かみさま、どうか3

 
 ノアを育て上げることが自分のお役目ではなかった。
 それはまるで天啓のようにアパルに降り注いだ。
 目の前が明るくなって、いつだって俯きがちだった視線が自然と上がる。
 だから――だからこそ気づけた。
 ノアが所属するバスタード・ミュンヘンの施設周辺には、広い公園があった。有名なプロチームの施設があるからか、そこには子どもたちが遊べるようにサッカーのゴールも設備されている。
 多分、そこの帰り道なのだと思う。
 ノアと並んで信号を待っているときのことだ。横断歩道を挟んだ向かい側に、サッカーボールを持った少年が数人いた。
 一人がノアに気づき、パッと目を輝かせる。
 他の少年たちにこそりと耳打ちすると、少年はみな顔を上げてノアを見ると、頬を紅潮させて興奮している。
「すっげーノアだ……!」
 そんな声が聞こえてきて、アパルの頬も緩む。赤ん坊のころから知るこの子が、こうして子どもたちから憧れられるような大人になったことが誇らしく嬉しかった。
 どれだけノアがサッカーが好きで、どれだけボールを蹴ってきたのか知っているから尚更に。
 じっと見ていることを悪いと思ったのか、チラチラと視線を寄越す子どもたちだったが、ノアに夢中なせいか手元が疎かになった。
「あっ」
 一人の手元からボールが転げ落ちる。軽く跳ねて道路に飛び出たボールを、少年は反射的に追いかけてしまった。
 そして、迫る車の走行音。
 その光景が、アパルの目にはひどくゆっくりと映った。
 薄暗くなった道を、真っ白な街灯が照らしている。それに目が眩んだのか、一瞬――ボールを追いかけた子どもの姿が愛しい子に重なる。
(ノア……!)
 気づけばアパルは腕から荷物を落とし、道路に駆け込んでいた。
 少年を両手で囲い、自分の体を丸めて守るように抱きしめる。車のブレーキ音が耳をつんざき、視界が車体で埋まる。
 ふわりと浮いた体。一瞬だけ垣間見えた空は、ずいぶんと綺麗な星空だった。
 衝撃とともに固い地面を転がった頃には、全身を痛みと熱さが駆け巡って意識を保つことが出来なくなる。
 腕の中の子どもは、呆然とした顔で起き上がってアパルを見下ろし、そうして火がついたように泣き出した。その声を聞きながら、アパルはゆっくりと目を閉じて意識を沈める。
(ああ、俺の役目はこれだったのか……)
 そう思った。そして、これでようやく母のところに行けるのだと、安堵した。
 車と接触する寸前のこと……ふいに目を向けた先で、ノアと目があった。いつ頃からか、大きく表情変えることがなくなった彼が、崖縁から突き落とされたような顔をしていた。
(そういえば……俺がひどい客に当たって怪我をして帰ったときも、あんな顔してたかも……)
 スラムの空は、いつも靄がかかったように汚くよごれていた。そんな夜明けの空を眺めながら、アパルはいつもノアが待つ家に帰った。
(……そっか。外の世界の空は、こんなに綺麗だったんだね)
 いつからだっけ? 母がいる空に――神さまに祈ることをやめたのは……。
 ノアを拾った後は、赤ん坊の世話に追われて、神さまに祈ることも母に祈ることもなくなってしまった。
「アパルッ!!」
 閉じた視界の中でやけに大きく届く声は、古びたアパートメントに響く子どもの声ではなくて――。
(一回ぐらい、一緒に空を見上げれば良かったね)
 そうして、大人になったノアと綺麗だねって笑いたかった。
 スラムを出てからは、いつも下ばかり向いていたから空がこんなに綺麗だって気づけなかった。
 今さら気づいてしまった。ようやく自分の願いが叶うって時に。
 途端、胸にある感情がわき上がってくる。
 どうしてだろう、とアパルは薄れる意識の中で思った。
 やっと母のところに行けるのに……嬉しいのに、ずっと望んでいたことなのに。
 どうして、死ぬことが怖いと思うんだろう。

 どうして、もう少しだけ生きていたいと思うんだろう。

 ◇◇◇

 スラムにだって、親子というものは存在する。
 たしかに大半が捨てられた孤児だったり、子どもを使って金儲けするような親だったりとろくでもない者が多かったけれど、そんななかでもちゃんと子を大事にしている親というものは存在していた。
