隣の席のおっきい子ども


 同じクラスの流川楓は、授業中も休み時間もいつだって机に突っ伏して寝ている。
 それを隣の席で眺めているのが、依織の日常だった。
(今日もよく寝るなぁ……)
 百九十近い大きな体を丸めていると、机がすごく小さく見える。
 使っているのは同じサイズなはずなのに……。
 流川と話をしたことはない。
 バスケ部の朝練があるせいか、教室にくるのは朝のHRギリギリだし、授業中や休み時間は言わずもがな睡眠時間。
 起きているのは移動時間と昼休みぐらいだが、それだってわざわざ話すこともない。
 時々、寝ている彼の横顔を盗み見ては(綺麗だな〜)と思う程度だった。


「あ、ちょうど良かった。クラスに戻ったら流川に数学のノート出すように言っといてくれ」
「はい、分かりました」
 担任に用があって訪れた職員室で、帰り際に数学の担当教員からそう頼まれてしまった。
 嫌だな、と思うわけでもないが、話したことがないので声をかけるのは気まずい。
(それに、たしか前に眠りを妨げるヤツは許さん……とか言ってなかったっけ?)
 授業中の睡眠を教師に邪魔されて、そのまま寝ぼけた状態で教師に反抗していた気がする。
 さすがにあの体躯で掴みかかられたら怖い。依織だって百七十ちょいはあるけれど、運動なんて体育ぐらいでしかやらないもやしなので、絶対に勝てない。
 どうやって起こすのがいいんだろう、とぐるぐる考えているうちに教室に戻ってきてしまった。
 自席に戻ると、やっぱり流川は隣の席で上体を丸めて寝ている。
(ほんとに綺麗な顔……)
 サラサラの黒い髪から覗く白い肌に、整った顔立ち。涼しげで切れ長の瞳は、今は心地よさそうに閉じられている。
 こうも健やかそうに寝ている姿を見ると、怖いな……と思っていた気持ちが萎んでいって、起こすのが申し訳なくなってくる。
 ちょっぴり罪悪感を抱えながら、依織は寝息に合わせて上下する肩をそっと叩いた。
「流川くん、流川くん……」
 睡眠中の流川に声をかけたことで、教室内はにわかにざわめいた。依織は気づいていないが、みんなが緊張して二人の様子を見守っている。
 女子生徒の一部は、「依織くんが殴られちゃう!」と顔を真っ青にして固唾を呑んでいた。
 運動部の流川のように華々しく人気があるわけでもないが、冷えた印象の流川と柔らかな雰囲気を持つ依織は、タイプの違う美形としてひっそりと女子生徒から目の保養にされている。
「んっ」
 流川が一瞬呻いた。クラスの緊張感が高まる。
 しかし、流川はその刹那だけ反応を示し、そっぷ向いて眠りに戻ってしまった。ほっと誰かの安堵の息が漏れる。
 クラスメイトの様子に気づいていない依織は、困ったように眉を垂れ下げた。
 困り眉の美人に、小さく女子生徒の悲鳴が上がる。
 どうしよう。先生からの伝言なのに……。
(数学のノート出し忘れてるみたいだし……出さないと流川くんの成績にも関わるよね?)
 そうなると彼も困るだろう。
 よし、と意気込み依織は席を立って、今度は近い距離から流川を呼ぶ。
「流川くん、寝ているところごめんね。ちょっとだけいい?」
 とんとん、と肩を叩き、流川の顔を覗き込む。赤ん坊をあやすような囁き声で呼ぶと、流川の涼しげな美貌がゆっくりと腕から持ち上がった。
「ごめんね、気持ちよく寝てたのに……あのね、数学のノートね、佐藤先生が出してくれって」
「……数学?」
「うん」
 ぐったりと上体は机に倒したままうっすらと開いた瞳を見るに、まだ頭は覚醒してなさそうだ。
 ぱしぱしと流川の瞳が瞬く。
 ぼんやりしたそんな様子が思いのほか可愛らしく見えて、つい依織の表情が緩んでしまう。
(ふふ、小さい子どもみたい)
 流川の前髪が少し跳ねていることに気づき、ぽやぽや流川に警戒心を下げてしまった依織は、なにも考えずに彼の髪に触れた。
「もう、髪が跳ねちゃってるよ」
 頭を撫でるように髪を梳いて直す。子どもの世話をやくような声音と、細い指に触れられて流川はパチリと目をしばたたいた。
 なんせ図体が百九十に迫る男に向かって、そんな柔らかな声をかけてきた者は今までいなかったので。
 物怖じせずに声をかけてくること自体が稀なのに、そのうえこんなふうに子どもを見るように慈愛のこもった目を向けられたことはない。
 眠気も飛んで、わずかに目を瞠った様子の流川を、起きてくれたと喜んだ依織は屈んだ姿勢で見上げながら「あのね」と、それこそ子どもに言い聞かせるように話す。
「佐藤先生が数学のノート出して欲しいんだって。今持ってる?」
 初めてのことに呆気にとられていた流川だが、声をかけられて素直に頷いた。
「もし良かったら俺が渡してくるけど……」
「持ってるけど、書いてねぇ」
「……今日の授業?」
「今までの全部」
「ぜんぶ……?」
