小さいけれど。


 陽がわずかに色を濃くし始めたころ。
 無一郎は自身の担当地区内の藤の家を訪れていた。
 呼び鈴に応じてガラガラと戸を開けて現れたのは、腰の曲がった老齢の女性だ。普段、いの一番に顔を出す青年ではないことに、無一郎はほんの少しだけ目を見開いた。
「あらあら霞柱さま。いらっしゃいませ」
 ゆったりとした動きで頭を下ろす女性に、無一郎は簡潔に告げる。
「日が暮れるまで、置いてくれる?」
「ええ、ええもちろんでございます。夕餉は食べてから行かれますか? 湯浴みはどうしましょうか?」
 無一郎の管轄内だけあって、こうして訪れるのは初めてではない。
 そのため老婆も慣れたように問いを重ねる。
 日暮れ前に現れたときは、大体夕餉か湯浴みを済ませて任務に出立すると分かっているからだ。
「夕餉だけでいいや……湯浴みは任務が終わってからまた来る……」
 静かに俯いていた無一郎の視線が、ふいになにかを探すように揺れる。
 それを見た老婆は、微笑みを深くした。その瞳が求める先になにがあるのか、心当たりがあるからだ。
「依織さんなら今は買い出しに行かれてますよ……でも、そういえば遅いですね」
 笑みを浮かべていた老婆は、途端に憂い顔になって門のほうを見やる。
「そんなに遅いの?」
「普段ならとっくに帰ってきていてもおかしくないころですね……」
 そこで、老婆はなにかを思いついたように「ああ、もしかしたら」と声を上げた。
「なにかあるの?」
「いえね、最近市場のほうで人に声をかけられるそうで……その男性が断っても断ってもついてくるとぼやいていたので……」
 きっとそのせいかも――と、老婆が続けるよりも早く、無一郎は身体を翻し、門の外へと出て行く。
「霞柱さま……?」
 もしや? と思いつつも老婆は小柄な背中に戸惑いの声をかける。無一郎は首だけで振り返り、「見てくる」と言葉少なに市場のほうへと向かっていった。
 少年の姿が消えた門を眺め、老婆はそっと微笑ましく笑みを浮かべた。そうして、揃って帰って来るであろう二人のために夕餉の支度へと繰り出した。
 