「お母さん、今日ね今日ね」
 親の手を引いてはしゃいだように話しかける子どもの姿を、アパルは路地の隅で丸まって見ていた。
 どちらも衣服は汚れていた。綺麗な格好とはいえない。
 けれど、母を見上げる子どもの溌剌とした笑みも、子を見下ろす柔らかな母親の笑みも、どちらもアパルには眩しかった。
 その親子が通り過ぎ、アパルはそのまま座り込んでいたが、日が暮れ始めてようやく立ち上がって家路についた。
 母は普段は店や決められたホテルに行って仕事をしているが、馴染みの客は店を通さずに家で仕事をすることがあった。
「アパル、今日は外にいなさい」
 そう言って、母は朝早くからアパルを起こしてそのまま家の外に押し出した。
 多分、夜には店の仕事があるからそろそろ客は帰っているはず。
 そろそろと怯えながら家の中を覗くと、真っ暗で誰の気配もしなかった。客は帰り、母は店に向かったのだろう。
 家の中に入り、明かりも付けずにそのまま自分用の薄い布団を巻き付けて横になる。
(ママ、褒めてくれるかな……)
 言われたとおり外でじっと待ってたから。お仕事の邪魔をしなかったから。
 良い子だって、褒めてくれないかな――。
 冷たかった布団に自分の体温が移って、少しずつぽかぽかした温度に包まれる。うつらうつらしながら、アパルは母を思い出していた。
 母は美しい人だ。
 客の男と鉢合わせたとき、男は母をしきりに褒めていた。あれ以上の美人は見たことがない。
 黒髪と真珠のような肌のコントラストがいい。垂れた瞳の目元が赤くなるのがいい……。
 半分ぐらいはなにを言っているのか分からなかったが、母が美しいというのはアパルもよく知っていたので、嬉しくなって頷きながら聞いていた。
 店の従業員に呼ばれていた母が戻ってくると、アパルなんて目に入らないように男の手を引いて玄関まで見送ってしまう。
 母は決してアパルには向けない柔らかく甘い声で男に声をかけ、腕に触れて名残惜しげにしていた。
(……いいなあ)
 アパルには、触れてくれたことなんてないのに。
 その時のもやもやを思い出して、布団の中で体をぎゅうと丸くして目を固く閉じた。
 その瞼の裏に、昼間の親子が過る。
(いいなあ……俺だって、ママと……)
 真っ白な細い指で、触れて欲しい。
 柔らかな力で頭を撫でて欲しい。
 細い体で抱きしめて欲しい。
 あの子どもみたいに、母から愛されてみたかった。
 だから、母の言いつけは全て守ったし、家の手伝いはなんだってした。どれだけ良い子に過ごしたって、母は褒めてはくれない。
 ――だから。
 だから、母のように役目を全うして神さまに迎えに来て貰えたら……。
 そうしたら、今度こそ母はアパルを愛してくれるんじゃないかって、そう思っていたのだ。


 懐かしい夢を見ていた。
 アパルが重たい瞼を押し上げると、白い照明に照らされた、これまた白い天井が見えた。
 眩しさを覚えるぐらい真っ白な視界に、ここが天国なのかと思ったが、体に走った痛みにそうではないのだと自覚する。
 神さまは、お迎えに来てはくれなかったらしい。
 心の奥でそれに安心している自分に気づき、アパルはもう自分の気持ちを認めるしかなくなった。
 痛みに呻いたアパルの声に反応して、ベッド脇の人影が動く。
「アパル!?」
「……カイ、ザー?」
 思ったより掠れた声が出て驚いた。ゆっくりと首を傾けると、目が合った子ども――カイザーは青い瞳からぽろぽろと滴をこぼす。
「お、お前何日寝てたと……! 俺が、俺が……!」
 白い頬を真っ赤にして、カイザーが泣いている。子どもが拳を握りして耐えるように泣いている姿は見ていて気持ちの良いものではない。
 力を込め、なんとか持ち上げた手でその濡れた頬を拭う。すると、どうしてかカイザーは眉間に皺を寄せて更に泣き出してしまった。
「カイザー……泣かないで」
「お、俺が自分で動けなんて言ったから……だから、お前は死にかけたのか?」
 いつだって物怖じせず、ときには嫌味も混ぜて大人と言葉を交わす子どもの弱った声に、アパルはパチリと瞬く。
 なんのことだろう……と思って、そうしてすぐにあの日ロビーでした会話のことだと気づいた。
 ――少しは自分の意志で動いてみたらどうだ?
