔で「当たり前だろう?」と言われた気持ちを考えて欲しい。
 ときめきで心臓が死ぬかと思ってしまった。
「あのあと、ちょっと不安そうに嫌なの? って訊いてくるから可愛かったな〜」
 テレビを適当に付けてソファに座る。
 画面の向こうでは、見たことのある芸能人たちがおかしく笑っていて、部屋の中は一気に騒々しくなった。
 それなのに、さっきと同じように静かだなって感じてしまう。
 絵心は部屋数が多くない方がいいと言っていたが、3LDKのこのマンションは、一人で生活するには広すぎるし、淋しい。
「甚くん……」
 ぽつりと膝を抱えて呼んでみる。返事のない名前を呼ぶのは、思ったより心が切なくなる。
 こんなんじゃだめだな、と思って、早いけどご飯にしようと立ち上がろうとしたとき――。
「なに?」
「え、甚くん……」
 疲れた様子の絵心が、リビングの扉から入ってきた。
「い、いつ帰ってきたの?」
「今さっき。それより連絡くれたでしょう? 返事できなくてごめん。見たの空港でたところで、帰った方が早いと思ったから」
「ううん。大丈夫だけど……空港? 海外に行ってたの?」
 重たそうなトランクケースを置いて言うものだから、依織は戸惑って訊ねる。すると、絵心はサラサラと髪を揺らすように首を振って否定した。
「いや。国内を飛び回ってた……高校生たちの試合を見に」
「試合……」
 そういえば、そろそろサッカーの全国大会か。
 ということは予選はもう始まってる? それを見に行ってたのかな?
 やっぱりサッカー見に行ってたんだね。と安心した気持ちで、依織は絵心の下瞼に出来た隈を撫でた。
「睡眠、またとってないの? 隈ひどくなってる」
「まあ時間がなかったからね。移動時間が睡眠って感じだったし」
「……そっか。じゃあ今日は早めに寝よ。あ、ご飯出来てるから!」
 声を上げてキッチンに向かおうとしたところで、絵心に手を掴まれた。
「依織」
「どうしたの? 甚くん」
 きょとりと瞬いた依織の視線に、絵心はどこか言いづらそうに目をきょろきょろさせてからその黒い瞳を寄越す。
「頼みがあるんだけど、」



「高校生を集めて、ストライカーを育成する?」
 ダイニングテーブルに向かい合って腰掛けた絵心に、依織は呆けた声で訊き返した。
「そう。俺の独断と偏見で才能のある高校生を招集し、その中から日本をW杯優勝に導くストライカーを誕生させる」
「その招集する高校生の選定のために、日本中飛び回ってたの?」
 うん、と頷く絵心に対し、依織はつい笑ってしまった。
 クスクスと喉を揺らす依織に、絵心はちょっと怪訝そうに首を傾げる。
「無理だと思う?」
「違う違う。甚くんはいつも通りだなって思っただけ。サッカーのためならどんなこともするんだもん」
 プライベートだったら、都外に出ることすら億劫だろうに。
 そう言った依織に、絵心は不服そうだ。
「べつに、依織が行きたいなら旅行ぐらい行くけど」
 なんて、ぼやいている。
「そのブルーロックプロジェクトで俺にお願いって? 俺、知ってると思うけどサッカーのことはからっきしだよ?」
「それは十分知ってるからいい」
 即答されると事実だけど、ちょっとショックだ。
「この企画は上の連中は乗り気じゃないし、煙たがられている。諸々の予算のほとんどは設備につぎ込んでいるから人件費まで手が回らない」
 それで――と、絵心は一度言葉を切った。
 彼の黒い瞳が、そろりと依織を向く。気圧されるような雰囲気のある瞳が、依織は自分の前でだけどこか緩むのが好きだ。しかし、今はその黒に戸惑い……というか、不安が浮かんでいる。
「あー……それでだ。お前に、手伝って欲しい」
「俺に?」
 想定外の言葉に自分を指さして訊ねると、絵心はこくりと頷いた。
「サッカーを教えろっていうんじゃない。俺自身は総指揮として高校生たちとは距離を保つつもりだ。フットボール連合とはアンリちゃんが橋渡しをしてくれるが、現場で実際に高校生の声を聞くヤツがいない」
 それをお前に頼みたい、と絵心は静かに言った。
「主に備品やらの補充などと施設管理をしながら、高校生たちの様子に目を配って欲しい。特別なことはしなくていい。高校生から要望などなにか言われたときだけ、俺やアンリちゃんへ橋渡しをしてくれればいい」
