大人たちの晩酌会議
選手たちが夕飯を終え、モニタールームに入ってミーティングを始めるころ。依織は施設内の点検や見回りを終え、絵心のいる管理棟に戻ってきた。
ここには定期的にフットボール連合の職員を招くための会議室や、備品倉庫、その他諸々の必要なスペースが揃ってはいるが、出入りする業者を除けば、ここに常駐しているのは絵心、アンリ、依織の三人だけだ。
アンリは他にも仕事があるため外に出ることも多く、正確には絵心と依織の二人だけである。
選手たちの棟と同じように、ここもコンクリートの無機質な壁が広がる殺風景なものだ。依織は慣れた足取りで一つの部屋に入った。
正面奥には壁一面に広がるいくつものモニターたち。それに向かって熱心に眼を向けている絵心の背中に、「ただいま」と声をかけると、首だけで振り返った彼は「おかえり」とひらりと手を振ってモニターに戻った。
ここは絵心の仕事部屋兼、ブルーロック内での住居である。もちろん依織も同じ部屋で生活している。
だだっ広い一部屋には、仕事のために必要な資料、選手たちの様子を見るためのモニター。それから小さなキッチンや洗濯機など必要なものがある程度揃っていた。
浴室と寝室だけが別室にあるため、ある程度のプライバシーは守られている。
エプロンを着けてキッチンに立つと、くぅ……とお腹が小さく鳴った。お腹に手を当てて壁の時計を見ると、すでに夜の九時だ。
選手たちが夕飯を終えてから最終的な備品チェックや見回りをしているので、この時間になってしまうのはしょうがない。
キッチンの様子を見るに絵心もまだ夕飯を取っていないようだ。昼食は一緒に取ったから、絵心も空腹を覚えているはず。
急いで冷蔵庫を開けて食事の準備に取り掛かる。
今日は一段と冷えるしなぁ……。
「甚くん、今日お鍋でいい?」
声を張って訊くと、
「いいよ。最近寒いからちょうどいいね」
と淡々とした声が返ってきた。同じことを思っていたことが嬉しくて、つい笑い声が漏れてしまった。
クスクスと楽しそうに笑う依織の声に気づいた絵心は、モニターを暗くすると、長い足を持て余すような歩き方で近づいてきた。
「……なに笑ってるの?」
刻んだ具材を鍋に並べていると、背後から腰に腕を回されて耳元で囁かれた。
家ではよくあることだが、ここに来てからこうして触れ合うのは初めてだ。珍しいなぁ、思いつつ久方ぶりの恋人の体温に心がぽかぽかと温まった。
「べつにー。同じこと思ってたんだな〜って嬉しくって」
上機嫌で言いながら、低い声で震えた耳朶のこそばゆさに肩を震わせた。
「仕事いいの?」
ちらりとモニターに眼をやって訊けば、「必要なことはもう済んでるから」とあっけらかんと言われた。
つまり、さっきまでモニターとにらめっこをしていたのは、自由時間だったというわけだ。
(本当にサッカー好きだな〜)
いつも通りの絵心の様子に微笑ましくなる。それに、絵心がサッカーと面と向かって関わっている姿を間近で見ることはなかったので、感激している部分もあった。
学生時代や現役時代は、試合中の彼を遠い観客席から見ることしか出来なかった。引退後は一緒に住んでいたって、絵心は家の中にまで仕事を持ち込まない。――本人曰く、家は休むためのものだから、とのことだ。
だからこそ今の状況は、慣れないこともあって大変だが、依織にとっては恋人の新しい姿が見えて新鮮で嬉しい。
綺麗に具材を並べ、火にかけた鍋を前に一息つく。
「よし。あとは全体に火が通ったら終わり」
「じゃあ取り皿とか茶碗用意するね」
すると、それまでぴったり後ろに貼り付いてうなじの辺りにすり寄っていた絵心が、棚から取りだした食器をいそいそと並べ始めた。
その後ろ姿を見ているうちに、ふと少し前にアンリから言われたことを思い出した。
――依織さんがいると絵心さんが自主的に動くので助かります!
