唯一の人




 夕方に不意に依織の部屋を訪ねてきた桜を、ちらりと見る。
 入学が決まった風鈴高校は明日からのはずだが、制服姿で現れた桜は部屋に置かれていたクッションを抱きしめ、背中合わせになって座り込んだ。
 桜がふらりと依織のところを訪れるのはいつものことだ。作業の邪魔をしないように静かなのかとも思ったが、なんだか様子が変だ。
「遥? どうしたの? 今日は探検してくるって楽しそうだったのに」
 背中に寄りかかっていた遥を、依織はパソコンを閉じてから覗き込んだ。すると、ちらりとオッドアイが見る。
「べつに探検じゃなくて道の確認に行ってたんだよ……」
 ぼそぼそと言いながら、桜は滑るようにして依織の膝の上に頭を乗せた。
(嘘ばっかり……楽しみで落ち着かなかったくせに……)
 バレバレの嘘をつく桜が可愛くて、依織はそっと前髪を払いつつ撫でてやる。桜は、それに気持ちよさそうに眼を細めた。
(元気がない……? でも落ち込んでるって訳もなさそうだなあ……)
 どちらかというとうずうずしてるような、そんな感じだ。
「今日、風鈴のやつにあった」
 静かに言う桜の言葉に、依織はじっと耳を傾ける。
「風鈴は二年前から変わったんだってよ……今は街を守るためにケンカしてる。街のやつらにも受け入れられて、必要とされてた」
「そっかあ。じゃあ遥にはピッタリの場所だね」
 色の違う髪を分け目に沿って撫でれば、ぐっと険しくなった瞳が依織を見上げた。
「依織さん、知ってたんだろ」
「詳しくは知らなかったよ。ただ少し前から変わったって噂は聞いてただけ」
 クスクスと笑ってゴメンね、と言うと、途端に桜はなにも言えなくなって不満そうに口を噤んだ。
「ほら、そのまま横になると制服皺になるよ」
 肩を叩いて促すと、素直な桜はいそいそと制服を脱いでハンガーにかける。そうして慣れたように依織のクローゼットを覗き込むと、シンプルなスウェットを取り出した。
 着替える背中に、依織は何度も繰り返した質問を向けた。
「本当に一緒に住まなくていいの? 俺はべつに気にしないよ?」
 依織はあまり物を持たない質なので、両親から広々した場所でのびのび過ごしなさいと与えられた1LDKのアパートは正直言って持て余している。桜も荷物は少ないので、一緒に住んだってそう困ることはないだろう。
(なにより、あんなろくな防犯もない場所に遥を一人で置いておくのも心配だし……)
 一度だけ見た幽霊屋敷のようなボロボロのアパートを思い返し、依織は内心で心配を募らせた。
「だからそこまで世話にはならねーって言ってるだろ」
 これまた決まった断り文句を言った桜に、渋々と言ったように「そっか」と頷いて見せた。
「でも、なにかあったらすぐ連絡するんだよ? そこまで距離はないし、すぐに行くから」
「いや、それは俺の台詞だろ。依織さん、少しでも体調がおかしかったらすぐ連絡しろよ?」
 アンタすぐ無理すっから。と、桜が苦い顔で言う。依織は困った顔で曖昧に笑った。
 依織は生まれてから十五になるまで体が弱く、病院で過ごしていた。何度か彼岸を見かけたこともある。
 今も激しい運動は出来ないし、年に一度は風邪をもらって入院することもある。だが、そう無理なことをしなければ普通に日常生活を送れている。
 発作だって、成人してからのこの数年は起きていない。両親も、だからこそ一人暮らしを許可してくれたのだ。
(それに俺も家には居づらかったしね……)
 年下の妹の鋭い瞳を思い出し、切ないような淋しい想いが湧いた。
 着替えて戻ってきた桜は、自分の場所だとでも言うように、再び依織の膝に頭を乗せて寝そべる。
「……今日、忘れ物渡してやったり、不良を追い払ったら感謝されたんだ。今まで誰かにあんなふうに気にかけてもらったの初めてだ」
 不意に桜が依織の顔を見上げた。まるでその眼に焼き付けるようにじっと見つめる瞳に、依織は首を傾げた。
「どうしたの?」
「俺なんかのこと受け入れてくれんのは、依織さんだけだと思ってた」
 だからビックリしたんだ。と桜は呟く。口先が僅かに尖っているのは、べつに不満や不服だからじゃなく、照れているからだとよく分かった。
 依織は膝の上の桜の頭を抱えるように腕を回し、上体を倒して抱きしめた。
「前から言ってるだろ? いつかきっと桜のことを分かってくれる人が現れるって」
「……べつに俺は一人でだって平気だけどよ。依織さんもいるし……」