 あと住み込みなる、と結構重要なことを最後につけ加え、絵心はだんまりと口を噤んだ。
 開示できる情報は開示したので、あとは依織の返答待ち……ということだろう。
(住み込みで……高校生たちの面倒を……)
 となると、仕事は一旦ストップしないといけなくなる。
 フリーランスの在宅仕事なので、そのあたりの融通はききやすい。ちょうど頼まれていた案件はこなしたところだし、新しく依頼の連絡は来ていたが、それは返答前だからお断りすれば時間は取れる。
 けれど、一番心配なのは――。
「サッカーのことを知らない俺がいて、高校生たちの邪魔にはならないかな?」
 もしそれで不快な思いをさせたりしたらどうしよう。それに、サッカーのことも知らないのにどうしてここに? と信用問題に関わり、困ったことがあっても声に出してくれないかも知れない。
 そうなると、高校生本人はもちろん、絵心にだって迷惑がかかる。
 それが一番怖い。
 しかし、そんな依織の心配を訊いた絵心は、まるで呆れたように息を吐いた。
 ムッとして「甚くん?」と答えを促せば、絵心は眼鏡の奥でひたと依織を見つめる。
「なにも知らないヤツのほうが、かえってそいつを救うこともある」
 ずいぶんと実感のこもった言い方だ。
「そういうもの?」
「そういうものだ」
 やけにきっぱりと断言された。
 しかし、絵心がそう言うなら大丈夫か、と依織は不安を払拭し、
「それなら……うん、俺でいいならお手伝いさせて」
 と笑った。
「そう。一応少ないけど給料はちゃんと出るから」
 なんてことないように言っているけれど、絵心の肩から力が抜けた。
 それをみた依織は、緊張してたんだな……とたまらなくなって口が緩むのを耐えた。
「もし資料があったら見せて欲しいな。見せられるところまででいいから」
 とりあえずご飯にしよ、と提案すれば絵心も了承する。
 話しているうちにすっかり日が暮れてしまった。
 温め直さなきゃな、と対面キッチンに駆け込んだところで、「あっ」と依織は思い出す。
「そういえば、アンリちゃんて誰?」
 話の流れから察するにこの企画の立案者のようだが、その人に関して詳しく聞いていなかった。挨拶しなきゃだよね、と思っての疑問だったのだが、絵心はどうやら違う意味で取ったらしい。
 眼鏡を押し上げた姿勢のままぴたりと硬直したと思えば、こちらを見て「違うからね」と早口で言う。
 意味の分からなかった依織が首を捻ると、絵心はそのすらりとした体で立ち上がり、キッチンのカウンター越しに詰め寄るように近づいてきた。
「勘違いしないで欲しいけど、アンリちゃんは職場の同僚みたいなものでそういったことは一切ないから。分かった?」
「う、うん。分かってるけど……」
「そもそも今さらお前以外の誰かなんて見るはずないし、俺が一瞬でも目を逸らした瞬間にかっ攫われるかも知れないのに余所を見るはずないだろ」
 ぶつぶつと早口で言う絵心は、妙な気迫がある。目の下に隈があるからなおさらに……。
 一緒にお仕事するから知りたかっただけなのにな、と思いつつ、ちょっとだけ――本当にちょっとだけ「アンリちゃん」て聞いたときは気になったのも事実なので、こうして必死に弁明している姿をみると、じわじわと嬉しさがこみ上げてきてしまう。
 まだ口の止まらない絵心を見上げ、身を乗り出すようにして依織は彼の口の端っこに軽くキスをした。
「そういえば、おかえりって言ってなかったね」
 ――おかえり、甚くん。
 途端に口を噤んだ絵心に微笑むと、これまた大きなため息を吐いて絵心が振り絞るように「ただいま」と呟く。
「誤解なんてしてないから大丈夫だよ」
 ご飯温めたらそっち持って行くね、とダイニングテーブルへと促す。すると、絵心はどうしてかぐるりと回ってキッチンの中に入ってきた。
「甚くん?」
 猫背な背中がさらに丸くなって、彼のさらりとした黒髪が依織の額をかする。そっと唇が熱に覆われて、眼鏡の金具が一部、ひんやりと皮膚に当たった。
「するなら、ちゃんとして」
 あと皿ぐらいは出すし。と、長身がくるりと回って食器棚を開ける。その背中を見ながら、依織は熱くなった頬を隠すために手を当てながら「じゃあお願いします……」と小さく言ったのだ。