片恋、初恋



 クラスには綺麗な子も可愛い子もそれなりにいた。
 それこそ、同級生の男なら一度は恋したことがあるような、そんな女の子もいた。
 けれど、そんな女子生徒たちなんて目に入らないぐらい、リョータは依織に目を奪われていた。
 兄であるソータの友人として、依織が宮城家を訪れたあの日。
「こんにちは。弟くん?」
 膝に手を置いて腰をかがめた依織は、リョータの瞳を覗き込んでそう言った。
 兄ほどではないが、リョータよりは背が高かった。
 でも、兄みたいに筋肉がないほっそりとした体のその人は、男というにはあまりに柔らかで、しかし女というには甘さの少ない、そんな綺麗な人だった。
「こんちは……」
 柔和な笑みで見つめられて、リョータはか細く挨拶だけを辛うじて返した。
 さらさらの黒髪が白い肌の上を滑って流れていく。
 黒い髪を流れる光の波を見ているだけで、リョータの心臓はバクバクする。
 長い睫毛が上下するたびに音が聞こえてきそうだった。
 弟の様子から何かを察したのか、ソータは苦笑しながらリョータの頭を撫でた。
「こいつ人見知りだから緊張してるっぽいわ!」
「あ、そうなの? ごめんね、急に怖かったよね」
「いや……んなことは別に……」
 怖い、という単語に過剰に反応して、リョータはぶすくれた顔で否定する。
 それでも目の前の綺麗な人を見ることは出来なくて、リョータがあんまりに目を合わせないものだから、依織はその否定を兄の友人への気遣いだと思った。
 微苦笑して、「ごめんね」と表面だけを撫でるようにリョータの髪に触れて、ソータの部屋に行ってしまった。
 そうやって、依織は時々ソータと遊びに宮城家にやってきた。
 たまに隙を見て、リョータやアンナとも遊んでくれた。
 バスケは下手くそで、いっつも足にボールを当てて飛ばしてしまう。
 わたわたしながらボールを追いかける依織の姿を、ソータは顔をくしゃくしゃにして笑って見ていて、ふいに――すごく大人びた静かな瞳で追いかける。
 その頃のリョータには、ソータの目に浮かぶ感情が、愛おしさだとは気づきもしなくて、らしくない顔だな……と人知れず思っていた。

 ソータと依織は、きっと好き合っていたのだと思う。
 いつだって兄貴面して兄弟の先頭に立って歩いていたあの人は、依織の傍でだけはただの子どものように甘えていたから。
 父が死んで、母の背中に手を添える兄は頼もしかった。けれど、傷ついて悲しんでいたのは兄も同じだったことにリョータは気づかなかった。
 兄の姿を探して行った洞穴で、兄――ソータは依織に縋るように抱きついて泣いていた。
 そのときの自分の衝撃といったら……。ガツンと頭を打たれたような気持ちだ。
 依織は一回り大きい兄を胸に抱き寄せて頭を撫でていて、ソータもソータで細い依織の体にしがみつき、弱さをさらけ出していた。
 胸がざわついて、ノイズのようなものが視界に入った。まるで、目の前の現実から目を逸らそうとするように。
 兄のあんな弱い姿が、ショックだった。
 見たくなかった。泣いている姿を見たら、いつだってシャンと背筋を伸ばして立つ兄の背中を、これからどういう気持ちで見ればいいのか分からない。
 いつだって兄に寄りかかって頼って生きていたのに、これからはそう出来なくなってしまう。
 なんで泣いてるんだよ。と、子どもながらに自分勝手な怒りさえ抱いた。
 リョータは、結局声をかけることなく忍び足で洞穴を後にした。二人は、リョータには気づかなかった。
 行かなきゃ良かった、と後悔を抱えつつ、リョータは砂浜に足を取られながら走って家に帰った。
 ソータの弱い姿を頭から追い出そうと必死な中、心の奥の奥――ほんの片隅で、兄に嫉妬している自分に気づく。
 父が死んで悲しんでいる兄に嫉妬していることに、愕然とした。
 リョータが、自分の恋心に気づいたのはその時だ。
 そうしてしばらくしてソータが海難事故で死に、この恋心は殺すしかなくなった。


