落ちて上がって、再び落ちる



「・・・・・・そばに、いさせてくれないか」
 そう言ったのは、同期の一人だ。
 男のくせに、同期で女性のつると同じほどにはほっそりとした、そんな頼りなさを持っていた。
 軍に所属していると言っても、専ら本部内での事務作業に振り分けられており、実働部隊ではない。そのため、最初の訓練兵時代はガープ、センゴク、つる、ゼファーと共に五人でいることが多かったが、正式に軍役してからは、会う機会が減った。
 といっても、仲違いをしたわけでもないので、会えば食事を共にしたり、たまに示し合わせて五人で飲むこともあった。
 いつも穏やかに微笑んでいる美しい男で、こうも思い詰めた顔をしている姿をゼファーは見たことがない。
「同情、しているのか」
 家族を亡くした己を、心配していることはわかった。
 しかし、折り合いのついていない心では、棘のある言葉しか吐き出せなかった。
 アパルは、焦った様子も、不快を現すこともなく、変わらず悲痛そうな色を称えた美しさのまま、
「自分のためだよ。そんな状態のお前を放っておけない。せめて、落ち着くまででいい。そばにいさせて欲しい」
 と、静かに言った。
 海軍、というよりは、花屋や保母のほうが似合っていそうな、そんな穏やかな気質を持った、物腰の柔らかな男だ。自分の意見を主張することは少なく、いつだって微笑んで見守っているような、そんな男が、必死に訴えている。
 こんな時にもかかわらず、意外な一面を見た、とゼファーは笑いそうになった。
 妻も子もいっぺんに失い、それから目をそらし、どこか心が遠くに行った気がした。だから、笑えたのだと思う。
 ・・・・・・少しぐらいなら、一緒にいてもいいだろうか。
 そんなふうに思ってしまったのも、やはり最近まで家族で住んでいた家に、一人でいることが耐えられなかったからだ。
 ゼファーが頷けば、ほっと細い体から力を抜き、アパルはわずかに笑んだ。
(物好きなやつだ)
 お人好しだと思っていたが、ここまでとは。
 自分のことで精一杯だった当時のゼファーには、なぜアパルがここまで必死に訴えるのか、深く考える余裕はなかった。


 それを思い知ったのは、妻と過ごした年月よりも、アパルと共に少しした期間のほうが長くなった頃のことだ。
 教習艦を襲われ、教え子と、自身の腕を亡くしたとき。
 ゼファーは、海軍施設内の病室で目を覚ました。
 夜明け頃のことで、まだ部屋は薄暗く、わずかな肌寒さを覚える。人の気配を感じてなんとか首を回せば、ベッド脇で腰掛けるアパルの姿を見た。
 両手を膝の上で組み、項垂れ、必死に祈るように硬く目を瞑った姿は、変わらず美しいもので、思わずほおっとため息が漏れた。
「・・・・・・ッゼファー!」
 目が覚めたことに気づいたアパルは、すぐにベッドを覗き込み、ナースコールを押しながら必死にゼファーの名を呼んだ。
 力の入らないゼファーの手を包み、己の額に押し当て、「よかった、本当によかった」とはらはらとアパルは涙を流した。すでに退役しているアパルは、現役時代よりもいっそう細くなり、心配になるほどだった。
 白皙の肌は青白いほどに生気がなく、よく見れば、眼の下にはうっすらとくまがあった。
(何日も、寝ていたようだな・・・・・・)
 その間、アパルが付き添っていただろうことは、容易に想像出来た。
 ――面倒をかけた。
 掠れた喉からは、言葉にならなかった。
 それに、ゼファーの心にあるのは、申し訳ないなどという殊勝な思いではなく、温かな心地で・・・・・・。この状況に喜んでいることに驚いた。
 なぜ、俺は・・・・・・。
 これだけ心配をかけ、自分のために時間を取らせたのに、なぜ自分は喜んでいるのだ。
 ひどく不可解だったが、アパルに笑いかけられるだけで、そちらに意識をとられる。
「・・・・・・連絡が来たときは、本当にびっくりして・・・・・・もうダメかと思って・・・・・・」
 ――ほんとうに、よかった。
 涙で濡れた頬をそのまま、目尻を垂らして微笑む姿に、ゼファーは静かに見入っていた。
 昔と変わらぬ美しさだが、目元にわずかに見える皺が、アパルと共に過ごした年月の長さを思わせる。
 それを見ていると、ふいにゼファーは思ったのだ。
 ・・・・・・もしかし、こいつは、




「アパルは、俺に惚れているのか・・・・・・?」
 賑やかな居酒屋の個室で、向かい合う四人の人影。快気祝いだと集められたはずなのに、いつものもう一人の姿が見えないことに疑問を持っていたが、主役の開口一番で、三人はその理由を悟った。
 センゴクは口に放り込もうとしていたつまみを落とし、ガープは盛大に酒をふいた。つるだけは、硬直しわずかに眼を瞠っただけだ。
 最初に正気に戻ったのは、意外にもガープだった。
「ぶわっはっはっは!! なんじゃお前、いまさら気づいたのか!!!」
 心底愉快とばかりに声を上げて笑われ、ゼファーの眉間に皺が寄る。
 普段デリカシーのないような男に、鈍感のように扱われるのが腹立たしい。
「アンタね、じゃあ今までなんだと思ってたのさ」
「なんだ、とは」
「だから、なんでアパルが二十年以上もアンタと一緒に暮らして、かいがいしく面倒見てくれてたと思ってんだい?」
 つるの鋭い眼に、思わず宙を見てしまう。
 なぜ? なぜあいつが俺の面倒をみるか・・・・・・。
 一拍考え、「あいつの人が良いからだろう」と静かに言えば、ガープの笑い声はさらに大きくなり、つるは盛大に頭を抱えた。
「ゼファー、お前そんなこと言っとったら、センゴクに殴られるぞ!」
 なぜセンゴクに?