あれは依織が以前の仕事のことで、数日ブルーロックの施設を離れなければならなかったときのことだ。
しっかり案件は終わらせてからこっちに来たものの、緊急で確認したいことがあると頼み込まれてしまったのだ。申し訳ないと頭を下げる依織に、絵心はもちろんアンリも気にするなと一時的にここを離れることを許してくれた。
仕事用のパソコンは自宅のマンションに置きっぱなしだったので、それを確認したらすぐ戻るつもりだった。けれど、結局確認とともに何個か修正が入り、ようやくブルーロックに帰れたのは三日後のことだった。
向かう道中で、お土産にとケーキを持ってブルーロックに戻った依織が目にしたのは、カップラーメンのゴミを片付けるアンリの姿だった。
「依織さーーん! 予定よりも早く帰ってきてくれたんですね!!」
しくしくと肩を落としていたアンリは、依織に気づくとパッと顔色を明るくした。
救いが来たとばかりにキラキラした半泣きの瞳で見上げられ、伊織は困惑しつつも「ただいま」と声をかけた。
「聞いてくださいよ! 私、絵心さんがこんなにだらしない人だなんて思いませんでした!!」
「甚くんがだらしない……?」
依織には馴染みのない言葉に、思わず耳を疑う。
「そうです! 依織さんの手伝いをしてるし、一人でも大丈夫だろうと思って外仕事に回ったらこの有様ですよ!?」
見てください! と、親にいいつける子供のように、アンリは背後の積み重ねられたカップラーメンのゴミや洗濯物を指さして主張した。
それに依織は驚いて目を丸くした。
「これ、甚くんが……?」
三日分のゴミと洗濯物がそのまま放置されて小さな山を作っている。
依織の知る限り、絵心はいい大人なので生活能力がない――ということはありえない。海外で一人で生活できるぐらいには家事能力もある。
在宅仕事で融通がきくからと、家での家事をメインでするのは依織だが、絵心が家にいる時は基本よっぽどのことがない限り手伝ってくれるものだ。
そのため、どうにも目の前の光景が信じがたかった。
当の本人は、と首を回したが、見当たらない。外に出てるのかなと思ったところで、扉が開き、急いだように絵心が姿を現した。
依織を見ると、ギクリとしたように固まって、「早かったね」と少し固い声をかけられた。片手にメッセージ画面を開いた携帯があった。最寄りの駅に着いたときに連絡を入れていたので、それを見てわざわざ来てくれたのかもしれない。
「思ったより作業が早く終わったの……それで、甚くん。これなんだけど……」
と、そろりと視線で振り向いて、アンリの嘆きの原因を問いかけると、絵心は一瞬ばつが悪そうにしたものの、すぐにけろりと開き直って椅子に座った。
「もともとサッカーのこと以外はしなくていいって契約だったから」
「それでも依織さんがいた時は、ちゃんと自分でやってたじゃないですか!?」
アンリの泣き言に、絵心はふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「アンリちゃん、恋人にだけ家事をさせるわけないでしょ」
依織がやってたら俺だって動くよ。
当たり前だとばかりに言われ、アンリはムムッと唇を引き結んだ。
勝ち誇った顔で見下ろす絵心と悔しそうに唇を噛むアンリを見比べ、仲がいいなぁと微笑ましく思いつつも、依織は微苦笑して二人の間に入った。
「甚くんの言うことも分かるけど、アンリちゃんは女の子なんだよ? そのあたりは気を遣わないと……甚くんのは俺がやってあげるし、俺もいい大人だから、自分のことは自分でやるよ」
アンリの顔を覗き、だから心配しないでね、と微笑むと、うるうるした瞳で腰に抱きつかれた。
「うわぁーーん依織さんだけが頼りです!!」
「ちょっとアンリちゃん。依織は俺の恋人なんだからそのへん気をつかってくれない?」
「デリカシーの欠けらも無い人に気を遣えるほど大人じゃありません!」
言い合いする二人を尻目に、昼食の準備にとりかかったのは、まだ記憶にも新しい。
思い出して、宥めるの大変だったな……と遠い目をする。そのとき、ふと「そうだった……」と食器を並べる絵心に付け加えた。
「甚くん、食器は三人分にしてもらっていい?」
その言葉で察したのか、苦い顔で絵心は訊いた。
「もしかして今日はアンリちゃん来るの?」
「一段落したから、久しぶりに選手のデータを見に来るって……どうしたの、変な顔して」
「べつに一緒に夕飯食べるのはいいけどさ、」
言いかけたところでちょうどよく扉が開き、仕事終わりだからか上機嫌なアンリがニコニコ顔でやって来た。
「お久しぶりです! お二人とも!」
もしかして今日はお鍋ですか!? と、きらりと輝いた眼に、絵心と依織はこくりと頷いた。
