前向きさならお任せ

 タオルをかけてトレーニングルームから出てきた千切に、依織はあれ? と首を傾げた。
「千切くん。もう練習終わった?」
 ボトルの回収に来ただけだったが、練習が終わったのならユニフォームも一緒に持って行ってしまおう。そう思ったが、千切は手に取ったボトルに口をつけながら「ん」と背後――室内を指で示した。
 ひょこりと顔を出すと、室内に広がるフィールドの外周を走り込むチームZの面々が見えた。
 潔を先頭に、楽しそうに声を上げて走っている姿に微笑ましくなる。
「まだ練習中か……なら、ボトルだけ交換しておこうかな」
 と、そこで一人輪から外れて外に出るところだった千切を振り返った。
「千切くんはいいの?」
「明日も試合だし、これ以上は各自でって話だったから……」
 ただ、と千切はどことなく沈んだ面持ちで続けた。
「潔が走り始めたから、みんなもついて行っただけ」
 緋色の瞳が、どこか眩しいように細まった。その姿がなんだかもの寂しく思え、空のボトルを回収し終えた依織は、「千切くん」と呼びかける。
「よかったら途中まで一緒に行こっか」

 練習後の千切が向かうシャワー室と、依織が向かうランドリーエリアはさほど遠くはなく同じ方向だ。
 隣り合って進んでいくけれど、妙に暗い千切の横顔に依織は心配になった。
(そういえば千切くんて足を怪我してるんだっけ)
 簡単にだが選手のプロフィールは頭に入っている。といっても、サッカーのプレイスタイルなどは言われてもわからないので、出身地や怪我の有無、家族構成などの必要最低限のことだけだが……。
 もしかして足のことでなにか気がかりでもあるのだろうか、と思ったが、選手にとって怪我のことはナイーブな話題だろう。
 どうやって切り出したらいいかと迷っている内に、シャワー室に辿り着いてしまった。
「俺はここで……」
「あ、うん」
 今のままでは風邪をひいてしまうし、引き留める言葉も浮かばず、依織は頷いて見送ってしまう。だが、中に入る直前で千切が振り返り、そっと微笑んで言った。
「いつもタオルとかドリンクとか、俺たちのこと気にしてくれてありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げて行く千切。そんな思いやりのある子をやはり放っておけず、その背中につい呼び止めてしまった。
 呼ばれて不思議そうに振り返る彼に、依織はわずかに口ごもりつつ、ええいままよとばかりに勢いをつけて核心に迫った。
「もし心配なこととかあるなら、なんでも言ってね」
「え?」
「ごめん……遠回しに聞き出すとか出来なくて。しかも俺、スタッフのくせにサッカー詳しくないし専門的なことは分からないけど……」
 不安に俯く。だがそんな依織にふと絵心の言葉が思い返された。
 ――なにも知らないヤツのほうが、かえってそいつを救うこともある。
 そうだよね、甚くん……。俺にも出来ることあるよね。
 目の前の青年を真っ直ぐに見上げた。せめて虚勢でも張って頼れる大人だと思ってもらわなければ。
「知らない人のほうがかえって話しやすいこともあるでしょ? 俺は選手でも、じん……絵心さんのように指揮官でもないただサポートスタッフだから……不安って、口にするだけでも少しは楽になると思うんだ」
 内心ではドキドキしつつも、顔には大人の余裕を浮かべていた。やがて、千切は考えるように俯くとぽつりと迷子のように呟いた。
「……夜は何時までここにいますか?」
「ここに住み込みだから何時でも大丈夫だよ?」
 じゃあ、と千切はみんなが寝静まったあたりの時間を提示してきた。依織はこくりと頷き、風邪ひいちゃからと千切をシャワー室のほうに押し込んだ。