 そんなことも言われたっけ……とずいぶん昔のことのように思い出した。
「カイザーのせいじゃないよ。きっとお前と話していなくたって、飛び出していたと思う……ううっ」
「お、おい! 起き上がるな! ひどい怪我だったんだぞ!?」
 痛みを耐えて上体を起こす。カイザーはらしくない心配した顔で、腰を浮かせてアパルの背中に手を当てた。
「心配してくれたんだね」
 微笑んで言うと、カイザーはまたぐっと顔に力を込めて涙を浮き上がらせた。ほろりと一粒落ち、それを乱暴に拭ってそっぽを向いてしまう。
「別に……お前がいつまでも起きないから……」
 素直じゃないその仕草も、赤くなった目元を見ると愛らしくてたまらない。
 アパルはブロンドの髪に手を回し、子どもの体を抱き寄せた。
「ありがとう、カイザー」
 そっと囁けば、カイザーは肩を震わせてそのままアパルの胸元をぎゅっと握りこんだ。
 泣き声も上げずに堪えるカイザーを抱きしめて宥めていると、花瓶を持ったネスが病室に入ってきた。
 どうやら花に水を入れてくれていたらしい。起き上がったアパルに目をとめ、声も出せずに口をパクパクと動かす。
 そうしてもつれた足で駆け込んでくると、デスクに花瓶を置き、その勢いのままベッドに手をついて身を乗り出した。
「起きたんですか!? 何日経ったか分かってますか!?」
 死にかけてたんですからね!? といつものように苛立った子どもの声に、安堵が隠れていることが窺えて、アパルはもう一方の手でネスの頬に手を添えた。
「ごめんねネス。心配してくれてありがとう」
 子どもの円やかな頬を撫で、癖のある赤毛に手を差し込んで撫でると、丸い瞳に膜がはって潤んでいく。
「し、心配なんてしてません! 練習施設の目の前で死なれちゃ迷惑なんです! どれだけビックリしたと思ってるんですか!」
 そうは言いつつも、ネスは手を払いのけはしないし、されるがままアパルの肩口に額を押し当ててきた。
(この子たちが、こんなに甘えてくるなんて珍しい……)
 たまには死にかけるのもいいかもしれない、と知られたらこっぴどく怒られそうなことを一瞬だけ考えてしまった。
 二人は子どもにあるまじき下手くそな泣き方で静かに涙をこぼし、そうしてそのまま糸がきれたように揃って寝てしまった。
 隈があったので、もしかしたらしばらく寝ていなかったのかも知れない。
 すでにプロ意識の高い二人は、睡眠を疎かにするとは思えない。
 なにかあったのかな、と考えて、もしかして自分のせいだろうか? と頭に浮かんだ。
 左右からアパルの膝元に寄りかかって眠る二人の子どもを見下ろし、そっと髪を梳く。
(そんなに、心配してくれたんだ……)
 そう思うと、胸がくすぐったくなる。
 アパルは、すでに二週間ほど眠っていたらしい。
 アパルが庇った子どもは、擦り傷だけで大した怪我もなく無事だったようだ。
 事故から数日はノアがつきっきりで他は面会謝絶状態だったと、カイザーもネスも怒っていた。
 しかし、さすがにチームを代表する選手が二週間も仕事を休めるわけもなく、ノアはできる限り病室にはいるそうだが、今日はタイミング悪く外に出ていると面白くなさそうな二人が教えてくれた。
 担当の医師には、子どもたちが寝静まった後にひっそりと診察をしてもらった。とりあえず詳しい検査をもう一度すると言われたが、子どもたちがいるため少しだけ時間を遅らせてもらう。
 家族として登録されているノアには、病院から連絡を入れておいてくれるらしい。
 目覚めたときにはまだ日が高い位置にあったが、今じゃ色を濃くした夕日が半分沈んでいる。
