続・焔の乖離



 アパルはどうやら今年で十八になるらしい。
 らしい、というのは、この病室で目を覚ました一週間前までの記憶がごっそりと抜け落ちているからである。
 どうやら子どもを庇って事故に遭い、一ヶ月ほど眠っていたようだ。
 目を覚ましたアパルを見つけたのは、看護師だった。動かない体でなんとか首を動かすと、それに気づいた彼女は短い悲鳴とともにすぐに医師を呼びに駆け出した。
 そうして医師の診察を受けている最中、慌てた様子で病室に現れた男女――アパルの両親だという二人から涙混じりに説明を受けた。
 記憶のないアパルにとっては、見知らぬ大人二人が自分を抱きしめて泣いている……というのは妙な居心地の悪さを感じた。
 二人の様子をみるに自分は愛されていたのがわかる。しかし、当の本人であるアパルが、同じ熱量で両親のことを抱きしめ返してあげられないのが、なんだか申し訳なく思ってしまったのだ。
 事故の後遺症と一ヶ月間の寝たきり生活で、筋肉がげっそり落ちてしまって、つらいリハビリに励むことになり、ようやく学校に通えるようになるまでにさらに一ヶ月以上もかかった。
 本来なら四月から通うはずだった転校先の学校には、随分と遅れて通い始めることとなった。
 けれど、学校のみんなは良い人ばかりで、アパルの体のことも気にかけてくれる。
 とくに生徒会役員であるサボやコアラには随分とお世話になっていた。そして――。


「えっと、エースくん? あの……どうしたの?」
 ぎゅうぎゅうに自分を抱きしめる男子生徒の背を叩き、アパルはそうっと声をかける。
「エースくんじゃねえだろ」
「……え、エース。苦しいよ」
 拗ねたように耳元で言われ、アパルは呼び直す。すると、腕の力が弱まって、垂れた瞳の好漢が顔を出す。
 そばかすがあるせいか、それともシャツの下に着た「太陽」と書かれた柄物のTシャツのせいか、太陽の下がよく似合う顔の整った男だ。
 エースは名残惜しそうにアパルを抱きしめた後、隣の席を勝手に拝借して座る。そうして、今度はアパルの手を握ってきた。
 ポートガス・D ・エース。アパルのクラスメイトであり、初対面の時のダイナミック号泣ハグ事件から始まり、隙あらばアパルに触れてくる不思議なイケメンである。
 サボとは血の繋がっていない兄弟らしく、エースがくっついて梃子でも動かないときは、サボを呼ぶと大体実力行使で引き離してくれる。
 しかし、その時のエースがあまりにショックを受けて泣きそうになっているから、サボの助っ人は一度頼んだだけでそれ以降は呼んでいない。
(エースは、どうしてこんなにくっついてくるんだろ……?)
 休み時間の度に抱きしめられ、エースの膝の上に座らされ、トイレに行くときもどこに行くときもついてくる。
 出会った当初は、授業中でも問わず離れたがらなかったので、その頃に比べるとまだ自由があった。
 しかし、やっぱりアパルからすると首を傾げるしかないのだ。
 記憶を失った期間の知り合いなのかと思い、号泣ハグ事件時に謝罪とともにそれとなく以前の関係性を訊ねてみたのだが、エース自身は黙りこくってしまい、ただアパルを抱きしめただけだった。
 それからも、度々以前のことを訊ねては思い出せないかな、と淡い期待を抱いているものの、エースはなぜか昔のことになるとだんまりしてしまう傾向にあった。
「あ、あのさエース。午後の数学の課題やってくるの忘れちゃって……今やりたいから手を離してもらってもいい?」
 窺うようにアパルが言うと、エースはじっと黙り込んだ後、静かに席を立った。
(今日は嫌だって言われなかった……)
 ほっとしてアパルが教材を出していると、なぜかエースは反対側の椅子を引いて今度はアパルの利き手ではない方の手を握っている。
「……えっと、エース?」
「なんだよ。利き手はダメなんだろ?」
 間違ったことはしていない、と不思議そうな彼が首を傾げる姿に、アパルは悩ましく思う。
(手を繋ぐのをやめて欲しいんだけどな……)
 でもそれを言うと、今度は両手を開けるからとエースの上に座らされる気がする。というか、以前そう言ってエースの上で過ごす羽目になったことがあったのだ。
 確かにエースはそこそこ身長が高いし体格もがっちりしているが、アパルだって細身だけれど平均以上は身長があるのだ。
 重いだろうにと思って慌ててどこうとしたが、腰に回された腕がびくともしなくて諦めた経緯がある。
 それに、アパルが離れていこうとすると、エースはひどく子どもみたい顔で傷つくのだ。
 彼のそんな表情をみると、アパルの胸がぎゅうと切ない痛みに襲われる。
 出会ってから戸惑いしかないのに、エースの行動をなんだかんだと受け入れてしまうのはそのせいだ。自分の知らない自分が、心の奥で悲しんでいるみたいだ。
(きっと、前の俺とエースはすごく仲が良かったんだろうな……)
 数学のテキストを見下ろしながら、アパルはそんなことを思っていた。すると、ぼんやりした様子のアパルに、エースが声をかけてくる。
「アパル? 大丈夫か? 調子でもわりーのか?」
 焦ったような顔に、大丈夫だよと笑って答えると、あからさまにほっと肩を落とされる。
 エースは、アパルが事故で昏睡状態だったと聞いたからか、アパルの体調にも過保護だった。今は怪我も完治して健康体なのに、体育のサッカーで頭にボールが当たった時はすごかった。
 有無を言わさず抱えられて保健室に連れ去られた。
 アパルと養護教諭がなんとか時間をかけて宥めて分かってくれたが、それまでが大変だった。
 クラスメイトから話を聞いたサボが様子を見に来てくれたのだが、アパルが状況を説明すると
「あーエースは前のことがあって……ちょっとお前のことには敏感に反応しすぎるきらいがあるんだ」
 トラウマみたいでさ。あの後のエースの様子といったら……とサボは微苦笑してアパルに受け入れてやってくれと肩を叩く。
(たしかに仲の良かった友達が死にかけたのってショックだと思うけど……そんなに?)
 本当に自分とエースはどういう関係だったんだろう?
 じっと隣に座るエースを見つめていると、目が合ったエースは嬉しそうに「もう終わったのか?」と笑う。
 まだ一問だって解けてないよ。
 首を振ると、なんだよ、と残念そうにうなだれる。
 ころころ変わる表情に面白くなって、アパルはくすくすと笑ってしまった。
「ふふ、それよりエースくんは課題終わってるの?」
「エース」
「エースは課題終わったの?」
「いや、俺がやってくるなんて教師も期待してねえだろ」
 けろりとした顔で当たり前のように言うから、ますますアパルは笑ってしまう。
「ダメじゃん、もう……ふふ、この前だって課題忘れて怒られてたのに……」
 笑っちゃダメ、と思って手で口元を押さえるアパルを、エースは横目に見て嬉しそうに微笑む。
 けれど、アパルは笑いを抑えるほうに必死で、そんなエースには気づかなかった。



