夜のひととき


 入寮テストのオニごっこを終え、潔はチームメイトたちと「体力テスト」に励んでいた。
 詳しい説明もなく、ただテストとだけ伝えられてランニングやジャンピングなど様々な種目を測定する。
 その中で、潔は自身の体力のなさにげんなりとしていた。
「おえ……死ぬ……」
 隣ではランニングを終えた五十嵐が、四つん這いになって吐き気に耐えていた。
 潔も五十嵐ほどではないが、膝に手を置いて体を丸め、荒い息をなんとか整える。
「五十嵐くん、大丈夫?」
 ふいに、柔和な声が隣で囁いた。
 姿勢をそのままにちらりと横をみる。
 そこには潔たちが纏うボディスーツではなく、白いシャツに黒いパンツというシンプルな出で立ちの男性が一人、五十嵐に寄り添って背中をさすっている。
 肩口で切り揃えられた黒髪を耳かける細身の男は、このブルーロックの施設スタッフをしている依織だ。
 集められた選手たち以外に、潔たちが出会うのはこの依織ぐらいなもの。
 ここの責任者である絵心とは、初対面時以外はすべてモニター越しでの会話だ。
 そのため、直接潔たちが接する大人は、依織のみ。
 名前の通り監獄のような閉鎖的なこの空間で、大人が彼だけだからか、依織の傍は安心できる場所でもあった。
「吐いちゃって大丈夫だからね。お水で口すすぐ?」
「うえ〜……すみません、依織さん」
「ゆっくりで大丈夫だよ」
 隣の会話に耳を澄ませ、潔は整い始めた息とともに一度腰を下ろした。
 依織は、まだ五十嵐の背中を擦ってその顔色を窺っている。
「潔くん」
「あ、はい!」
 急に声が飛んできたから驚いて上擦った。見ると、依織が五十嵐の介護をしつつ潔の様子を気にかけていた。
「水分とった? お水足りてる?」
「大丈夫です! まだあるんで」
 焦って応えると、彼はほっとしたように目尻を落として微笑む。
「そっか。よかった……なにかあったらすぐ声をかけてね?」
「はい! ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げれば、依織は恐縮したように笑いながら手を振った。
「大したことじゃないから……みんなも水分なくなったらすぐ教えてね!」
 声を張っても、依織の声音はどこまでも柔らかく空間に木霊する。チームZの面々が揃って頷くと、満足げに微笑み、また五十嵐に声をかけていた。
 しばらくして五十嵐の様子が落ち着くと、依織は選手一人一人に声をかけてトレーニングルームを出て行く。
 その時も、誰も見ていないのにぺこりと頭を下げてから出て行くので、たまたま見かけた潔は、丁寧な人だな……とまた好感を重ねたのだ。
「まじこの地獄で唯一の女神……」
「……まあ、たしかに依織さんがいると安らぐよな」
 大の字で横になる五十嵐の言葉に、潔も小さく同意を示す。
 依織は一人でこのブルーロック内の施設管理を担っているから、一カ所にとどまることはそうそうない。しかし、彼は隙を見ては顔を出し、困ったことはないか潔たち選手を気にかけてくれている。
 その姿は、スタッフとしてサポートする、というよりは子どもの面倒を見る母親のようだった。
 中性的で穏やかな人柄がそう見せるのかも知れない。
 彼は、潔たちをまるで小さい子どもを見るような目で見つめてくる。すると、背筋がそわそわして、むずがゆい気分になるのだ。
 嫌ではないけれど、実の親にだってあんな繊細な手つきで撫でられたことはないから、どうしたって恥ずかしいような嬉しいような複雑な気分を抱くのだった。