 ミニバスでの試合帰り、観戦に来ていた母とアンナは先に帰っていたので、チームメイトと解散したリョータはとぼとぼと一人で歩いていた。
「リョータくん?」
 目の前から届く呼び声に顔を上げる。
「あ……依織さん……」
 正面から、高校の制服を着た依織が笑って近づいてくる。
 半袖のシャツから覗く、細い腕がひらひらと振られる。白い肌に、ドキリとした。
「あ、試合だったの?」
「……うん」
「懐かしい。ソーちゃんも、同じ色のユニフォーム着てたっけ」
 微笑んで細くなった瞳に、懐古の色が浮かぶ。ソータを思い出している目だ。
 ――兄貴とは違うな。
 体育館で聞こえた声が、ふいに耳の奥に返ってきた。
 この人も、俺に兄を重ねてるんだろうか。
「……どうせ、俺は」
 無意識に言葉が漏れる。
 依織にはなにを言ったのかまでは聞こえなかったみたいで、首を傾げている。
 これ以上一緒にいると、変なことを言ってしまいそうだ。
「じゃあ……」
 と、心ばかりの挨拶と会釈で振り返らずにさっさと歩き出す。
 けれど、なにを思ったのか依織はリョータの後を追ってきた。
「リョータくん? どうしたの? 試合負けちゃった?」
 浮かない顔をしていたから気にしているらしい。
(ほんとお人好しだよな)
 心の中で、そう吐き捨てた。
 ソータがいれば、リョータは友人の弟だったろうが、今じゃその間を取り持っていたソータはいない。
 リョータと依織には、なんの関係もない。わざわざ気にしなくたっていいのに、依織は他人――それも年下にはよく気を配っていた。
 昔からそうだった。
「負けたけど。別にそれが理由じゃねーし」
「じゃあ、どうしてそんな悲しそうな顔してるの?」
 訊いてるのは自分のくせに、依織のほうが泣きそうな顔をしている。
 眉が八の字を描いて、腰を折ってリョータと合わさった瞳が、艶めいて心配そうに見てくる。
 どんな顔をしてても、この人は綺麗だ。
「俺は、ソーちゃんみたいに背も高くないし、バスケも上手くない……ソーちゃんみたいにはなれない」
 立ち止まり、低く恨めしそうに呟く。
 これで幻滅してどっか行けばいいのに。そう思った。
 なのに、依織はきょとりと瞬いたあと、慰めるようにリョータの肩に触れて儚く笑んだ。
「ソーちゃんみたいになる必要はないよ? リョータくんはリョータくんだもん」
 なれなくて当たり前なのだと、依織は言う。
 どうしてだろう。ソータと重ねられることは辛かったはずだ。自分を見て欲しいと思っていたはずだ。
 なのに、それを依織から言われると、無性に腹が立って仕方なかった。
(なんだよそれ。あんなに泣いてたくせに……)
 頭に浮かぶのは、ソータの葬式に訪れた依織の姿だ。
 下ろしたばかりの中学の制服を着て、依織は会場の隅でずっと座り込んで泣いていた。
 母は喪主で忙しく、参列者の人と話をしていたから、リョータとアンナは二人で手を繋いで寄り添っていた。
 ぞろぞろと焼香の列を眺めながら、どうしても依織の姿が視界をちらつく。
 リョータよりも大きい体が、これ以上ないと言うほど丸くなって、そのまま小さくなって消えてしまいそうだった。
 ときおり顔を上げては会場前方に置かれたソータの遺影を捉え、そうしてまた顔をしわくちゃにして溢れた涙を隠すように背中を丸めてしまう。
 いつも白く眩しい肌は、今は心配になるほど青白い。さらさらの黒髪は、濡れた頬に張り付いてぐちゃぐちゃだった。
 リョータは、それを遠目にぼんやり眺めていた。
 いつだって綺麗なその人は、泣いているときですら目を奪われるほどに美しくて、そして、兄が死んだことでそれほど取り乱している事実に、ジリッと心の隅が焦げ付いた。
「あ、依織くん」
 気づいたアンナが、リョータと繋がった手を引っ張る。依織に懐いているアンナは、そのまま駆け出そうとしたが、リョータが腕を引いて押しとどめた。
「いまはやめとけ」
「なんで?」
「泣いてるから」
 その事実を言葉にすることが、ひどく口を重たくさせた。
「なんで泣いてるん?」
 リョータよりもさらに幼いアンナは、ソータが死んだことをよく理解していなかった。
 それを分かっているはずなのに、リョータは責められているように感じてしまう。
 ぐっと唇を引き結んだ。体が強ばって力が入ったからか、アンナに「腕痛いよリョーちゃん」と訴えられる。
「わりぃ……」
 小さく謝ると、けろりとした顔でアンナは頷く。さっきの質問なんてもう忘れて、ぼんやりした顔で依織を眺め、
「依織くん、いっぱい泣いてるね」
 と、呟いた。
 そのうち母が二人の元に戻ってきて、アンナを抱き上げた。
「ありがとリョータ。アンナのこと見ててくれて」
「別に……」
 元を辿れば自分のせいなのだから。そう思って、でも言えなかった。
 母の赤い目元を見ていると、ソータのことを話題に出せなかったのだ。それを言って、母からどんな目で見られるかが怖かった。
「お母さん、おしっこー」
「ええ? トイレどこだったかしら……」
 慌てた様子でアンナを抱えた母が会場外のお手洗いに向かう。