 帰宅すると、母がキッチンから顔を出して無事に帰ってきた息子に安堵したように顔を緩める。
 そして、パタパタと駆け寄ってくると一冊の手帳を差しだした。
「これ、アパルのだと思うの。私の荷物のほうに混ざってて……お父さんのでもないって言うから」
 ハードカバーの、鍵付きの手帳だ。手に取ると、どうしてかしっくり来た。
「多分、俺のだと思う……なんか見たことある感じするから……」
「そう。鍵があるし日記かなにかかなって思ってたの」
「部屋で確認してみるね」
「ええ。夕飯出来たら呼ぶわね」
 二階の自室に入り、机の椅子にかけて手帳を裏返してみたりと至る所から見て回す。
 鍵には、ダイヤル式の数字が三つ付いていた。三桁の数字が暗証番号。
(三桁……三桁の数字……)
 心当たりがない。なのに、どうしてか指が勝手に動く。まるで慣れたものを扱うように、勝手に数字を合わせていく。
 カチャリと音がして、鍵は開いた。
 中を開くと、母が言ったように日記みたいだ。
 分厚い手帳なだけに、最初の日付はおよそ四年前。アパルがまだ中学の時からだ。
 一言日記のような簡素なタイプで、大体が二、三行で終わっている。
 でも、たしかにアパルはちゃんと生きていたらしい。
 空っぽだった期間の自分が垣間見えて、安堵する。
 しかし、ちょこちょこと気になる記載があった。
 ――オヤジに会いたいな。
 ――みんなあのあとちゃんと海に出られたかな。
 ――エースは、どうしただろう。
 アパルは、不思議な心持ちでボールペンの掠れた字の上をなぞる。
「エースと知り合いって本当だったんだ……」
 信じてなかったわけじゃないけれど、記憶がないからいまいち実感がなかった。読み進めていると、「エース」の他に「デュース」「オヤジ」「マルコ」「サッチ」「イゾウ」など、知らない名前が次々と出てくる。
 しかし、前の学校のクラスメイトにも、母たちが知る交友関係にもこんな名前の人はいなかった。
「しかもオヤジって……お父さんとは別だよね?」
 どれもかれもが、遠くの人を思うような口ぶりで、当時会えていたわけではなかったのだと分かる。
 エースだって、いくつも県を飛び越えた先の転校先で再会したわけだから、もしかしたら他の人も遠方の人なのかも知れない。
「どこで会ったんだろ……」
 不思議だ。そんなにアグレッシブなタイプでもない気がするけれど、前の自分はそうだったのだろうか?
(エースに言ったら、喜ぶよね)
 きっと彼のことだから、日記に書くぐらいきみのことを思い出してたって知ったら喜びそう……って。
「ちょっと自意識過剰かな……」
 なんだか恥ずかしくなってきた。パラパラとめくっていくと、最後のページにもエースの名前が書いてあった。
 ちょうど事故に遭う前日だ。それ以降は、当たり前だが白紙になっている。
 ――またエースと海を見たいな。
「海……」
 度々、日記の中に出てくる言葉だ。
 ぽつりと呟くと、なぜだか泣きたくなるような懐かしさと切なさに襲われた。