(ああ、どうしよう……)
 市場の喧噪から少し離れた路地で、依織は足を進めることも出来ずに困り果てていた。
「ねえ、まだ日も暮れてないし少しくらいいいだろう?」
 通せんぼするように壁に手をつき、依織を窺うのは市場でときどき顔を合わせる男の一人だ。
 依織とそう変わらない背丈だが、男のほうが厚みがある。押しのけて通り過ぎるのは難しそうだ。
 この男との出会いはほんの一ヶ月ほど前のことだ。男の落とした財布を依織が拾ったことがきっかけだが、どうしてか男は依織を見かける度にこうして声をかけてくる。
 最初のうちは依織も立ち話に応じていたが、それが食事や家への誘いになり、言動に強引さを滲ませるようになってからは極力顔を合わせないようにしてきた。
 それなのに、男はまるで待ち構えていたように依織が買い物に出る度にこうして目の前に現れる。
「本当に困ります。まだ仕事が残っているので……」
「仕事ってあの屋敷の手伝いだろ? いつもそう言うな。もしかしてこき使われてつらい目にあってるんじゃないか? 俺だったら助けてあげられるけど?」
 鬼殺隊は政府非公認の組織であり、それに与する藤の家も一般的にはただの家紋を掲げた屋敷でしかない。
 詳しいことをこの一般人の男に言うことは出来ない。言ったところで、理解されるとも思っていない。
 しかし――。
(なにも知らないくせに……)
 依織は、胸に抱いた鞄をぎゅっと握りしめた。
 傷つきながらも鬼の討伐を行う隊士たち。いつだって和やかに依織を受け入れてくれる老婆。優しい心をもつあの人たちを、馬鹿にされたような気がしたのだ。つらい目にあっているなんて間違いも甚だしい。依織は、あそこが世界で一番優しい場所とすら思っているのに――。
 今だって早く家に帰って老婆の手伝いをしなくてはならないのに、この男に足止めされて腹立たしい。
 穏便に済ませようと思っていた依織だが、こうも何度となくしつこく付き纏われては怒りたくもなる。
「あなたの誘いを受けることはありません。申し訳ありませんが失礼します」
 わずかに会釈だけをして、依織は身を翻して男を避けて進もうとする。しかし、背後から男に腕を取られてしまった。
「は、離してください!」
「俺が何度も誘ってるのに……ちょっと顔がいいからって調子にのるなよ! 何度もこけにしやがって!」
 そのまま力強く引っ張られ、依織の身体は簡単に壁に押しつけられる。囲うように腕を置かれ、男の血走った目が見下ろしてきた。その瞳のほの暗さに恐怖を覚え、ひくとのどが震えたとき――。
「おい」
 まだ年かさのない少年の柔らかさを含んだ低い声が割り込んだ。男と依織がハッとして見ると、そこには鬼殺隊の隊服を纏った長髪の男児。
 毛先に行くにつれて色味をます青と、輪郭のつかめぬ瞳。特徴的なその姿に、依織の恐怖がだんだんと薄れていく。
「む、無一郎くん……!」
 男の腕の中、依織が震える声に安堵を滲ませる。ちらりと無一郎の朧気な瞳が依織を捉え、すぐに男へと戻る。少年の瞳に、わずかな剣呑さが混じった。
「ねえ、その人のこと放してくれる?」
「ああ? ガキは黙ってろよ! こっちは今いいところなんだからよお!」
 無一郎を威嚇するように声を上げると、男は依織の肩を抱いて強引に連れ込もうと動く。しかし、男が依織に触れるよりも早く、無一郎がその腕を捉えた。
「ねえ」
 少年の声が、低く発せられる。男は、ぞわりと背筋の粟立つ感覚を覚えた。
「放してくれる? その人は、お前が触っていいような人じゃないんだけど」
 無一郎が腕に力を込めると、男の骨が軋むような音がする。とたんに、男は痛みに悲鳴を上げて尻餅をつくように後ずさった。そうすると無一郎も手を放し、それとなく男と依織の間に身体を滑り込ませた。
「早くどっか言ってくれる? この人にはもう近づかないでね」
 子とものくせに有無を言わせぬ物言い。男は痛む腕をさすりながら青い顔で何度も頷き、バタバタと走り去った。
 男の姿が見えなくなると、無一郎はチラリと依織を見てから静かに屋敷のほうへと足を向けた。依織ははっとしてすぐにその後を追いかけた。
「無一郎くん、どうしてここに?」
「夕餉を食べに来たのに、買い出しが戻ってこないから」
「そ、そっか。ごめんね……遅くなっちゃって……すぐにご飯作るから!」
「別にそこまで急がなくてもいいけど……・あのまま日が暮れてたらどうするつもりだったの?」
 すい、と無一郎の瞳が依織を見上げる。感情の分からないその瞳に責めるような色を見て、依織は肩を竦めて小さくなった。
「も、もちろん日暮れまでには帰るつもりだったよ?」
「でも、力じゃ叶わないんだから強引に連れこまれたらどうするの? こんな腕じゃ逃げられないでしょ?」
 さっきの男へのものと比べ、無一郎は幾分もゆるやかな力で依織の手首をとった。そのままくるりと検分するように腕をあちらこちらと色んな角度から見つめる。
「怪我はしてない?」
「うん。してないよ……あの、無一郎くん」
「なに?」
「助けてくれてありがとう」
 礼とともにふわりと微笑んだ依織に、無一郎の双眸がチカチカと光を反射する。パチリと大きな丸い瞳が瞬き、そうしてすぐに普段のぼんやり具合に戻ってしまう。
 それでも前を行く無一郎の雰囲気がどこか柔らかくふわふわしたものになったので、依織は背後で笑みを押し殺して小さな背中について行った。
(また無事に会えて良かった……)
 その言葉は自分の口の中で転がって溶けていった。
 
 

 刀鍛冶編、あまりにも無一郎くんも蜜璃ちゃんもかっこよくて毎話何回も見返してます……今日が最終回ってマジ……?って感じなんですけれども泣
 なにも考えずに配信みて勢いで書いてついったーに置いておいたものなんですが、この男主は家族を早くに亡くして一人で生きていたところを鬼に襲われて無一郎くんに救われた形です。
 このあと無限城で無一郎くんが亡くなったと聞いて泣きくれるし、そこから転生して記憶なしの高校生男主と、男主に会ってぼんやりと記憶を思い出して絶対放さない!する小学生無一郎くんに続いて欲しい。