「……一緒に食べるのはいいけどさ、高確率でこうなるよね」
食事を終えたテーブルに頬杖をつき、絵心はぽつりと呟いた。
丸テーブルを囲う依織には、その言葉は届かなかったようで、一度訊き返すように顔を上げたが、すぐに俯いてしまう。
その視線を追うように絵心も目線を落とし、はあと苦いため息をはいた。
「うぅ〜依織さん聞いて下さい! あの狸オヤジたちと来たら、またネチネチと嫌味を言ってきて〜!」
顔を真っ赤にさせて喚くアンリを、依織が背中を撫でてあやす。
「アンリちゃんがいつも、フットボール連合の人との矢面に立ってくれてるから俺や甚くんがのびのびお仕事できてるよ」
ありがとう、と囁く声は、どこまでも温かみを感じる優しい音だ。
「ごめんね。どうしても上の人との連絡はアンリちゃんを通してもらうしかなくて……」
あくまで絵心も依織も、フットボール連合に雇われたスタッフでしかない。
「いいんです。私もサッカー好きだから……好きでこの仕事してるんです」
「でも、アンリちゃんの体だって大事だよ。だから無理しないで、休みたいときはいつでも声かけてね」
ゆったりと微笑んで言う姿は、まるで母親のようだ。
依織の面倒見の良さはなにも今に始まったことではない。連合の面倒な親父たちの相手をしてくれているアンリに、感謝している気持ちもある。
だから今さらアンリが泣きついてぼやいたって、それを依織が慰めていたって気にならない。――いや、かすかなもやつきを感じはするが、なにも口を出すほどでも、怒るようなことでもない。
ただ慰めているだけだったなら、の話だ。
「……アンリちゃん。いつも言うけど、きみ缶ビール飲むのやめなよ」
「どうしてですか! 仕事終わりに依織さんのご飯で一杯やるのが今の私の至福の時間なんです!」
ひどい人です! 今は勤務時間外なのに! と、わっと泣き出してアンリは依織の膝に顔を伏せた。――そう、彼女は酔うと依織に抱きつき、そのままずるずると膝枕で寝に入るのだ。
前々から、あまり男を感じさせない依織に対して距離が近いと思ってはいた。子どもが母親にするように腕を組んで歩いたり、愚痴を言うときに抱きついて慰められたり……。それもこれも、子どもが甘える仕草に見えるから、ときどき苦言を呈するほどで傍観していたのだが――。
(膝枕はダメだろ……俺だってほとんどしてもらったことないけど?)
なにが楽しくて、自分の恋人の膝が第三者に独占されている様を眺めなくてはならいのか。
絵心は手元の冷めたお茶をごくりと一気に飲み、ビシッとアンリを指さした。
「べつにきみが勤務時間外に一杯やろうが好きにすればいいけど、毎度のように俺の依織の膝で甘えられちゃ困るよ」
きびきびと叱る絵心の言葉の端々には妬心が混じっていた。それに気づいた依織の頬が、恥ずかしさと嬉しさでさっと赤くなった。
そんな恋人の横顔に刹那、癒やされたものの、その膝の上にくっつくお邪魔虫が余計憎たらしく見える。
「そもそもいつも言ってるけど、依織は俺の恋人なの。その膝も、きみを撫でてる手も全部俺の」
「甚くん……!? 急にどうしたの? もしかして酔ってる!?」
真っ赤になって眼を見開いた依織が、眼を白黒させて訊いてきたので、真面目な顔で「呑んでないよ」と告げた。
「べつに急にじゃないよ。前々から思ってたことだし。さすがにそろそろ看過できなくなってきたから言っただけ」
――そもそも酔って男に抱きつく癖は止めさせたほうがいいでしょ?
首を傾げて正論を言えば、依織も前から気にかかってはいたのか口ごもった。
(まあアンリちゃんは酔ったって俺や他の男に抱きついたりしないけど)
あくまで依織限定だと知ってはいるが、それを言うと依織は甘いので外でちゃんと出来るなら……なんて、それこそ親のようなことを言い出しかねない。
そう思って事実をわずかに曲解して伝えたわけだが、それも当の本人によって大声で訂正が入った。
「大丈夫です! 私が酔って甘える男性は依織さんぐらいなので!」
「酔った状態で正常な判断なんて出来るわけないでしょ。今の発言だって信憑性ないし」
しれっと今のアンリの発言に正当性がないと依織に伝えたわけだが、それはアンリの耳にも当然のごとく入るわけで、心外だとばかりに顔が歪められた。
「本当ですもん! 依織さんは私にとって第二の母なんです! ここでのオアシスです! だからいいんです!」
「全く根拠も論理もない。ほらアンリちゃんが酔ってるって分かったでしょ」
早く離れて、と手招きしてこちらに誘い出そうとしたが、膝上のお邪魔虫は相も変わらず依織の腰から手を離さない。ひくりと眉を波立たせて「アンリちゃん」と少し低い声で呼べば、わっとまるで子どもみたいに泣き真似をし始めた。
