歪なトライアングル


 カチリと長針が動いた後に続いて、低い鐘の音が響き、時計の小さな窓から鳩が顔を出す。
 鐘の合間に「ぽっぽ」と数回鳴いて引っ込んでいく鳩を後目に、依織はデスクから顔を上げて大きく伸びをした。
「あ〜首が痛い……」
 また気づけば日が暮れている。冬だから沈むのも早いのだろうが、こうも毎日のことだと、この鳩時計を買うように勧めてくれた二人には感謝しなければならない。
 大学卒業と同時に実家を出て一人暮らしをするとなったとき、家具などの買い出しには、隣の家に住んでいた幼い兄弟が付き合ってくれたのだ。
「依織は時間忘れるからな。こういう知らせてくれるやつがいいだろ」
「依織にいちゃん、集中するとご飯食べるのも忘れちゃうからね……」
 難しい顔で、当人である依織よりも真剣に選ぶ二人に苦笑したものだ。
(まさか一回り近く年の離れた二人にそんな心配をされるなんて……)
 と、苦い思いを抱えつつ、依織は素直にその鳩時計を買った。
 まあ、結果として二人の言ったことは正解だったのだけれど……。
 あれから時は経ち、二人は中学、高校へと順当に成長し、元気にサッカーをやっている。
 二人のことを生まれたときから知っている身としては、楽しそうになにかに打ち込んでいる姿は嬉しいものがある。
「そういえば、冴は明日帰ってくるんだよね……」
 ふいに思い出し、カレンダーを確認したところで玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろうと首を傾げ、依織はそそくさと向かう。
 「はーい」と返事をしながら靴を履いて外に出た。すると――。
「え、冴……?」
 そこには、今さっき思い出していた兄弟のかた割れ――兄である糸師冴がいた。
「帰ってくるの、明日じゃ……?」
「早まった」
 簡潔に話す姿に、相変わらずだなと笑ってしまう。
 昔から必要なことしか喋らない子だった。
「そっか。おかえり」
「ああ。ただいま」
 そう言って、冴は視線を地面に落とした。
 最後に会ったのは冴がスペインへと飛んだ四年前。あの頃の冴はまだ中学に上がったばかりで、幼さの残る顔をしていた。
 しかし、今目の前にいるのは凜々しく精悍な雰囲気をもつ立派な男の子だった。
 頬の円やかさが消え、シュッと細くなった輪郭に、厚みの増した体と伸びた背丈。
 四年の間もビデオ通話などで顔は見ていたが、やはり直接見ると大きくなったのがよく分かる。
「大きくなったね。俺、越されちゃったな……」
 昔は随分と下にあった目線が、今じゃわずかに依織よりも上にある。
 そっと手を伸ばし、冴の頬にかかる髪を払い、その輪郭を撫でた。
「ちょっと痩せた……? 頑張ってるんだね、冴」
 柔らかく微笑んで言うと、さっきまで虚ろに下を向くばかりだった瞳がわずかに見開き、光が灯る。
 そろりと上がった翡翠は迷うように揺れ、そうしてひたと依織を見た。
 戸惑うように重く上がった口が
「俺、世界一のストライカーじゃなくて世界一のミッドフィルダーになる」
 と、決意を表す。
 口調は有無を言わさぬ圧があるのに、その奥にはどこか怯えた色が見えた。
 大人になった翡翠の奥に、こちらを窺う子どものような幼さを見つけ、依織は冴がスペインという知らぬ地でどれだけ大変だったのかを思い知った。
 言葉も分からない、見知った頼れる人間もいない。そんな場所で、子どもだったこの子はどれだけ傷つき、必死に踏ん張っていたのだろう。
 それを思うと、じんわりと目の奥が熱くなった。
 しかし冴には悟らせぬように、やはり依織は微笑を浮かべて言うのだ。
「そっか。冴が決めたなら、いいと思うよ」
 ここでは怖いことはないから。安心して肩の荷を下ろしていいんだよ。
 そう伝えるように柔らかな音を告げれば、冴はこらえるように目元に力を入れた。
 濡れたように潤みを増した翡翠は、それでも涙を落としはしなかった。
(こんなときぐらい、泣いたっていいのに……)
