物語は始まらない。



 ――大丈夫? 痛いところある?
 そう言ってデンジに手を伸ばしてくれたのは、真っ白な天使のような人だった。

 ◇◇◇

 デンジは意外と早起きは嫌いじゃない。
 昔だったら考えられないような柔らかい布団で目を覚まして、肌触りのいい服を着る。
 デンジが支度を終えて部屋を出る頃には、ドアの所でポチタが待機している。
 今日は日曜で本来の仕事じゃないのだが、この屋敷の主人であるアパルを起こすために早く起きたのだ。
 デンジとポチタが全力で鬼ごっこをしたって余裕なほどに広い屋敷の割に、住んでいる人間は少ない。
 主人であるアパル。そしてメイドのアーシンと料理長のガラン。そしてデンジとポチタ。ただそれだけ。
 四人揃ってアパルが拾ってきた人間である。
 デンジとポチタも、デンジが十に行かない頃合いに道ばたで蹲っているところを拾われた。
 それからは天国みたいな生活だ。
 雨風がしのげるだけじゃない暖かくて広い家。家族のように暮らす住人たち。
 美味い飯に布団に風呂。
 そして――。

 一つの部屋の前でデンジは立ち止まった。
 すーはー、と息を整えていれば、足元でポチタが呆れたような目で見ている。
「いいだろ、ポチタ。身構えとかねぇと俺の身が持たねぇだろ」
 やれやれと言いたげな目をそらしてポチタは早く行け、デンジを促す。
 ゆっくりと扉を開けてカーテンの閉まった薄暗い室内に滑り込んだ。
「シツレイシマース」
 ぼそぼそとほとんと空気みたいな声で入室を告げる。
 これを言わないと、アーシンの張り手が飛んでくるのだ。
 デンジよりも早くからこの屋敷にいる彼女は、デンジの教育係でもあった。身だしなみ、言葉遣い、ここでの仕事――全てアーシンのスパルタ教育の賜物で、彼女にはデンジも頭が上がらない。
 本当はノックもしろと言われるが、静かな部屋にノック音は意外と響く。
 それで部屋の住人が起きると、デンジの密かな楽しみがなくなってしまう。
 デンジの部屋よりも倍は広い部屋の中、天蓋付きのベッドにそっと近寄る。
 足音に気をつけつつ――と言っても柔らかな絨毯は勝手に足音を消してくれる――薄布をめくれば、ふかふかの布団と枕に身を横たえる麗人の姿。
 薄暗闇の中でもわかる艶のある銀髪が、真っ白な寝具に滑らかな流れを作っていた。
「おはようございまーす・・・・・・」
 起こす気もない声をかけたが、変わらず小さな寝息を立てるデンジの主人――アパルを見下ろす。
(やっぱキレーだなぁ・・・・・・)
 正確な年は知らないが、デンジが拾われてすでに五年以上。アパルは全く容姿が変わらない。
 真っ直ぐな白銀の髪も、真っ白な若々しい肌も、穏やかな眼差しも。
 全てが、あの時デンジとポチタに手を差し伸べてくれたときのまま、美しかった。
「アパルさーん・・・・・・朝っすよ〜」
 もうちょっと堪能してたいから起きないで欲しいな〜というデンジの願望は叶わず、アパルは僅かに身じろぎしながら目を開けた。
「ん、んぅ・・・・・・デンジ? と、ポチタも」
「はよーございます」
「ワンッ!」
「おはよう、二人とも」
 ゆっくりと身を起こしてアパルは二人に微笑む。未だに眠気を孕んだその姿さえ、宗教画のように洗練とされている。
「今日は日曜日でしょう? 起こしに来ずにもっとゆっくり寝ていて良かったんだよ?」
「いや〜俺早起きが習慣なんで」
 アパルに拾われて屋敷に住んでいるが、なにも無休で働いているわけではない。
 主に日曜は休みに設定されており、屋敷のことはしないでいいとアパルからは言われている。
 その他の六日間を、アーシンとデンジが交代でアパルを起こすのだ。が、日曜は二人揃ってどちらが起こすか競っているため、勝率は五分五分。
 今日はラッキーな日だった。
「前髪、少し跳ねてるね」
「え、マジすか」
 アーシンに見つかったら尻を引っぱたかれる。
「休みの日なんだからそんなにキッチリしなくていいんだよ。来客があるわけでもないしね」
 同じ男なのに、デンジの節くれ立った指とは比べものにならない細いその手が、デンジの髪を撫で、そのまま頬に触れた。
 獣が喉を鳴らすようにすり寄って「ワン」と鳴けば、クスクスと笑ったアパルは今度はポチタを撫でる。
 最初はデンジ以外との接触を警戒していたポチタだったが、今じゃこの屋敷の住人には無防備に触れさせている。
「起きたばっかり?」
「うす。あ、いや違いマス」
「ふふ・・・・・・いいんだよ別に。怒らないから」
 控えめに、そして嫋やかに笑う姿を見ると、この人は自分とは別の次元を生きてる人じゃないのかな、とデンジはぼんやり思うのだ。
「・・・・・・そうだ。朝ご飯には少し早いし、二度寝しちゃおうか」
「えっ」
「ほら、デンジとポチタもおいで」
 アパルの細腕が布団をめくってスペースを空ける。
 本当はすぐにでも飛び込みたかったが、アーシンのことが頭を過って躊躇させる。
(そう経たずにアーシンが来ちまうだろうし、それで俺がアパルさんの布団に入って寝てたら・・・・・・)
 そんなもの、尻叩き百回じゃ収まらないかもしれない。
 以前仕置きを受けたときの痛みを思い出して尻を擦る。
(そうだ。アパルさんは俺の主人なわけだし、なんでもかんでも甘えてたらダメだよな)
 俺だって立派な使用人になるぜ、と心意気を決めたところで、デンジの横を小さな影が突っ切った。
「ワン」
「ポチタは右に寝る? じゃあデンジは左に来る?」
 さらりとアパルの隣に寄り添って寝る体制に入った相棒に、デンジの覚悟は秒で崩れ去った。
「デンジ? やっぱり二度寝は行儀が悪いかな?」
 ちょっと恥ずかしそうに笑うアパルが上目遣いにデンジを覗き見る。
 めくられた布団から僅かに見えたアパルの細い足がシーツをする姿を横目に、デンジは大きく口を開く。
「俺も二度寝したいって思ってました!!」
 ジャケットを脱いで身軽になると、そのままアパルの横に滑り込んだ。
 布団をかけられてぽんぽんと弱い力で叩かれればすぐに眠気に襲われる。
「大丈夫。朝食の時間になればアーシンが声をかけてくれるから」
 ――だから、お休み
 幼い子を寝かしつけるような、そんな細く穏やかな声に包まれ、デンジとポチタはすやすやと眠りに落ちる。
(これが味わえるんなら尻叩き百回も怖くねぇぜ・・・・・・!)