(寝られねえ……)
 とっぷりと日が暮れた夜半、潔は全く眠気の感じない頭に辟易して布団を抜け出した。
 廊下に出て、不安に急き立てられるように駆け出したところ、曲がり角で人影にぶつかった。
「わっ!」
「あ、すみません!」
 足元に紙の束が落ちる。慌てて拾い、向かいで同じように書類をかき集める細い腕を辿って、潔はぽかんとしてしまった。
「依織さん……」
「あ、潔くん」
 どうしたの、こんな時間に?
 柔和な笑みとともに依織が首を傾げる。弱気なことをいうのも幻滅されるかと思って黙ったが、見守るような視線の温かさについ口が緩んでしまった。
「あの……」
「うん」
 先を促すように、しかし急かすこともない相槌は、心を委ねるには十分だった。
「おれ、不安で寝られなくて」
「不安で?」
「はい……」
 ああ、やっぱり怒られるかな。
 俯きながら、言わなきゃ良かったかなと後悔した。
 世界一のストライカーを生み出すための施設で、不安で眠れないなんて弱気を言っていていいわけがない。
 撤回しようかと言葉を重ねる前に、依織に手を取られた。
「ここじゃ寒いし、食堂の方に行こう? あそこなら座って話せるから」
「あ、はい」
 なにも考えずに頷いてしまった。
 そのまま静かな廊下を手を引かれて歩き、辿り着いた食堂で依織は手前の机に潔を誘導する。
 ここまで来て逃げる気にもならず、潔は促されるまま依織と向かいあうように腰掛けた。
 依織は持っていた書類を離れた所に置く。それが、まるで自分の話を優先してくれているようで、潔の胸がじんわり温まる。
「昨日は眠れた?」
「え、ああはい。ちょっとだけ……」
「そっか。眠れないと辛いでしょう?」
「はい。俺、ただでさえ体力ないのにさらにしんどくなって……」
 それで不安になって、また眠れなくなる。悪循環だ。
「他はみんなすごいヤツばっかで、劣ってるって自覚してるんです。練習してないと落ち着かなくて、不安でじっとしていられない」
「だから眠れなくなっちゃう?」
「……はい」
 そっか。と、依織の声はどこまでも穏やかで、微塵も声音は変わらなかった。
 こんな話をしてどんな顔をされるか怖かったから、顔は見られなかった。
 俯いたまま真っ白なテーブルを見つめる潔の視界に、白い手が入り込む。
 驚く前に、その手――依織の手は潔の両頬を包んで顎をあげた。
 身を乗り出した依織が、潔をじっと見つめている。
「下を向いてると、気分も落ち込んじゃうからせめて上を向こう?」
「へ?」
「出来れば空を見るのがおすすめなんだけど、ここじゃ見えないから……」
 だからせめて、誰かの笑顔でも見たら気がほぐれない?
 心痛を滲ませつつ、依織が安心させるように笑みを作った。頬を包んでいた手のひらが、するりと輪郭を撫でて落ちていった。
 最後に、机の上の潔の手に置かれて、ぽんぽんと一定のリズムで指が触れる。
「俺の知り合いは、下を向いてるよりはたしかにマシだなって言ってくれたんだけど……」
 さっきまでの大人っぽい表情から一転、ちょっぴり不安を覗かせて眉を落とす依織。
 そんな彼の様子に、潔の凝り固まっていた心が少しずつほぐれていく。
(別に不安だって顔してもいいんだな……)
 大人のこの人がこんなに素直に感情を表しているから、なんだか虚勢を張っているのもみっともなく思えた。
 触れてくる指先を、きゅっと握りこむ。
 依織はそれに驚くでもなく、ただ受け入れて潔の好きなようにさせている。
「みんなすごいヤツばっかだから、やってけるのか不安なんです」
「うん」
「でも、依織さんの顔見てたらなんか落ち着きました」
「ほんと?」
 俺に気つかってない? なんて、意地悪そうな顔で訊き返されて、吹き出すように笑って「つかってませんよ!」と答えた。
「すごいヤツって言うけど、潔くんだってそのすごいヤツの一人なんだよ?」
「え?」
「ここでの順位はたしかに下の方かも知れないけど、さらにその下には、ここに呼ばれることもなかった数え切れないぐらいの選手たちがいるんだから」
 あ、と息を呑む。
 きっと依織も潔が気づいたことを察した。淡く笑んで、そっと目を伏せる。
「甚く……あー、絵心さんは人を見る目はたしかなんだ。サッカー限定だけどね。妥協も忖度もしない人間なの。だから、彼のお眼鏡に適っただけでも、きみは誇ってもいいと思うな」
 よく言ってるでしょ? 才能の原石たちって。
 その時の依織の笑みは、大人が子どもを見るような今までのものじゃなくて、遠くのなにかを恋しく思うようなそんな艶っぽさを感じて、ドキリと潔の鼓動が跳ねた。
「ここに集められた全員が、世界一のストライカーになる可能性を秘めてるんだよ。だから、不安になんてならないで」
 さっきの色めいた気配は一瞬で霧散してしまって、潔の見間違いかと思うほどだった。
 目の前には変わらず幼子を見るような依織がいて、朗らかな慈愛の笑みを浮かべている。
 耳の奥に返ってくる彼の言葉が、少しずつ潔の中に染み入る。
 浮かんだのは、悔しげに唇を噛んで退室した吉良のこと。ここには誰も呼ばれていない高校のチームメイト――今までに試合をしたことがある相手チームの面々。