そんなアンリを放っておけるはずもなく、依織は戸惑いがちによしよしと頭を撫でてしまう。
「うぅ……依織さん実家の母より優しい。もう依織さんちの子になります」
「きみ自分がいくつだか分かってないの? 成人してる社会人だよ? そんな図体のデカい子はいらないんだけど」
「べつに絵心さんちの子になるとは言ってないですもん!」
「依織んちってことは俺んちってことでしょ。きみこそなに言ってるの」
やいやいと言い合いをする二人を、おろおろしながら依織が見比べた。ときおり絵心の発言に頬を赤めるので、その反応が見たくてわざとパートナー発言をしたり、自分のものだと主張して見せたりもした。
そのうち限界だったのか、アンリが寝息をうとうとと眼を微睡ませた。
結局依織の膝上ですやすやと寝始めたので、絵心は腰を曲げて見下ろし、自分の細い指先でツンと彼女の額を小突いた。
「甚くん……! アンリちゃん起きちゃうよ」
器用に小声で叱る依織が見上げてきた。その不意をつくように恋人の顎に手を添え、そのまま唇を塞ぐ。
驚いて身を引きそうになった体を、絵心は後頭部に手を回して止めた。
アンリがいるからと、息苦しさに細くなった瞳が訴えてくる。けれど、絵心としてもここに来てからの長い禁欲生活でそれなりに溜まるものがある。しかもそんな自分を前に、恋人は他の人間を甘やかしてばかり。溜まったいた鬱憤を晴らすように、歯を立てるように柔らかな唇に食いついた。
顔を逸らされないように顎を支えて後頭部を固定しつつ、引き結ばれた口をぺろりと舌先で舐める。
弱い力で胸板を押しやられたが、さすがに元とはいえサッカー選手である。そんな力でふらつくほどやわじゃない。
軽いスキンシップのつもりだった。さすがにこんなところで、しかもアンリがいるのに恋人を襲うほどモラルのない人間ではない。
(ここまで頑なに口を閉ざされるとちょっと面白くない)
固く閉じた瞳のせいか、長い睫毛が震えていた。体も強ばっていて、明らかに緊張している。触れあいの最中で自分以外に意識を向けられているのが気に食わない。
舌先を滑り込ませようとしたが、顎を捉えられながらも小さく顔を振って依織が拒んだ。半ば意地になった絵心は、自身の指を一本依織の小さな口に押し込み、その隙間から舌を押しこんだ。
「……んっ!?」
さすがにそこまでするとは思っていなかったのか、依織が潤んだ瞳を驚愕で見開く。
(心配しなくてもおっぱじめたりしないよ……)
歯列に沿って指を置けば、彼は絵心の指を噛むことも出来ず口を開けているしかない。
「ん、ぅん……あっ」
逃げる舌を追い込み、唾液を擦り付けるように絡めると、懸命に声を抑えた依織からも微かな鼻を抜けた声が漏れ出た。
さすがにこれ以上はまずいかな、と最後に上顎をつっと舌で撫でて離れれば、依織は熱くなった呼気を吐き出して必死に息をしていた。
「はっ、はあ……甚くんっ!」
きっとにらみ上げられるが、涙のにじんだ眼では怖くはない。劣情を刺激されるだが、これ以上したら本当にまずい。しばらく口を聞いてくれなくなったら困る。
「アンリちゃんはぐっすりだから大丈夫だよ。それにお前に他人がベタベタしてて許容できるほど優しい人間じゃないんだよ、俺」
慰めるように、それでいて自分が許しを請うような切実さで、依織の目許に浮かんだ涙にキスをした。
拗ねたような色を出せば、彼は簡単に弱った顔をして、「ごめんね……」と言った。
「いいよ。家に帰ったら存分に相手してもらうから」
「それは……!」
とっさに反論しようとしたが、アンリに構い過ぎていた罪悪感もあるのか、やがて依織はこくりと赤くした顔で頷いた。
(いつも依織の体に気遣って適当なところで切り上げちゃうけど……)
今回は無防備すぎる恋人への戒めでもあるので、多少羽目を外してもいいだろう。
まあしばらく先のことにはなるが、今すぐとなると多少どころか完全に箍が外れそうなのでいい案配だろう。
四六時中サッカーのことを考えられ、選手の育成に力を入れ、その先には恋人との約束事。
随分と充実した人生だと、絵心はため息をついた。
とりあえず今は、この健やかな寝息を立てるお邪魔虫をさっさと恋人から引き剥がすことだ。
「俺はこの子布団に放りこんでくるから。グラスだけ片付けといてくれる?」
と、絵心はいささか雑な手つきでアンリを持ち上げて近くのベッドルームまで運び込んだ。
翌日、絵心との久しぶりの接触のせいか、ときどきぼんやりして頬を染めた恋人の姿と、その雰囲気にどこかドギマギする学生たちの姿をモニター越しに見て、
「しくったな……」
と、舌を打つことになった。