 もどかしさが湧き、冴に腕を伸ばした。大きくなった姿に、子どもの時の冴が重なる。昔のように、抱きしめてあげたかった。
 しかし、依織が触れるよりも早く、その細い手首を冴が掴む。
「冴……? あっ、」
 そうしてぐいと腕を引かれる。不意を突かれた依織の体は、簡単に冴のほうへと傾いた。
 腰と後頭部に手が回り、そっと支えられたとき、口に柔らかな熱が触れた。
 睫毛が絡むような距離で、翡翠の瞳が瞬いている。
「ん、んん……!」
 驚き身を引こうとするが、依織の体に回った腕がそれを許してくれない。強い力で抑え込まれ、呼吸も奪うように強く唇を押し当てられる。
 冴の胸に手を置いて力をこめたが、びくともしなかった。
 そりゃ日頃からサッカーに明け暮れる冴と、在宅仕事の依織では勝負にならないだろう。
 昔ならばいざ知らず、今じゃ身長も抜かれてしまったのだ。
「んう、ん、あ……さえ、」
 唇を舌で舐められ、熱が離れていく。それでも、吐息が混ざるような距離に冴の綺麗な顔がある。
 どうして急に? こんなことはダメだよ。
 ――言わなきゃいけないことがある。
 俺たちは男同士で……そういう関係でもない人にキスをしたらダメ。こんな玄関先で、誰に見られるかも分からない場所でこういうことはダメだと。
 年上の依織が言わなくてはならない。なのに――。
「俺は、MFだって凛の兄貴だよな……?」
 ぽつりと零れたその一言に、依織は言葉を無くした。
(ああ、そっか……)
 ここに来る前に、凛に会ったんだね。それだけで、なぜ冴が実家に帰らずにここに来たのかなんとなく察してしまった。
 そして、諫める言葉を飲み込んだ。
 依織の体に触れる手が、震えていることに気づいたからだ。今、依織が拒めば、冴はさらにその心に傷をいれてしまうだろうと。
 強ばっていた自分の身体から、自然と力が抜けた。
「冴、俺はサッカーのことは詳しくは分からないけど……どのポジションでも、サッカーをしててもしてなくても、冴のことが大事だよ」
 そうして、隈の出来た目元を壊れ物に触れるように指の腹で撫でた。
 そうっとそうっと、この子どもの傷が少しでも癒えるように、祈りを込めて――。
 小さい頃から、冴は弱いところを見せるのが嫌いだった。依織とは他人だからか、年が離れているからか、限界が近くなるとそろりと近寄って甘えてきたが、今回はそんな頃の比ではないのかも知れない。
(この子は今、壊れる寸前にいる……)
 向こうでどれだけ大変だったのか。凛になにを言われたのか……。
 依織には詳細は分からない。けれど、凛が今の冴を受け入れられなかったことだけは察せられた。
 凛は良くも悪くも、強くてひたすらに前を突き進む兄を無邪気に慕っていたから。
「依織……」
 頬を撫でていた手を掴まれ、指を結ばれる。そのまま、再び冴の端正な顔が依織に近づいた。
 さっき冴にそうしたように、依織の頬を冴が撫でる。
 もう頭や腰を押さえていた手はない。けれど、依織は引く様子を見せずに受け入れた。
 しっとりと吸い付くように、冴の唇が触れる。小鳥がついばむように、合間に依織の名を呼びながら冴が一心に依織を求めている。
「あ……んん、んう」
 そのうち舌がぬるりと入り込み、依織の口内を遠慮なく蹂躙していく。
 互いの舌が絡み、上顎を撫でられると体の中に痺れるような快楽がかすかに響く。
「さ、冴……んう、くるし、ん……あっ」
 こういった経験が少ない依織は、あっという間に息が上がってしまった。依織の黒髪に差し込まれた冴の手が、耳朶をさわさわと撫で、そのこそばゆさにさらに体を震わせた。
 そうしてどれぐらい経っただろうか。アパートの他の住人が帰ってこなかったのが救いだ。
 くたりと崩れ落ちそうな依織を、冴はなんなく支え、そのまま中へと押しやられる。扉が閉まる直前、涙目のぼやけた視界に、もう一人の愛しい子の幻覚を見た。
(凛は、大丈夫かな……)
 冴の腕の中で息を整えながら、依織はきっと傷ついているだろう凛のことを思った。