 子どもたちがどうやってこの病院まで来たのか分からないが、そろそろ帰らせたほうがいいだろう。
(気持ちよく寝ているところを起こすのも忍びないけど……)
 さすがに日が暮れてから帰すのは心配だ。
 そう思って、アパルが子どもたちに触れようとしたとき――。
 病院内なのに、ずいぶんと慌ただしい足音が近づいてきた。
 医療関係者だろうか? なにかあったのかな、と心配していると、その足音は真っ直ぐにアパルの病室までやってきてずいぶんと乱暴にドアを開け放った。
「……ノア?」
 この子が肩を大きく上下している姿を見るのはいつぶりだろうか。
 どこから走ってきたのか分からないが、ノアは練習着に上を羽織っただけの状態で、荒く息をしながらも目を瞠ってアパルを見ていた。
「アパル……」
 ふらりと大きな体が揺れ、足取りも覚束ない様子でノアが近づいてくる。ドアの音で目を覚ましたカイザーとネスは、眠そうに目をこすっていたが、現れたのがノアだと分かると、ムッとしつつもノアのために道を開けた。
 倒れ込むようにノアがベッド脇に膝をつき、アパルを見上げて頬に触れてくる。
 男らしい皮膚の厚い指が、怖々とアパルの輪郭を撫でると、いつだって冷静な面持ちがくしゃりと歪んだ。そうしてアパルの体をかき抱いてぎゅうぎゅうに抱きしめるノアに、アパルは訳も分からず目を瞬いていた。
 そんな二人の様子に、ネスとカイザーは目配せし合って肩を竦めると、「また来る」と短く言い残して去ってしまう。
「き、気を付けて帰るんだよ」
 ノアの腕の中、アパルはなんとかそれだけでもと子どもたちの背中に告げる。
 扉が閉まり、二人きりになった病室に沈黙が走る。アパルは首を傾けてノアの様子を伺うが、隠れてしまって表情が見えない。
「ノア……?」
 小さく呼ぶと、のろのろとした動きでようやくノアが顔を上げた。
「顔がぐちゃぐちゃ……」
 こんなに泣いてる姿を見るのはいつぶりだろう?
 クスリと笑い、アパルは子供の頃のノアにしていたように、指の腹で濡れた頬を拭って目元にキスを落とした。
 今までの無気力な姿と打って変わって、昔のような温かさをもって和やかに笑むアパルの姿に、ノアは驚きつつもその手の懐かしさを享受していた。
「この二週間、どんな気持ちだったと思う」
 ぽつりと落ちた呟きに、アパルは口ごもる。
 迷惑も心配も、きっとたくさんかけたと分かっているからだ。
「そんなに死にたかったのか?」
 責めるような声音を孕んだ低い音に、アパルは息を呑んだ。
 同時に、やっぱりノアには気づかれていたんだな、と納得する。
 決してアパルを一人で外に出すことはなかったし、長期間家を空けるようなことも無く、どこへ行くにも自分の目の届く範囲に必ず留めていた。
 きっと目を離した隙にアパルが手の中からこぼれ落ちていくと理解していたのだ。
「分かってる。きっとお前はなにがあっても子どもを助けに飛び出しただろう……だが、死にたいとずっと思っていたのは事実だ」
 ――そうだろう?
 濡れたノアの瞳は、鋭くアパルを見据える。その瞳の強さに、嘘も誤魔化しも通用しないと分かった。
 躊躇いつつもこくりと小さく頷くと、ノアはアパルの両手を痛いほどに握りしめ、まるで祈るように下げた頭を押し当てた。
「そんなに母親のことが好きか? お前のことを愛しも、抱きしめもしてくれなかった女のことが、そんなに恋しいか?」
 憎しみを押し殺した男の声に、アパルの呼吸が今度こそ止まった。
(どうして、ノアがママのことを知ってる?)