 と、疑問に思い、そのとき、眼の前の男が未だに一言も発していないことに気づいた。
 目を向ければ、普段は大きく取り乱さない男が、机に額を押しつけるように項垂れていた。
「だから私は言ったんだ・・・・・・こんな鈍感男に・・・・・・」
 ぶつぶつと、まるで呪詛のようなまがまがしさを纏ってなにやら言っているが、小声すぎて細かくは聞き取れない。
 ただ、良いことは言われていないだろうと推察出来る。
 どうしてこんな状況になったのか。
 混乱するゼファーの頼みといえば、もうつるしかいない。
 助けを求めるように目を向ければ、随分と長ったらしいため息を吐かれ、つるが口を開く。
「あのね、いくらあの子がお人好しだって言ったって限度があるだろう? 同期で、たかが友人のために、二十年以上も一緒に住んで面倒なんてみるわけないだろ」
 改めて言葉で羅列されると、たしかに行きすぎている。なぜ、自分がここまで疑問に思わなかったのかが不思議なほどに。
「・・・・・・つまり、あいつは当時から俺に惚れていたのか」
「・・・・・・まあ、そうさね」
 そう言って、つるはジョッキをあおり、発泡酒を一気に飲み下した。飲まなきゃやってられん、という無言の圧力を感じ、ゼファーの肩身が狭くなる。
「で、どうすんだい?」
「どうするだと?」
「当たり前だ。気持ちに気づいたんだろ? 答えを出してやんなよ」
「・・・・・・こたえ」
 答え、というのはアパルの気持ちを受け取るかどうかと言うことだろう。
「だが、俺はあいつのことをそういった眼では・・・・・・」
「見たことないとは言わせないよ」
「なに?」
 また一つ、つるの口からため息が飛び出た。
 ガープなんかはゼファーの話をつまみに酒を飲んでいるし、センゴクは随分と殺気立った眼をしながらつまみを食い荒らしている。
「ゼファー、お前は本来そう鈍い男でもないだろ。そして、たかが友人に二十年も世話をさせるほどクズな人間でもない」
 ――無自覚だろうが、答えなんて、はなから出てるだろう?