 四六時中アパルの傍を離れないエースは、もちろんのこと下校だってアパルと一緒だ。
 そしていつものごとく手は繋がれている。
 ぶんぶん手を振って、上機嫌なエースの横顔を眺め、アパルは俯いてぽつりと切り出した。
「俺って、エースと海を見たことあるの?」
「……思い出したのか!?」
 バッと勢いよくエースの顔がアパルを向き、肩を掴まれた。あまりの食いつきに、アパルは慌てて訂正する。
「ち、違うの! 日記!」
「日記?」
「そう! 記憶無くす前の日記が出てきて……そこにエースのことが書いてあったから……」
 早口で告げると、だんだんとエースの気迫は萎んでいって信じられないと瞳が揺れている。
「日記に、俺のことが書いてあったのか?」
 本当に? と彼の瞳が告げている。
 こくりと頷き、アパルは印象的だった言葉をそろそろと口にした。
「……また、エースと海が見たいって」
「そう書いてあったのか?」
「う、うん」
 戸惑いつつ首を縦に振る。
 どうしよう。想像してた反応と違う。
 なんでエースはこんなに衝撃を受けたような顔をしているんだろう。
(まるで、書いてあるわけがないって思ってるみたい……)
 そんな薄情な人間だと思ってるのかな?
 ちょっと心外だ。
 エースは瞳を左右にふらふらと彷徨わせながら考えこんでいたが、ふいに力一杯アパルを抱き寄せた。
「え、エース?」
「ハハ、まじか……お前、覚えてたんだなあ……」
 歓喜と後悔を混ぜたような、そんな複雑な感情の声だった。
 苦しいぐらい力強い腕に抱かれ、身じろいで逃げようとしたアパルだったけれど、耳元でふいに鼻を啜る音がして呆けてしまった。
(え? エース泣いてる?)
 首を傾けてみても、アパルの肩に額を押し当てているエースの表情は見えない。
 でも、泣いているんだろうな〜ってアパルは思った。
(人に泣き顔見せるの、大嫌いだもんね)
 なんで自分はそんなことを知っているんだろう。
 疑問に思ったのは一瞬で、自然と受け入れられた。
 ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕は変わらず苦しいけれど、アパルはそっとエースの背中に腕を回し、宥めるように撫でた。
 陽が傾いて色を濃くしていく。
 橙の輝きに照らされていると、どうしてか炎の揺らめくさまが思い浮かんだ。

 
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 「焔の乖離」続編のリクエストありがとうございました!
 平和な世界で高校生しているエースたちを書けて楽しかったです〜。
 キスして炎の受け渡しするエースと男主が書きたいな……という性癖満載な思いつきから始まった話でしたが、思ったよりも読んでくださった方からお声をいただけて嬉しい限りです。
 また機会があれば、記憶を思い出すところまで書きたいな〜と思います!