 昼間よりもラフな格好に着替え、最後の見回りに繰り出す中、チームZのモニタールームに行くとそこには千切が一人で床に座っていた。
「床だと体冷えちゃうでしょ」
 同じように隣に座ると、服越しにひんやりとした冷たい感触が伝った。
 千切は話すことを迷うように視線を泳がせていたが、膝を抱えるようにぎゅっと丸まりぽつぽつと話し出した。
「右膝前十字靱帯断裂。一年前に怪我をして……」
 知ってました? と緋色の視線が問いかけた。
「選手のことは簡単にだけど事前に教えてもらってるからね」
「怪我は治ったけど、もう一度同じ場所をやったら選手生命は危ういって言われて……前みたいにサッカーに出来なくなって。そんな自分が嫌で……怖くて……」
 自分の中でも感情がまとまっていないのか、千切は何度か言葉を落とすと黙り込んでしまった。
 無理に聞き出したいわけでもない。無理しないで、と背中をさすると、千切はチラリと依織を見た。それに見守る気持ちで微笑み返すと、強ばっていた彼の体から力が抜けた。
「昨日、潔にこの話して……すこし八つ当たりみたいなことしたから上手く話せなくて……」
 そう言って丸めていた背中を伸ばすと、千切は折り曲げた自分の右膝を大事なものに触れるように、しかしどこか怯えを宿した手つきでそっと撫でつけた。
「俺は夢を諦めるためにここに来ました」
 きっぱりと言い切り、そろそろと依織の反応を気にしたふうにこちらを見る。ストライカーを生み出すというブルーロックのスタッフを担っているからか、その意志に反する自分の良い分が受け入れられるか不安なようだ。
(そんな心配しなくてもいいのに……)
 大丈夫だよ。そんな気持ちを込めて、依織は微笑した。
「選手たちの想いはそれぞれだから……俺はみんな一人一人の目的や目標があって良いと思う。気になるのは、それで千切くんは後悔しないかなってこと」
 「後悔?」と訝しげに繰り返す千切に、依織は頷き返した。
「もしここで脱落して、諦めるきっかけになって……それで千切くんがすっぱり気持ちの折り合いが付けられて前を向いていけるなら良いと思う。でも、もしこの先もずっと心のどこかでもやもやが残っちゃうなら、その根本はなんなのかって考えて、それと折り合いをつけないときっときみはずっと苦しいと思う」
 言葉を選びつつ、けれどしっかり伝えたいことが彼に届くように。依織が出来るだけ柔らかく言葉を紡げば、千切は難しい顔で黙ってしまう。
「千切くんはさ、きっと怪我をしてなかったらサッカーをやめるなんて考えられないよね?」
 問えば、間髪を入れずに頷いた。その表情には確固とした想いがあって、なら答えは簡単だ、と依織は至極シンプルに告げた。
「サッカーが出来るうちはサッカーをする。出来なくなったらやめる。それでいいんじゃない?」
 だって悩んでる原因の根本の欲求は「サッカーがしたい」なんだから。
 千切は眼から鱗のような顔で驚き、そして苦々しく顔を歪めた。
(そんな簡単な問題なら悩まねーよって思われてそう)
 内心で微苦笑し、依織は続けた。
「俺の知ってる人で、サッカーしてないと死んじゃうんじゃないかなって思うほど、サッカーが大好きな人がいるんだ。その人が引退したとき、もしかしたら死んじゃうかもなんて心配するほどだった……多分、甚く……その人なら怪我してもう一回やったら終わりだってなったら、きっと笑うと思う。なんだまだ出来るのかって」
「まだ出来る……」
 甚八がニタリと笑って喜ぶ姿が容易に浮かんで、依織はクスクス笑いながら頷いた。
「どうせいつか怪我のせいで諦めなきゃいけないなら、もうサッカーできませんてなってからでいいんじゃない? 今はまだ出来る。じゃあ楽しんで目一杯やります。それぐらい簡単に考えてたほうが人生楽だよ」
 さすがに十六歳の子には難しいかな、と思いつつも笑って言えば、千切はぽかんとしたと思えば、やがて肩を震わせ、最後には顔を上げて高らかに笑い声を響かせた。
「なんだそれ……はは……それって年の功ってやつ?」
 笑いながら言われて、「それもあるけど……」と顎に手を当てて考えた。
「昔から気持ちの切り替えとか、前向きさではお前に勝てないとは言われたかも」
 なんせあの絵心甚八のお墨付きなので。これは自信を持ってもいいだろう。
「依織さんて意外とサッパリしてんだ!」
 繊細そうなのに意外! と腹を抱えて笑った千切は、年相応に幼く可愛らしい。さっきまでの暗い顔よりも今のほうがずっといい。
 嬉しくなって依織の口角も自然と上がっていった。
「まあこれはあくまで俺の考えだし……千切くんの気持ちはまた別物だから。自分の心が楽なものを選びな」
 と、千切の崩れた髪を整えるように撫でて立ち上がる。さすがにこれ以上は明日の試合に差し支えるだろう。
 千切は依織の言葉を反芻するように小さく呟いてから軽い調子で立ち上がった。その表情は、最初にここで座り込んでいたときよりも随分すっきりして見えた。
「まだ答えは見つかんないけど……ちょっと軽くなったかも」
 ありがとう、依織さん。とはにかむような笑顔に頷き、依織は彼を部屋まで送っていった。
(少しでも力になれてたらいいけど……)
 管理棟に戻る道中、依織はそんなことを思った。
 依織には他のことを忘れて没頭するような趣味もなければ、これだけがあればいいと言うほどの欲求を向けるものはない。ある意味執着心の薄い人生を歩んできたが故に、こうしたときの心の楽な割り切り方だけは得意だった。
 ここにいる子どもたちはあまりにサッカーに人生を捧げている子が多い。一度躓き、挫折を経験すれば……考え過ぎ、悩みすぎてしまう子もいるだろう。
(そんなとき、俺の考え方が少しでも清涼剤になればいいな)
 解決には導けなくても。なんだそんな考えでもいいのかと。そんな思い詰めなくても、簡単にシンプルな考えでもやっていけるのだと知って欲しい。