 そう言って、つるは話は終わりだとばかりに顔を背け、呼び出した店員にジョッキのおかわりを申し出た。
 ぐるり、ぐるりとつるの言葉が頭で反復する。
 考え、悩むゼファーの様子に、ガープがニヤリと笑って追い打ちをかけるように吐き出した。
「悩むのはいいが、横からかっ攫われても知らんぞ? お前が遠征でいないときは、ボルサリーノやサカヅキ、クザンなんかはしょっちゅう飯を食いに行っとるしな」
 まあ、ワシもじゃが! とこれまた大きくガープの笑いが響く。
「センゴクなんぞ、この二十年、何度も自分のうちに誘っておったからな!」
「なにっ!?」
 隣の男――センゴクの肩をバンバンと叩きながら言ったガープの発言に、思わず目を剥いてゼファーは本人を見た。
 センゴクは、なにも悪いことはしていない、という顔で「ロシナンテも懐いているからな。三人で暮らすのもやぶさかではない」と、飄々と言ってのける。
「お前、俺の知らない間になにを、」
「アパルは、お前のものではあるまい」
「・・・・・・ッ」
 続くはずだった言葉は、悔しくも飲み込むほかなかった。
 自分でも、無意識に出た言葉に、これがつるの言っていた「答え」というやつだと実感する。
 そうだ。いつから妻と子のことを、思い出の中で穏やかに思い返せるようになった。
 いつから、アパルのいるところに帰ることが普通になった。
 明かりの点いた家で、出迎えるアパルの姿が当たり前になった。いつから、日常になった。
 そんなもの、思い出せないほど前のことだ。
「おれは、あいつに惚れているのか」
 ぽつり、と自覚したばかりの想いをこぼせば、三人は互いに目配せし、呆れたように肩を竦め、笑う。
「はたから見たら、ただの夫婦じゃぞ。お前たち」
 ガープの言葉に、ストン、と受け入れられた。
 この年になって、今さら恋だ愛だというものに振り回されるとは思ってもおらず、早々に飲み会は解散になったものの、帰宅後は随分と不自然な態度を取ってしまった。
 ぎこちないゼファーの様子に、アパルは心配そうにしつつも深くは訊ねてこない。
 二人の様子を見たつるやガープ、センゴクには、なにをしているんだ、と再び呆れた眼差しを寄越されたが、あいにくとそちらに構っている時間はなかった。
 まさか想いを自覚した途端に、触れることさえ出来なくなるなど、誰が想像しただろうか。
 アパルの誕生日が近かったこともあり、どうにかそれまでに心を落ち着かせ、これまで支えてくれた感謝と共に伝えようと決意した。
 ガープやセンゴクは頼りにならんので、つるに何度も相談し、最終的にプレゼントとアパルの好きな花で作った小さなブーケを渡すことに決めた。
 きっちり定時で本部を出て、周囲に驚かれながら、頼んでいた店に取りに行き、自分の巨体に似合わぬ花とカラフルな包みを持って帰路を急いだ。
 ・・・・・・どんな顔をするだろうか。
 不安が胸にこみ上げ、いっそ引き返したくなる。このままでも、きっとアパルはともにいてくれるだろう。
 情けない。まさか、自分がここまで臆病だとは思ってもいなかった。
 立ち止まりそうになったとき、蘇るのは、あの日のガープの言葉で。
 ――横からかっ攫われても知らんぞ?
 そうだ。明確に自分のものにしておかなければ、誰かに奪われても文句は言えん。
 ずっとアパルがそばにいてくれる保証など、どこにもないのだから。
 意気込みを新たに普段よりも早足で帰れば、珍しく真っ暗な家が出迎えた。
(珍しいこともあるものだ。まだ帰ってきていないのか・・・・・・?)
 夕方には、買い物にでることがあると言っていたが、ゼファーの帰宅時間には、必ず家にいたのに・・・・・・。
 いいようのない不安が胸にこみ上げ、焦って門をくぐろうとしたところ、背後で叫ぶように名を呼ばれた。
「ゼファーさん!!!」
「ん? きみは」
 駆け寄ってきたのは、近所に住む若い女性だ。
 幼少の頃からアパルに懐いていた子で、ゼファーとも何度も顔を合わせている。
 いつも明るく可愛らしい笑みが特徴的な女性だが、今は蒼白とした顔に、汗を浮かべている。そんなに急いでいったいどうしたと言うのか。
「そこの通りで、事故があって! アパルさんが、子どもを庇って!!」
 泣き叫ぶように告げられた言葉に、ゼファーは反射的に走り出していた。
 知らせに来てくれた彼女に、労るような言葉さえかけなかったと気づいたのは、運び込まれたという病院に到着してからだ。
 通されたのは病室ではなく霊安室で、人形のように真っ白な肌で横たわるアパルを前に、ゼファーはただただ呆然と動かぬ体を見下ろしていた。
 ――日常など簡単に壊れることを、己をよく理解していたはずだ。
 あの時は、うずくまるゼファーの手を、アパルが引いてくれた。闇に佇むゼファーを、優しく光のもとに連れ出してくれた。
 なら、今の自分は、どうやって立ち上がればいい・・・・・・?
 いつの間にか外には雨が降り始め、走り出したときに落としたブーケは、道ばたでぬれそぼり、その花びらを散らす。
 軍服を濡らしたつるたち三人が飛び込んで来るまで、ゼファーは、襲撃事件の際に病室でアパルがそうしてくれていたように、細い手を己の手で包み、熱を分け与えていた。
 冷たくなったその手が、もう二度と温まることはないと分かっていながら。



 前々から、ゼファー先生で書きたいってめちゃくちゃ言ってたんですけど、ついに我慢できずに書き殴ってしまいました。
 ゼファー先生、穏やかな余生を過ごし、幸せになって欲しいという思いと、妻子亡くしたあとに再び大事な人を迎え、また失って絶望して欲しい(誰も悪くない不運な事故とか気持ちの持って行く場所がないとなお良い)という思いがせめぎ合ってて結局こうなってしまった。