「でも、できるだけたくさんの人と関わったほうがいいよ。桜は優しいいい子だから、桜のことをちゃんと知ればみんなそばにいたいって思ってくれる」
「……依織さんも?」
 抱きしめられて影に入ったオッドアイが、期待したように瞬く。
 小さい頃――出会った五歳のころの桜は、もっと不安そうな色でおずおずと依織の愛情を確認していた。
 けれど、今はどう言われるか分かった上で、言葉にして欲しくて彼は訊ねている。子供っぽさの残る瞳だが、依織の愛情を疑うような不安はない。
 それが嬉しくて、依織はこめかみに軽くキスをして頷いた。
「まあ、俺は桜がいい子じゃなくたってそばにいるけどね」
 そう言えば、桜の頬がぽっと赤くなった。むずがゆそうに口がもごもごと動いている姿が可愛らしい。
 出会ってから十年。最初のころは毛を逆立てた子猫のような子供だった。なかなか距離を詰めてこないのに、毎日のように依織の病室にはやってくるものだから、そんな姿が可愛くて仕方がなかった。
 頭を撫でたり、抱きしめると真っ赤になって慌てて距離をとる姿も見ていて微笑ましかった。
 最近じゃ一緒に歩いていると、ケロリとした顔で腰を抱いてくることもあるので、内心寂しいような、成長が嬉しいような複雑な気持ちでもあった。
 けれど、こうして赤くなっている姿をみると、まだまだ子供だな、とつい喜んでしまうのだ。
 (でも、高校生活が始まったら、きっとここに来る回数も減っちゃうんだろうな……)
 だって、たった今日一日だけでこうして桜の頭を占めるような、そんないい子たちが揃っているところなのだ。
 やっと桜の良さを理解してくれる人たちが現れた。弟のように思っている桜に理解者が現れることは、依織にとっても嬉しいことだ。
 しかし、同世代の友達や先輩が出来れば、きっと依織のことなど忘れてしまうだろう。
 そう思うと、胸が締め付けられるような寂しさに襲われた。
 切ない感情を隠すように、依織はにこりと口角を上げて微笑んだ。
「今日泊まっていくでしょ? 一緒に寝る? それともお布団出す?」
 来客なんて家族か桜ぐらいしかいないので、依織の家に用意されている一人分の来客用布団は、実質桜専用のものだ。
 といっても、桜がそれを使ったのは最初の一回きりで、その後は依織と同じベッドで寝ている。
 思春期の年柄、照れくささがあるらしい桜は、すぐには頷かない。
 今日も悩むように瞳が揺れて、不意に依織と目が合った。
 すると、少し躊躇ってから「一緒に寝る」と小さな声が届いたので、依織は満面の笑みで頷いた。
「じゃあ先にご飯にしよ。この前お肉だったから今日はお魚にしよっか」
 冷蔵庫にはいつ桜が来てもいいように、多めの食材が用意されている。それを思い出しながら、依織は桜を立たせてキッチンへと向かった。
 手伝うために後ろを着いてくる桜の足取りが、少し浮かれていることに気づいてはふふっと微笑む。
 ――一緒に寝る?
 初めてそう訊いたのは、本当にたまたまだった。思いつきではあったのだが、想像以上に桜の食いつきがよかったので、こうして何度も誘ってしまう。
 (たしかにお見舞いに来てた時、同じ病棟の子が俺のベッドに潜り込んでるとじっと見てたもんなあ……)
 あれは一緒に寝たかったんだなあ、と気づいたのはそのときだ。
「鮭があるはずだから冷蔵庫からとってくれる?」
 頷いた桜がいそいそと冷蔵庫を漁る姿に、依織はそっと眼を細くして笑んだ。
(あと何回、こんな姿が見られるかな……)
 この子にとって、明日から始まる高校生活が楽しいものであることを願っている。いい友達に囲まれて、いい先輩に恵まれて欲しいと本心から思う。だが、それを淋しく思ってしまうのもまた、依織の本心なのだ。


 まさか来訪が減るどころか、訪れる人数が増えることになるとは知らなかった、そんな夕暮れのこと。


 ◆◆◆

 この二人は付き合ってないです! そしてまだ個々の感情も恋愛までは発展してません。
 桜からすれば、小さい頃から唯一自分のことを無条件に受け入れてくれるお兄ちゃんであり、ちょっと信仰?崇拝?に近いような重たい親愛。男主は可愛い可愛い弟に向ける親愛。

 一応、二人の出会いとか男主の家族とのいざこざだったりいろいろ設定を考えてはいるので、そのうち原作沿いでシリーズにしたいなあと思ってはいます(いつになるか分かりませんが……)