 誰にも言ったことなんてなかったはずだ。
 驚愕を表すアパルの顔にその心情を察し、ノアは苦笑して昔のことを話す。
「お前は昔から俺に愛情表現を惜しまなかった。覚えていないかもしれないが、なぜだと昔訊いたことがあるだろう? その時お前は自分がこうして貰うと嬉しいからだと言っていた」
 ああ、たしかにそんなことがあった気がする。
 うっすらと思い返される昔の記憶。ノアが、まだアパルの腕の中に収まるほど小さかった頃の記憶。
 帰宅したアパルは、自分の小さな体でさらに小さなノアの体を抱きしめてキスを送るのが日課だった。
 くすぐったそうに身をよじるノアは、ちょっと迷ったようにアパルを見上げてそっと訊ねる。
「アパル……アパルはなんで俺にいつもキスをするの?」
 本当は愛しているからだと答えて欲しかったノアの心情など知らず、アパルが思い出したのは母と住んでいた頃の自分のこと。
 触れられた記憶も、抱きしめられたことも、優しい声をかけてもらったこともない――そんな記憶。
「……それは、俺がママにこうして欲しかったからかな」
 考えるよりも前にぽつりと出てしまった言葉。
 いつだってどこにいたってノアから外れることのない美しい瞳は、その時だけはノアではなくどこかへ向けられる。子どもながらにその視線の先に嫉妬心を抱いたノアは、それ以降アパルに同じようなことを訊ねることはなかった。
「俺のほうがそんな女よりもお前を愛している……なのに、二十年以上経っても俺は、顔も知らない女に勝てないのか!?」
 聞いているこちらの胸が痛むような、そんな悲痛な叫びだった。
 痛いほどに握りしめられた手から、ノアの震えが伝わる。悔しさ、虚しさ――色々なものが混ざったノアの感情に直に触れ、アパルの心がじわじわとほぐれていく。
「愛してる……お前に死んで欲しくない……どうしたらお前は、俺を愛してくれるんだ?」
 どうしたら、生きようと思ってくれるんだ?
 ノアの掠れた慟哭が耳を伝い、心臓にしみこんで胸を温める。
 スラムの外に出たあの日に一度死んだ鼓動が、息を吹き返していくのが自分でも分かった。
 赤ん坊だったノアに出会った日も、母が死んで止まっていた鼓動が再び動き出した。
 ――私の役目は、アンタが独り立ちするまで育てること。
 母の顔が思い出せなくなったのはいつのことだろう。
 記憶にあるのは真っ赤なルージュの引かれた唇と、その言葉。鮮烈なその赤い唇が、アパルへの愛を語ってくれたことは一度だってなかった。
 ――神さま、俺の役目はなんですか?
 母と同じ天国に行きたかった? 違う。役目を果たせば、母はアパルを愛してくれると思っていたんだ。
 役目が欲しかったんじゃない。母に愛して欲しかっただけ。ただ、一度でいいから抱きしめてキスをして欲しかった。
 そんなこと無理だって知りながら、見ない振りをしてただそれだけを求めた。
 だって、それだけがアパルの生きる道しるべだったから。
 それを失ったら、自分は生きていけないと思っていたから。
 母の愛を求める以外の生き方を、アパルは知らなかったから。
 だから、こんなに近くにあった愛を見逃していた。
 いつだってアパルが生きてこられたのは、ノアがいてくれてくれたから――この子が愛してくれていたからなのに。
「なあ、アパル……俺の神さま。お前はいつも上ばかり見ているが、そろそろ俺の元に降りてきてくれないか?」
 陽が沈んでしまった暗い病室の中で、ノアの金色の瞳だけが眩しかった。
 キラリと光るその輝きに、事故の時に見た美しい夜空の星を思い出す。
 ――どうして死ぬことが怖いんだろう。どうしてもう少しだけ生きていたいと思うんだろう。
 死が過った間際に浮かんだ感情たち。どうして? どうしてって、そんなの――。
(そんなの一つしかないじゃないか)
 どちらのものか分からない鼓動が、トクトクと体に響く。温かい体温に、今はほっと安堵する。
 生きていて良かったと、この気持ちに気づけて良かったと心底安心している。
 されるがままだった手を握り返す。すると、ノアの金色の瞳がわずかに見開かれた。