 結局一時間もせずにアーシンが部屋に突撃してきたせいで至福の時間は終わりを告げたが、目覚めと共に麗しいアパルの寝顔が目に入ってきたので、デンジは満足感を抱えたままアーシンに尻をひっ叩かれた。
 ちなみにポチタは免除である。


(デンジ! あんたその年になってまで甘やかされてんじゃないわよ!! 羨ましい!!)
(いってーー!! うるせぇ! まだ十六歳だからいいんだよ!! って半分私情じゃねぇか!!)
(アーシン、デンジを怒らないで。私がベッドに誘ったんだよ)
(アパル様! そんな言い方しないで下さい! 誤解を生みます!!)
(え、そうかな・・・・・・ごめんね)
(きゃーそんなしょんぼりしないで下さい!! 全て自分の欲望に抗えなかったこいつがいけないんです!)
(お前だってアパルさんに二度寝しよう?って言われたら断れねぇだろ!)

 美人な青年に飼われて健やかに育つデンジくんが見たい。
 本当は、アーシンちゃんに「一回だけ胸揉ましてくんねぇ?」って言ってぶっ叩かれて、それを見ていたアパルがあとでこっそり「女の子にああいうのはダメだよ? でもなかなか外出させてあげられないし、私のでよければ触ってみる?って男の胸じゃいやだよね」って冗談交じりに言われて「むしろお願いします!!」って頭下げるデンジくんとのRが書きたかったんですが、そこまでいかなかった。