 翌日。チームZの試合終了後――廊下で見かけた依織をわざわざ追いかけてきてくれた千切は仲間の輪の中で、何もかも吹っ切れた顔で笑っていた。
「依織さん。俺、サッカーできるまではサッカーするわ全力で」
 ニッと笑った青年の清々しさに感極まり、依織は彼を抱きしめると「そっか! ほんとに良かった」と泣き笑いで喜んだ。
「今日の試合、俺がいなかったらあいつら負けてた。だからさ、髪結ってよ」
 依織さん器用そうだし。と、少しそっぽを向きながらとってつけたように言われ、喜んで頷いた。
「あー! ちぎりん依織さんに髪の毛やってもらってる!」
 気づいた蜂楽が、ずるいずるいと二人の周囲をぐるぐると周りながら不満げに言うので、苦笑した終わったら次にやってあげると提案しかけたが、その言葉尻を攫うように千切はふんと胸を張って言った。
「依織さんは今日は俺専属だ。お前はさっさと部屋戻れ」
 シッシッ、と犬でも追い払うように手を振ったが、蜂楽は気にしたふうもなく、結局依織の背後にべたっとへばりつき、肩に顎を乗せて千切の髪を結う姿を見学していた。
 密集している三人に気づいた他の選手たちもわらわらと集まり、最後には怒った千切が
「散れ! 今日は俺の日だ!」
 と、叫んだので、他の選手のブーイングが響いた。



(ただいま〜なんだか今日はみんないつもより元気だったなあ……ん? 甚くんなに見てるの?)
(昨日の映像の見返し)
(え、これって俺が千切くんと話してるやつじゃん。恥ずかし〜……偉そうに説教みたいなことしちゃったんだけど俺……)
(……依織)
(ん? どうしたの?)
(俺が急に引退するって言ったとき、死ぬと思ったの?)
(へ……ま、まさか! ただそれもあり得るかもって……ちらっと)
(たしかに喪失感とか、まあ色々考えたりはしたけど……)
(やっぱり! 甚くんにとってはサッカーって呼吸みたいなもんだしね……結構本気で心配したりもしたんだよ?)
(ふっ……呼吸ね。たしかに言い当て妙だね)
(だよね!)
(まあたしかにサッカーは大事だけど、俺の人生はサッカーだけじゃなかった。ただそれだけだよ)
(……? 甚くんの人生はほぼほぼサッカーだけだと思うけど。ほかに趣味でもあったっけ?)
(はあ……)
(痛い! なんで鼻のあたま噛むの!?)