お兄ちゃんと一緒 B




 夕暮れに染まった道を自転車で駆け抜け、家に到着した。世一は、自転車を停めながらまだ濡れていた自身の目元をぐいっと拭う。
(母さんたちは気にしないだろうけど……)
 さすがに高校生になって親に泣き顔を見られるのは恥ずかしい。
 そして悔しかった思いが胸に湧き上がってきて、それを押し込めるように歯を食いしばった。
 県大会の決勝戦。ほんの数時間前までは、全国大会へと片足を入れていたのに……。
 パンと頬を叩いて気を取り直す。終わってしまったことだ。うじうじ考えたってしょうがない。
 玄関を開けて声をかけると、母である伊世がリビングから顔を出して出迎えた。
「よっちゃんおかえり。依織くん来てるわよ〜」
「え!? マジ!?」
 ばっと勢いよく顔を上げた世一が嬉々として訊ねると、ニコニコした伊世は「よっちゃんの部屋にいるわよ」と指を真上に向けて言った。
 普段ならば靴を揃えて入るはずが、ぽいぽいと適当に脱ぎ散らかし、世一はバタバタと廊下を走り抜けて自室がある二階へと向かった。
 駆け込むように自室に行くと、そこにはベッドを背もたれにして床に座る依織の姿が。本を読んでいた依織はドアの音に釣られてゆっくりと顔をあげた。
「あ、世一おかえり」
 世一を認めて、ふわりとその美しい人が笑う。昔から依織はその笑みで世一のことをなんでも受け入れてくれていた。自分の部屋で出迎えてくれた依織を見ていると、世一は忘れていた悔しさも悲しさも全部ぶり返し心がぐちゃぐちゃになる。
 その感情は涙となって瞳を潤ませ、それに気づいた依織は驚いたように眼を丸くした。
 肩に提げていたスポーツバッグをその場に落とし、世一は飛び込むように依織に抱きついた。
 慌てて腰を浮かせた依織が両手で受け止めたものの、結局二人揃ってベッドに倒れ込むことになった。
 二人分の体重がかかったベッドが大きく揺れる。やがてベッドのスプリングがおさまったころ、依織は自分の肩に顔を隠した世一の後頭部をそっと撫でてた。
「……今日、試合だったんだよね?」
 囁きに、ギクリと緊張で世一の体が強ばった。自分の口から負けたなんて言いたくない。そう思って密かに唇を噛みしめた。
 だが、当然試合結果を聞かれると思っていた世一だったが、依織は「楽しかった?」とだけ訊いてきた。
 えっ、と思って顔を上げる。自分に組み敷かれる形でベッドに横たわる依織は、まるで母のような穏やかな瞳で世一を見上げていた。
 その瞳には無邪気に勝利を期待するようなものは含まれていなくて、ただ世一を見守るようなささやかな優しさが溢れている。
(……そっか。負けたこと知ってるんだ)
 携帯で検索をかければすぐにでも試合結果が分かる現代だ。もしかしたら、中継をみていたのかもしれない。それか、察しの良いこの人なので、帰宅した世一の様子から窺い知れたというのもあり得る。
 負けたことが悔しくて、絶望して、最後のプレーの後悔を延々と頭の中で繰り返して……。そうしてぐるぐるとおさまりきらない激情が疼いた胸の内が、依織の温かな眼差しの前でゆっくりと体に溶け込むようにおさまっていく。
 世一は自分の下で横たわる依織の細い体をぎゅうぎゅうと抱きしめた。肩にぐりぐりと顔を押しつけ、「悔しい」と呟く。
「負けた……勝てたかもしれなかったのに、負けた」
「うん」
「悔しい……あと一歩で全国だったのに……おれ、おれ……」
「うん。悔しいよね……あんなに頑張ってきたんだもん」
 恥ずかしいことなんてないし、それは当たり前だと依織が言う。
 両親と同じくらい、世一がどれだけボールを蹴ってきたかをこの人は知っている。そんな人に労るように背中を、頭を撫でられてギリギリで耐えていた涙腺が決壊した。ボロボロと溢れた大粒の涙は、依織のシャツにしみこんでいく。
 そうして世一が落ち着くまで、依織は静かに宥め続けた。