 ◆◆◆


 結局、冴は今回の日本での滞在期間はほとんど依織の家にいた。
「おばさんたちに顔見せた?」
 と、依織が訊くと、本人にもそうしなくてはならない自覚はあったのか少し罰の悪い顔でそっぽを向かれる。
 一応、冴が初日に依織の家に来た時点で、冴の母に連絡はいれている。けれど、四年ぶりの息子の帰国だ。
 おばさんたちだって顔が見たいだろうと思って提案すると、冴は案外素直に頷いた。
 まあ、昼間に顔を見せに行き、夜には依織の家に帰ってきたのだけれど……。
 そうして再びスペインへと戻る冴のことを、依織は一人で見送った。
 おばさんたちには、自分で見送りはいらないと伝えたらしい。
「行ってらっしゃい、冴。気を付けてね」
「ああ。行ってくる」
 そういって薄く微笑んだ冴は、依織の家を訪ねてきた頃よりはうんと顔色がいい。
 毎晩抱き枕になってた甲斐があるな、と内心で満足していると、なにを思ったのか、冴が振り返って戻ってくる。
「どうしたの冴、忘れ物でも……あ、」
 この展開、前にもあったぞ。
 腕を引かれ、近づいてきた翡翠と唇の熱に、依織は目をしばたたいた。
 前回と違うのは、すぐにその熱が離れていったことだろうか。
 じわじわと熱くなる頬に、依織は口を戦慄かせた。
 目を見開いて動揺している依織を、冴は満足そうに眺めて搭乗口のほうに去って行った。
 あの時の熱を思い出してしまって、一人の自室で依織は頭を抱えた。
「……うう、ませガキめ」
 やけに張りきっていた背中を思い出し、依織はそう呟く。
 すると。
 ――ピンポーン。
 玄関のチャイムに、依織はパタパタと駆け足で答えた。
「はーい、どちらさま……あ、凛」
「久しぶり、依織にいちゃん」
 そこに佇むのは黒い髪に、冴と同じ翡翠の瞳の少年――凛。
 冴と同じように依織の背を追い越した彼は、出てきた依織を感情の読めない瞳で見下ろした。
 なんだろう? と首を傾げていると、ふいに乱暴に腕を握られ、痛みに小さく呻く。
「いた! ……痛いよ、凛」
 そう言って顔を上げたとき、凛の瞳の奥に宿る怒りや悲しみを見て、依織は息を呑んだ。
 ギリギリと、骨が軋むほど強く手を掴まれている。しかし、抵抗できなかった。
 痛みに耐えるその奥で、やっぱりと自分の声が響く。
(やっぱり、凛も傷ついてたんだね……)
 虚ろに儚く佇んでいた冴は、今にも消えてしまいそうで心配だったけれど、凛は触れることを戸惑うような乱暴な怒りを秘めていた。
 どうして怒っているのか、依織には分からない。ここ最近は凛に会うことはなかったのに……。
「依織」
 いつもの可愛らしい「兄ちゃん」の愛称がとられ、短く名前を呼ばれる。
 言葉の奥に潜んだ激情に、ぞわりと背筋が本能的に恐怖を感じて粟立った。それでも、依織は笑みを浮かべて「どうしたの? 凛」と訊ねる。
 依織の微笑に、凛は歯を食いしばった。まるで、憎むような瞳が向けられる。
 固い表情の凛にもう一度声をかけようとしたが、それよりも早く凛が依織の肩を押す。簡単によろけた依織の体を中へと押しやり、玄関が閉められた。
 途端に薄暗くなった部屋の中、凛の腕がゆっくりと伸びてきた。
「依織……」
 頬を撫でられ、そのまま凛の顔が降ってくる。
 翡翠に映るのは、怒りと悲しみと、かすかな欲の色で――。
 どうしてそんな目をしているの。そう問いたくて、でも依織が発しようとした音は、凛の口に飲み込まれた。
 自分の唇を撫でる吐息に、依織はそっと瞳に滲んだ涙を閉じ込めるために目を閉じた。
(なんで、こうなっちゃったんだろうね……)
 ――依織!
 ――依織にいちゃん!
 やるせない思いの中、ふと耳の奥に聞こえた子どもの声。
 依織の後ろをちょこちょことついて回っていた幼い二つの影を思い出す。しかし、それも瞬きの間のことで、すぐに息苦しさと快楽で塗りつぶされてしまった。

 自分たちになにがあっても抱きしめて受け止めてくれる男主に対して、信仰に近い気持ちを抱く糸師兄弟。
 自分の上に男主しかいなかった冴と、男主と冴がいた凛とでは、信仰度合いが違う。
 まだ凛のほうが男主を人間として見てる。
 冴のほうが信仰度が高く、帰省期間もキス以上のことはなく、毎晩抱きしめられてよしよしされて寝ていただけ。
 キスにそういう性愛はなく、ただ神様から慈悲のキスをもらっている感覚に過ぎない。(今は)
 しかし、玄関先のキスを見ていた凛は男主のことを(兄よりは)ちゃんと人間として見ているので、当然兄と男主がそういうことをしてると思ってるし、「お前まで俺のこと捨てるのか」って愛しさ余って憎さ百倍を地で行っている。
 ただ、今回男主が自分のことを受け入れて処女をさしだしてくれたのでウルトラハッピーをキメるし、将来U20戦で兄相手に煽り散らかす。
 それを聞いた冴は「お前依織(聖域)に手出したのか……!?」てぶち切れる未来があるし、あの愚弟にやったんだから俺にも寄越せと強請ることになる。それをきっかけに性愛も信仰も同じぐらいぶっ飛んでいく。

 こんなドロドロ具合だけれど、将来兄弟が和解すると二人で共有エンド(ハッピーエンド)になるし、二人のいざこざがなくなれば自分(慰め役)の役目も終わりだと思ってたのに、さらに執着具合がひどくなっていく二人に(あれー???)ってなる男主がいる。

 男主からそういう意味で二人に矢印が出ることはない。しかし、支えるためなら簡単に体を明け渡せるほど二人のことは愛しているし、他人に対して恋愛感情をもつことがほぼないので、誰かを好きになっちゃって兄弟と修羅場るなんて地獄はないので問題はない。