お兄ちゃんと一緒2



 夕暮れで赤く染まった道路に、長く影が伸びる。
 依織は、二つ並んだ影を見下ろしながら(どうしよう)と考えていた。
 ちらりと盗み見る隣には、同じクラスの男子生徒――山田の姿。と言っても、クラスが一緒になったのは高校三年生に上がった今年が初めてで、それ以前はともかく同じクラスになってからの数ヶ月も、大した交流はない。
 サッカー部でレギュラーに選ばれる山田と、帰宅部で運動が苦手な依織では、接点はないのだ。
 強いてあげれば、中間試験の時に筆記具を忘れた彼に貸してあげたぐらいだけれど……。
 もちろんクラスメイトとして他にも話をしたことはあっても、必要最低限のもの。それ故になぜ今のような状況になっているのかと首を傾げるしかないのだ。
(一緒に帰りたいって言われたけど、なにか用事があったのかな……?)
 今は期末試験前の部活停止期間なので、山田もHRが終わればすぐに帰宅することになる。
 いつも溌剌とした笑みでクラスの中心にいる山田が、やけに緊張したような上擦った声で誘ってくるものだから、驚きでついなにも考えずに頷いてしまった。
 しかも、こうして並んで帰っていても特に会話をするでもなく、俯いてしまっているから依織は困ってしまっていた。
(……うーん。なにか悩みでもあるとか?)
 親しい人に言うより、接点のない人間のほうが話しやすい、と聞くこともある。
 それに、依織は中性的な見た目のせいか、それとも笑みを絶やさぬ温厚な性格のせいか悩みや相談を受けることが多い。
 最近ではクラスで仲のいい女子生徒から、「依織くんと喋ってるとオギャりたくなっちゃうときがあるんだよね」とよく分からない相談をいただいた。
 もちろん、「ごめんちょっと分からなくて……もう少し詳しく教えてくれる?」と訊けば、長くため息をつかれてしまったのでもしかしたら失望されたかも知れない。
(用事があるか、相談か……やっぱりその二つだよね)
 しかし、山田は一向に口を開く気配がない。ただ、彼が終始なにかに緊張しているのはわかる。
 本当は自分で切り出すまで待ってあげたいのだが、そろそろ依織の家が見えてきてしまう。
(最悪試験勉強しようって家に誘う? 外より話やすいかもだし……)
 梅雨が明けてからというもの、毎日焼けるような暑さが続いている。半分陽が落ちたこの時間でも、じわじわと体の奥に熱がこもる感覚がする。
 じわりと首筋に滲んだ汗を拭い、依織はふう、と息をついた。張り付く髪をすくって、耳にかける。
 ふと目を上げると、さっきまで地面とにらめっこしていた山田が食い入るようにじっとこちらを見ていた。
 驚いて肩が震えた。なにかまずいことをしただろうか、とちょっぴり不安になる。けれど、いい機会だと声をかけた。
「あの山田くん」
「お、おう!?」
 大袈裟にビックリするから、依織もつられて目を見開いた。しかし、すぐに機を取り直し、そっと窺うように彼を見上げる。
「俺になにか用があったんじゃないかな……って思ってたんだけど……どうして今日誘ってくれたの?」
 早々に成長期が終わってしまった依織は、ピッタリ百七十までしか伸びなかった。しかし、運動部に入っているせいなのか山田は依織よりも頭半個分は大きい。ちょっと上目遣いに顔を上げないと目線が合わない。
 こてんと首を傾げて控えめに訊ねると、山田の顔がみるみる赤く染まっていく。
(……そんなに恥ずかしいことを言おうとしてるの?)
 やっぱり家まで待った方がよかっただろうか。いや、そもそもなにも言わずに歩いてきてしまったが、山田の自宅はどこの方面なのだろう。
「山田くん? 大丈夫? 顔赤いよ?」
 心配になって様子を窺う。すると、山田はごくりと息を呑んで意を決したように口を開いた。
「あ、あの! 依織、俺さ!」
「うん」
「……俺、お前のことが 「依織にいちゃん!!」 あ、……?」
「世一……!」
 突然聞こえた子どもの声に、背後を振り向けば、ランドセルを背負った世一がサッカーボール片手に駆けてきていた。
「依織にいちゃん今帰り!?」
「そうだよ。世一はサッカーの帰り?」
「うん! 公園でサッカーしてた!」
 きらきらした目で見上げてくる世一の頭を撫でる。随分と長い時間外にいたのか、子どもの細い髪は汗ばんでいた。
 元気にボールを追う世一の姿が頭に浮かんで、クスクスと笑いが漏れてしまう。
「そっか。楽しかった?」
「うん!」
 ぎゅっと依織の手を握って、あのねあのねと話かける世一の話を聞いてあげたいところなのだが、今は山田も一緒だ。
「ごめんね世一。俺、今学校の子とお話ししてるから、少しだけ待っててもらってもいい?」
 屈んでいた足を伸ばし、山田に向き直る。
「山田くんごめんね。話、途中だったよね」
「あ、ううん。大丈夫」
 すると、世一は今しがた気づいたとでも言うように山田を見て、そっと依織の足に隠れた。
 握られた手の力が強くなる。じっと山田を見上げる目の力が強くて、もしかして初めて会う人だから警戒してるのかな? と首を傾げた。
(世一、ちょっと人見知りの気があるからな……)