 目許も鼻も頬も真っ赤にさせた世一が顔をあげ、そんな昔から変わらない子どもの泣き顔に、依織は愛おしさの滲む苦笑を浮かべ伸ばした袖口で拭っていく。そうして綺麗になった世一の顔を満足げに眺め、首を伸ばしてそっと鼻先にキスを送った。
 パチリと、世一の丸い青い瞳が瞬いた。
「まだ二年生だし、来年も大会はあるんでしょ? 心配しなくても大丈夫だよ」
 それに――、と依織は今日届いたという封筒を思い出し、机の上に置いたままのそれを取ろうと上に乗っかったままの世一の肩を押した。ところが、上からどいてもらうつもりが、そのまま両手を取られてベッドに逆戻り。
 そのまま身を屈めて降りてきた世一の唇に吐息を飲み込まれた。
「――ッ!」
 手首をつかまれているせいで、指だけでどうにか世一の体を叩いて抗議するが、結局長い間触れ合ったままだった。
 ようやく解放されて息を荒くして眉根を寄せた。叱るつもりで声を出しても、呼吸が乱れているせいで覇気がない。
「よ、世一……! 口にはだめだって……言ってるでしょ……!?」
 ムッとしかめた顔で世一の頬を摘まむと、どうしてか怒られているのに世一は楽しそうに笑った。
「でも彼氏にはキスするもんでしょ」
「……言っておくけど、好きな男の人のこと彼氏とは呼ばないし、好きっていうのは、世一が俺に向けるような感情じゃないんだってば」
 小学生の時に同じクラスの女子生徒からの教えを、今も信じている世一に頭が痛いとばかりに嘆いた。
(おませななおみちゃんのせいでこんなことに……!)
 幼いころは頬にキスをするような、そんな可愛らしいもので済んでいた。あれ? と首を傾げるようになったのは、世一が中学に上がってからだ。
 変わらずお泊まりもするし、一緒に寝たりお風呂に入ったりもする。変わっていないはずなのに、どうしてか世一の視線に、手つきにソワソワと落ち着かなくなることが増えた。
 しまいには、頬や額にしていたキスが口へと変わって、さすがにそれはダメだと慌てて止めた。かといって、それでやめる世一ではなかった。毎度注意しているのに、一向に改善の余地が見られないから依織は困ってしまっていた。
 今も見下ろして荒く息をする依織をじっと見つめる世一の瞳に、逆光のせいか影を感じ、ゾクリと背筋が粟立つような、不思議な感覚に襲われた。
 このままの姿勢は良くない気がする。本能の警告に応じて、依織は今度は無理矢理体を起こして世一を転がして立ち上がった。
 そして逃げるようにパタパタと机に向かって封筒を手に取る。
 振り向くと、逃げるように離れた依織の姿を、まるで楽しむようにニコニコと見ている世一がいた。ベッドに腰掛けたままの彼に向かって、ずいと封筒を差し出した。
「これ、今日届いてたんだって」
 やや無愛想なのは、まだ触れていた唇が熱を持っているようでむずむずするからだ。すでに成人して働いている自分が、高校生の子どもを意識して恥じらっているなんて知られたくなくて、ついぶっきらぼうな対応になってしまう。
 差し出された封筒をきょとりと見つめ、世一はゆっくりと封を開けて中身を確認した。
「日本フットボール連合……強化指定選手……!?」
 文言に眼を瞠った世一がごくりと息を呑んだ。その青い瞳の奥に、ギラギラと燃える闘志を見つけ、依織は小さく微笑んでいつも通り見守っていた。


(まじか……。依織さん! 俺、強化指定選手に選ばれたって!)
(わわ、飛びついたら危ないよ、世一……でも、よかったね。見ててくれた人はいるんだよ)
(絶対結果を残してくるから! 待ってて!)
(んんッ! だから! 口はダメだってば!)
(依織くん、今日ご飯食べていく〜? って、あらあら二人とも本当に仲良しさんね)
(い、伊世さん!? これは違うんです!)
(ふふ、依織くんがお嫁さんに来る日も近いかしら)
(俺が高校卒業したらすぐ結婚する!)
(世一! またそんな変な冗談言って!!)