 一人になったリョータは、そろりと人の合間を縫って、まだ小さくなっている人影に近づいた。
 パイプ椅子の上で、揃えた膝に額を押し当てて丸くなっていた依織のもとに辿り着き、そろりと腕を伸ばした。
 ――依織さん。
 背中に触れて、そう呼びかけようとした。
 リョータの指先が恐る恐る依織の背に触れ合おうとしたとき。
「ソーちゃん……」
 聞こえた呟きに、リョータの動きが止まる。
 見開いて目でよくよく見ると、依織の体は震えていた。
 耳を澄ますと、ソーちゃん、ソーちゃん……と、か細い泣き声が届く。
 ソータを求めるように、何度も何度も祈るように、膝の上でハンカチを握りしめた両手に額を押し付け、ずっとずっと依織はソータを呼んでいた。
 リョータは結局声をかけることは出来ず、震える背中を呆然と見下ろして静かに離れた。
 その時の心情をどう形容していいのか分からなかった。
 嫉妬心や怒り、そして想いあっていた二人を引き裂いたという絶望――。
 色んな感情がごちゃ混ぜになって存在を主張しては、リョータの胸にぽっかりと穴を開けていった。
 そのときの穴は、きっと中学に上がった今になっても塞がってない。
 いつだってリョータの頭の片隅には、あの頃の依織が体を丸めて泣いている。
 ソータを失って悲しい悲しいと。まるでリョータを責めるみたいに。
「ソーちゃんじゃなきゃ、意味が無いから?」
「え?」
 突然の問いに、依織は虚をつかれた様な顔をした。
「ソーちゃんじゃないなら、意味が無いんだろ。俺がソーちゃんみたいになったって意味無いもんな」
「リョ、リョータくん? どうしたの急に」
「俺じゃ意味がないって分かってるくせに、俺を見てソーちゃんを思い出すなよ……」
 ――ソーちゃんも、そのユニフォーム着てたっけ
 希望を持たせるな。もしかしたらソーちゃんの代わりに好きになってくれるかもなんて、くだらない希望を見せるなよ。
 兄のことが好きだった。たった一人の兄貴だったから。いつだって頼もしくて、眩しくて、前に立っていて欲しかった。
 好きだったのに、依織が絡むとリョータはソータのことが好きだと思えなくなる。
 家族へ向ける温かな感情も、失ったことへの悲しみも、全部が醜い黒い感情に覆われてしまう。
 握った拳が音を立てるほどで、依織はリョータの様子に困惑しつつも慌ててその手を取って開かせようとする。
(あんたのそういうところが……)
 誰彼構わず優しいところが好きで――嫌いだ。
「そんなに握ったら……ほら赤くなってる」
 触れられた手を、逆にリョータがつかみ返す。
「あっ」
 驚いた依織の声を聞きながら、リョータは強引にその体を引っ張った。
 丸くなった瞳が、長い睫毛が、すぐそばで瞬く。
 勢いを付けすぎたせいか、柔らかな唇の熱に混じって鉄の味がした。
 刹那にも満たない触れあいだけですぐに離れると、依織は目をぱちくりさせて呆然としている。
 わずかに切れた口元から血が出ていて、紅を引いたように唇を赤く染めていた。
 今しがた、あの熱に触れていたのだと思うと、胸がカッと熱くなった。そして、同じぐらいやってしまったと痛感する。
「リョータくん? どうして……」
 狼狽えるなよ。嫌悪しろよ。急に男にキスされたんだぞ。
 なのに依織はおろおろするばっかりだ。
 こっぴどくなじってくれればいいのに。不快だと言ってくれればいいのに。
 そんなことを言う依織を想像することも出来ない。だってこの人は誰よりお人好しで、リョータのことをそれなりに可愛がってくれているから。
 依織はそんなこと出来ないと知ってるのに、腹が立つ。
 いつだって優しくて人のことばっかりな依織にも。死んでしまったソータにも。
「なんで死んだん? ソーちゃん」
 情けなく震えた少年の声に、依織はハッと息を呑んだ。動きを止めた彼に、これ幸いとリョータは走って背を向けた。
 遅れて、あの声が自分だったのだと気づく。
 ――なんで死んだん? ソーちゃん。
 バスケ、また今度って言ったのに。
 ソーちゃんがキャプテンで俺が副キャプテンて言ったやろに。
 依織さん、馬鹿みたいに泣いてたんぞ。なんで泣かしてるん。
 なんで、なんで――。
 訊きたいことばっかり増えていって、リョータの胸を埋め尽くしていく。なのに、答えをくれる人は一生帰っては来ない。
 悲しみも絶望も、全部心の穴に消えて感じることもない。
 ――なあ、ソーちゃん。なんで死んだん?
 ソータがいれば、自分は望みなんて抱かなかったのに。淡い初恋で消えるはずだったのに。
 いつだって依織の隣で、自分のものだと当然な顔で主張してくれていれば、リョータの中の小さな芽は、そのまま育つこともなく消えてしまったかもしれないのに。
 ソーちゃんなら仕方ない。リョータはそう思っていたのに。
「馬鹿ソータ……ばかソータ……」
 こんなファーストキスなんて、しなくて良かったかもしれないのに。
 走って風を切るリョータの目に、涙が浮かんですぐに弾けた。
 汗がにじみ、風が当たって体は冷えていく。
 それなのに、唇だけがやけに熱かった。