 それに山田も知らない子どもがいたら話しづらいかも知れない。
 現に、チラチラと世一を見ては居心地悪そうにしている。
「世一、俺は山田くんとお話あるから、先におうち帰りな。あとでお話しよう?」
 見下ろしてそう言うと、世一はガンッ! とショックを受けたように目を見開いて固まった。信じられないことを聞いたみたいに依織を見上げてくる。
「依織にいちゃん……俺よりこいつのほうが大事なの?」
 ぽんぽん、と世一の腕からサッカーボールが落ちる。その腕は、真っ直ぐ山田を指さしていた。
「こら! 人のことを指さしたり、こいつなんて言ったらダメだろ?」
 柔らかな子どもの頬をふにっとつついて言うと、世一はさらに円やかな頬をぷっくら膨らませて拗ねたように眉間に皺を作った。
「やだ! 俺帰んないから!」
「世一……!?」
 短い腕を目一杯伸ばして世一は依織の腰に抱きつき顔をうずめてしまう。
 宥めるように肩を叩いて名前を呼んでも、一向に世一はその可愛らしい顔を見せてはくれない。
 さらにぐずっと泣いたように鼻を啜る音がして、依織は困ってしまった。
(どうしたんだろう……いつもだったら聞き分けがいいのに……)
 なにもここでバイバイしようというわけじゃない。ちゃんとこのあと話を聞くつもりだった。
 本当は抱きあげるか屈むかして目線を合わせて様子を見たいところだが、今は山田もいる。
 以前、昔からの癖で外で抱っこして、世一に「外ではやだ!」と拗ねられたことがある。
 かといって泣いている世一を放って山田の話を聞くことも出来ない。
 どうしよう、と唸る依織の様子に、山田が「あのさ」と申し出る。
「お、俺の話はべつに大したことじゃないし……その子依織の弟かなんかだろ? そっち優先してやって」
 山田の言葉に、世一はすかさず返した。
「弟じゃない。俺は依織にいちゃんの彼氏だもん」
「はは、じゃあライバルだな!」
 世一の冗談にも山田は笑って付き合ってくれた。
「ごめんね、山田くん。また今度話聞くから……」
「おう。また今度な……!」
 結構大事な話だったのか、山田はどこか気落ちした様子だった。ひらひらと手を振って別れる。
 わざわざ依織の家の方向に付き合ってくれていたらしい。山田は来た道を戻っていった。
 その姿が見えなくなってから、依織は腰の小さな引っ付き虫を抱きしめる。
「もう世一ってばまた学校で変な言葉覚えてきて……」
「クラスのなおみちゃんが、好きな男の人のことを彼氏っていうんだって言ってた」
「うーんあってるようでちょっと違う……」
 ようやく顔を上げた世一は、やっぱり泣いていたのか顔がぐっしょり濡れている。
 やっぱり……シャツが湿ってると思ったんだ。
 屈んで、鞄から出したティッシュで鼻をかむ。そうして頬や鼻の頭も拭いていった。
「今日はどうしたの? なにかあったの?」
 小学校に上がってから、ここまで駄々をこねることもそうそうなかったのに……。
 心配して訊くと、世一はさっきまでの頑固な姿はどこへ行ったのか、けろりとした顔で首を傾げている。
「別に、なにもない。サッカーしてただけ」
「ふふ、じゃあ久々に甘えた世一だったんだね」
 年を重ねるにつれ、大人になっていく世一は少しずつ甘えてくることが減っている気がする。
 もっと小さい頃はどこに行くにも抱っこだったし、潔家から帰ってくときは絶対に泣いた世一が寝入るまで帰れなかった。しかし、そういうこともほとんどなくなってしまった。
 今はまだお泊まりに来てと強請られ、一緒にお風呂に入ったりぎゅうっとして寝ているが、いつかはそれもなくなってしまうのかと思うと淋しいものがある。
 久々の甘えたな部分が見られて、嬉しくてクスクス笑って髪を整えてあげていると、また世一の頬がまあるく膨らむ。
「甘えん坊じゃない。俺もう大人だもん」
「そうだね、世一大きくなったよね」
「もう大人だから依織にいちゃんとちゅーだって出来る。大人は彼氏とはちゅーするって」
「……本当にどこで覚えてくるのそんなこと」
「クラスのなおみちゃん……」
「なおみちゃん……」
 女の子はおませさんだな〜と内心感心して、依織は立ち上がって世一の手を引く。
「ほら、世一そろそろ帰ろう? 伊世さん心配しちゃう」
「うん」
 転がったサッカーボールを抱え直し、世一はその小さな手でぎゅっと強く握り返してきた。


(ただいまー!)
(おかえりよっちゃん〜あら、依織くんもいらっしゃい〜)
(急におじゃましてすいません)
(いいのよ〜もう依織くんは家族同然なんだから)
(依織にいちゃん、浮気してた! 彼氏の俺がいるのに!)
(ば! ばか世一! 伊世さんになにいってるんだよ!)
(よっちゃんやっと依織くんと付き合えたのね〜これじゃあお嫁さんになるのももうすぐかしら〜)
(俺がもうちょっと大きくなってから結婚する! 結婚式で依織にいちゃんのことお姫様抱っこするから!)
(じゃあ好き嫌いせずにご飯食べなきゃね〜きっと依織くん美人だからウェディングドレス似合うわ)
(……伊世さん、俺はお嫁さんにはなれませんよ?)