 知り合いなんてここにはいない。そんな中、ここに呼ばれた自分。
 じわじわと湧き上がる昂ぶりに、潔の瞳が光を取り戻す。
 それを見た依織は、潔を安心させるための笑みではなく、本心からの安堵の息をついた。
(よかった……さっきまで青白い顔してたから……)
 多少の不安は己を昂ぶらせる材料にはなるが、行きすぎると足を止める原因になる。
(もう少し気を付けてれば良かったな……)
 昼間はみんなの様子を見て体調には気遣っていたつもりだったけれど、精神面ではそうもいかない。とくに、潔のようにみんなが寝静まった夜に不安に襲われることもあるだろう。
 今度から、夜の見回りの時間を増やそうかな。
 依織は、潔の青い瞳に戻った闘志を見つめながらそう思った。
「やる気があるのはいいけど、今日はもう寝てね。明日もっとしんどくなっちゃうから」
 今にも走り出して練習に行きそうな様子の潔を、微苦笑して頭を撫でながら引き留める。
 気恥ずかしそうに頬をかく少年の表情に、もう不安は見えなかった。
(さっきよりも顔色はいい……今日は大丈夫かな)
 眠るように促し、立ち上がった潔にそっと手を差し出す。不思議そうに目を瞬かせた潔の手に、ころりと飴玉を一つ握らせた。
「他の子には内緒ね? このミルク味好きなんだ。もしまた不安になったり落ち着かなかったら舐めてみて」
 人差し指を立てて口元に置く。笑って言うと、潔はほんのり血色の良くなった顔でこくこくと頷いた。
「さ、もう遅いから寝よ。明日もトレーニングあるしね」
 とん、と潔の背中を叩いて促す。廊下に出たところで別れようとしたのだが、咄嗟に潔に腕を掴まれて引き留められた。
「あの、依織さん」
「ん?」
「また、話聞いてもらってもいいですか?」
 小さい子どもが親の裾を引くような、そんな微かな力で握られた手に、つい甘やかしたくなってしまう。
(でも、あんまり甘やかすと甚くんに怒られちゃうよね……)
 ここは、ストライカーを育てるための施設。そのために親元を離れてみんな生活している。
 でも、この子たちはまだ十代も半ばの高校生だ。話を聞くぐらいは許されるだろうと、依織は潔の手を握り返し、安心させるようにその甲を撫でた。
「いつでも聞くよ。なんにもなくたって話しかけてくれていいからね」
 きみたちのために、俺はここにいるんだから。
 そう告げて微笑むと、潔の強ばった表情もほっと緩む。
「さ、未来のストライカー。今日はもうおやすみの時間」
 潔の背中に手を添え、部屋の方へと体を向ける。
 絵心を宥める時はお休みのキスをするけれど、さすがに高校生相手にそれをしたら依織が捕まってしまう。
 頭を撫でるだけにとどめ、笑みで帰路へと促した。
「おやすみなさい、依織さん」
「おやすみ、潔くん」
 手を振っていざ別れようとしたところ、ふいに潔の影から誰かが顔を出した。
「あー! 潔ってば依織さん独り占めしてたんだ!」
 しかも、頭撫でてもらってたー!
 と、賑やかな声とともに蜂楽が現れた。
「蜂楽!? なんでここに!?」
「にゃはは、だって潔がいないからさ。どこ行ったんだろうと思って探しに来たの」
 そしたら依織さんといるんだもん、ずるい。
 あどけない顔で拗ねた表情を作った蜂楽に、とたんに空気が明るくなる。
 依織も潔も、一瞬で華やいだ夜の空気につい笑ってしまった。
 くすくすと笑う二人に、蜂楽はきょりとその丸い瞳をしばたたく。
「なんで笑ってるの? あ、それより依織さん、俺もおやすみするから撫でて〜」
 はい、とつむじを向けてくる蜂楽が可愛らしくて、依織は喉を震わせながらその柔らかな髪に指をさしこんだ。
「おやすみ、蜂楽くん」
「へへ、いい夢みれそ」
 ちょっぴり照れくさそうな笑みで、機嫌よく蜂楽が身を翻す。
「いーさぎ、早く戻って寝よ!」
「あ、おう! 依織さん、ありがとうございました」
 振り返りつつ、潔が頭を下げる。その向こうで、蜂楽が大きく手を振っていた。
「おやすみ〜」
 手を振り返しながら、曲がり角に消えていった二人を見送る。そうして依織はほっと息をついた。
(眠れるといいな……)
 気の合う仲間もいるから大丈夫かな。
 最後にもう一度、無人の廊下を振り返ってその先にいる選手たちを思う。
(頑張れ……)
 依織には、応援することしか出来ないから。
 内心で選手たちにエールを送り、依織も絵心の待つ部屋へと戻って行った。


 

(あれ、甚くんまだ起きてたんだ)
(先に寝るわけないでしょ。それより遅かったね)
(あ、うん。今日はちょっと時間かかっちゃって……)
(ふーん。子どもに甘いのはいいけど、ほどほどにね)
(あ! 知ってたなら最初から言ってくれればいいのに)

 意地悪だな〜、と暢気に笑う依織に、学生の頃の姿が重なった。
 ――そんな下向いてばっかだと余計じめじめしない?
 汗だくでグラウンドに座り込んだ影に、一人の青年が言う。
 ――ほら、空見てよ。すっごく綺麗な夕日!
 夕暮れに染まった柔らかな笑みを、絵心は昨日のことのように覚えていた。
 きっと、生涯忘れることはないと思う。

 生まれて初めて、人を美しいと思った日のこと。