 そう経たずに神奈川に引っ越すことになり、依織とはあのキスした日に会ったのが最後になった。

 なのに、リョータの頭の中から依織が消えてくれることはなくて、あの日の赤い唇と触れた柔らかさがいつまでも居座り続ける。
 そのせいで彩子に告白したって「他の人のこと考えてるでしょ」なんて言われてしまう始末だ。
 時が経てば苦い思い出として昇華されていく。そう思っていた。

 けれど――。

「リョータくん?」
 部活帰り。大きなスポーツショップがあるからって、わざわざ電車に乗って訪れたショッピングモールでのこと。
 あの頃と変わらない落ち着いた穏やかな声が聞こえて、耳を疑った。
 前を行く桜木たちの馬鹿でかい声も聞こえなくなって逸る気持ちで振り返る。すると、やっぱりそこには依織がいた。
 少し背が伸びた気がする。
 リョータだって成長したけれど、わずかに依織のほうが目線が高い。でも、やっぱり体は細くて、肌は相変わらず日焼けを知らない。
「ごめんね、急に声かけちゃって……ビックリしてつい……」
 我に返ってわたわたと焦る依織は、幼さのなくなった大人の顔をつきをしていた。
(そっかもうハタチだもんな……大人だよな……)
 そんな当たり前のことをどうにか飲み込んで、リョータは震える口を動かす。
「依織さん……」
 それしか言葉にならなかった。呼ばれた依織はほっとしたように表情を緩めて微笑む。
 心臓が、大きく動いた。
 鎮まっていた感情が、息を吹き返す。
 あの日の血の味が、口の奥で広がった気がした。
 初恋のその人は、昔と変わらず綺麗なままリョータの前に現れた。