 四月から始まって一ヶ月あまりのこの期間全部?
 まさかと思って訊き返したが、流川が存外綺麗な目で頷くものだから、依織も「そっか」と頷くしか出来なかった。
 全く悪びれた様子がない。しかも、内心頭を抱えたくなるような気持ちで俯いた依織を、どうしたのかと首を傾げてみている。
 その双眸が子どものように澄んでいるから、依織のなかでどんどん流川が放っておけなくなって、勝手な庇護欲が溜まっていく。
「流川くんさ、今日も部活だよね?」
「おう」
「部活の後、疲れてると思うんだけど、おうちでノート全部写せる?」
 俺の貸してあげるから、と言うと、再び流川が首を傾げた。
(なんで? って思ってるんだろうな〜)
 そう察した依織は、すでに頭の中で五歳児認定している図体百九十の子どもに順を追って説明する。
「佐藤先生ってノートとか提出物も含めて成績つけてるの。だから、ノート出さないと流川くんの成績も悪くなっちゃう」
「ノートはある」
「うん。でも中身書いてないノート出しても怒られちゃうでしょう? だから、今日は忘れましたってことにして明日出しに行こう?」
 さすがに先生も一日ぐらいなら待ってくれるだろう。
「成績悪いと部活動にも響くし、流川くんもバスケ出来ないと困るでしょう?」
 首を傾げて訊くと、それは困るとばかりに流川が真剣な顔で頷く。
「じゃあ俺の板書したやつ貸してあげるから、今日だけ頑張って写してこれる? ちょっと量が多いけど……」
 依織のノート自体はすでに教師に提出してしまっているが、いつもルーズリーフに殴り書きして家で復習がてらノートにまとめているので、そのルーズリーフは残っている。
 ノートよりは乱雑だけれど、読めない字ではないので大丈夫だろう。
 ロッカーからファイルを持ってくると、その厚みにムッと顔をしかめた流川だったが「……分かった」と渋々頷いて見せた。
 あまりにも嫌そうな様子だけれど、ぐっと堪えて頷くから(そんなにバスケ好きなんだな)とちょっとほっこりする。
「もし読めない字があったら教えてね。結構走り書きが多いから……あ、今携帯持ってる?」
 流川が頷いたのを見て、依織は自分のスクールバッグから携帯を取り出す。
「連絡先、交換してもいい? 困ったことがあったら教えてね」
「分かった」
 お互いの連絡先を交換し、流川は画面に表示された名前をぽつりと読み上げた。
「依織……」
「ん? なあに?」
 それを呼ばれたと思った依織が、首を傾げて応える。流川は依織の顔をじっと見てから、目をそらした。
 子ども扱いされているのはなんとなく分かっている。だが、不思議と嫌な感じではない。
 これが赤毛のどあほうだったらすぐにでも手が出るところだが、依織にはこちらを馬鹿にしてくる意図はない。むしろ、温かな瞳で見つめられると、そわそわと落ち着かないようなぬるい温度が胸に広がった。
(……変なヤツ)
 渡されたファイルの重さにうんざりしつつも、依織の言葉が頭に浮かぶ。
 ――頑張って写してこれる?
 心臓をくすぐられているような、そんな気分になって流川は内心で首を傾げた。隣の席に戻った依織を追いかけるように目を向けると、気づいた依織が微笑みながら首を倒す。
「どうしたの? 流川くん」
「いや、なんでもねえ」
「そう?」
 普段、周囲にいるのがきゃーきゃーと甲高い声を上げる女と、これまた声のデカいうるさい部員ぐらいしかいないので、依織の穏やかで静かな声音は物珍しかった。
 聞いているうちに眠気に誘われるようだ。
(そういや、起きるときも別に嫌じゃなかったな)
 無理矢理に意識の覚醒を促されるのは嫌いだ。けれど、そっと耳に染みこむように名前を呼ばれて、深海からゆっくりと浮き上がるように意識を起こされたあの感覚に不快感はなかった。
 ――流川くん、ちょっとだけいい?
 優しい音が、耳の奥に蘇る。それを思い出していると再び眠気が襲ってきて、流川は再びうつらうつらと眠りの姿勢を作った。
 そんな様子を見ていた依織は、
(赤ちゃんみたい……)
 と声を押し殺すようにクスクスと笑っていた。
 鈴を転がしたような微かな笑い声を聞きつつ、流川はどこか心地よさを感じながらまた眠りに落ちた。

 このあと、ぽやぽやバブちゃん(だと思ってる)流川の世話をやくようになっちゃって、流川に懐かれるママ男主。面のいい母子(両方男)はクラス名物になる。
 「試合見に来て」って頼まれて見に行ったら、そこにバブちゃんの気配が一ミリもないどちゃくそに格好いい流川楓見てしまってドキドキして、恋しちゃった気持ちを「これが母性!!」って我が子の成長を喜ぶ保護者の気持ちだと勘違いする男主と、そんな男主に無自覚に矢印向けてる流川が見たい。

 今さら映画見てきました。ミリしらだったけどめっちゃ楽しかったです……。