「ノア……あのね、」
 はらりと白い肌を滑り落ちていく涙の美しさに、ノアは息を呑んだ。
 内緒話でもするようなささやかな声は、しかしはっきりとノアに届く。
 昔のように感情の載った双眸が、ノアを見つめて柔らかく細くなる。それだけで、ノアは幸福を覚えるのだ。
「死んじゃうなって思ったときにね、ノアのことを思い出したの」
 一回ぐらい、スラムの外の空を一緒に見上げたかったなって。
「おかしいよね。死にかけて初めて、一緒に空を見上げたこともないって気づいたの。こんなに綺麗なら、ノアと一緒に見ておけば良かったって……」
 ときおり鼻をすすりながら、優しく紡がれる言葉にノアの鼓動が期待で速まる。
 自分はなにを聞いているのだろうと、耳を疑った。
「死ぬときになって、もうちょっと生きてたいなって思ったの。死ぬのが怖いなって」
 弱まったノアの手からするりと抜き取り、アパルは目の前の男の頬を細い手で包む。
 そうしてコツリと互いの額を押し当てた。
 アパルの長い睫毛が瞬くと、迫り上がった涙がノアに頬に落ち、そのまま伝っていく。
「死にかけて、気づいたんだ。ノア、俺はずっと……ずっと昔からきみのことを愛しているよ」
 役目もなにも関係なく、この子はずっと昔から、アパルにとってたった一人の天使だった。
 自分のもとに幸福を運んでくれる、この子がいるだけで幸せになれる。そんな愛おしくて可愛い子。
「愛してるんだ、ノア」
 愛おしさを込めた甘やかな声で再び名を呼ばれたノアは、その衝動のままに腕を回し、下から喰らいつくようにアパルと唇を合わせた。
 苦しげなアパルの呼吸ごと全て奪うような乱暴なキス。それでもアパルは、決して抵抗しようとはしなかった。
 スラムを出るあの日――抵抗するアパルを押さえつけ、無理矢理に体をつなげ意識を奪って外の世界へと連れ出した日のことを思い出してノアはひっそりと涙をこぼした。
 アパルの呼吸が限界を迎える頃になってようやく口を離す。涙目で荒く息をつくアパルをベッドの背もたれに寄りかからせ、その手を握りしめた。
「本当に、俺を愛しているのか?」
「きみのことを愛してるよ」
「本当に?」
 疑い深いノアに、アパルはわずかな後悔を滲ませつつ、困ったように笑った。
「本当にノアのことを愛してる。ノア以上に愛してる子なんていない。死ぬのが惜しいと思うくらい、ノアのことが好きだよ」
 自分は夢でも見ているんじゃないか?
 そう思うほどに、ノアは感極まっていた。
 いったいどれほど顔も知らない女を憎んだことか。その肌に触れることを許された男を憎んだことか。
 自分を見ないアパルを恨めしく思うことだってあった。
 それでも手放せなかったのは、アパルを愛していたからで、この男が他の誰かのものになるのが許せなかったからだ。
「前にも言ったが、俺はお前を手放すつもりはないし、他のヤツを見ることは許さないからな」
 本気だと伝えるために、普段よりも重苦しく低く伝えた言葉に、アパルはきょとりと目を瞬く。
 そうして、ふっと愛おしさの滲んだ顔ではにかんだのだ。
「大丈夫……俺の天使。お前が生まれたときから、俺はお前以外を見たことはないよ」
 嬉しいことを言うその小さな唇を、ノアは再び自分の吐息で包み込んだ。
 

 
 


 ひとまずノアのお話はここで完結です。

 一話の時点でここまでは想定していなくて、一話の後書きとはちょっと違う展開になったな〜と思うので、諸々矛盾点はあとで修正かけるかもしれません。

 男主の愛は、恋愛と家族愛の間ぐらいですが、ノア以上に愛している子はいないので二人はパートナーとして成立します。
 それはそれとして、子どもには甘い男主なので、カイザーやネスを今まで以上に甘やかす姿にムムッとするノアはいますし、今後の展開として、ブルーロックプロジェクトで一緒に日本を訪れた男主が、日本の高校生たちをいい子いい子して回って、その未亡人みのある美しさで誑し込み、それに俺たちのママ()ですけど?するカイザーとネスに、感情表現が豊かに戻って以来、色んなところで誑し込み案件を持ってくる男主に胃痛がするノアはいます。