続 落ちて上がって、再び落ちる


 抜けるような青空が真っ直ぐに見られなくなったのは、もう二十年以上も前のことだ。
 雲一つもない空はあまりにも澄んでいて清らかで、その純粋な美しさを前にすると、アパルは自分の卑しさをまざまざと際立たせられているような錯覚に陥る。
(……きっと俺の心にやましい思いがあるからだよね)
 海軍本部の事務室の窓から見える外の景色から眼をそらし、アパルはまた書類の山へと向き直った。
 責めるようにちくちくと痛む心は、知らぬ振りをした。
(あの日も、こんな空だったから余計にそう思うのかな……)
 自らの想い人が、愛する妻子を失ったあの日――。
 項垂れ、感情をなくしたように無気力に腰掛ける姿にいても経ってもいられず、必死に声をかけたあの日。
 ゼファーのことが放っておけないから、などと御託を並べ、彼の妻がいたはずの場所に無理矢理おさまった。
 心配だったのは嘘ではない。だが一方で、愛した人の傍にいたいと思わなかったわけでもない。
 彼が結婚したときにこの想いは消したはずだった。子が産まれたときだって、心は痛みつつも喜ばしく思えた。祝福できた。それなのに、古傷のごとく長らく忘れていた想いが、突然息を吹き返してアパルの体に溢れた。
 慰めてあげたい。その悲しみを一緒に抱えたい。
 なによりこのままだとゼファーまで失ってしまいそうで怖かったのだ。結局アパルは、自分が彼を失いたくないから必死に訴えたのだ。そんな自分に嫌気が差した。一緒にいられることに喜んでしまう自分の卑しさを蔑んだ。
 いつか終わりが来る。そう分かっていながらも、二人での生活はどうしてか二十年以上も続いた。ゼファーは本来、人に頼るよりも頼られる質の男だ。少し時間が経って気持ちの折り合いがつけば、もう大丈夫だとその残酷な優しさ故に距離をとられると思っていた。
 けれど、どういうことかアパルとゼファーは同じ家で寝て起き、生活を共にしていた。
 明日が別れの日かもしれない。そう怯えつつも人というのは慣れてゆくもので、きっとどこかでこのままの日々が続いてくれるような、そんな根拠のない安心を持っていた。
 だからアパルは、事故に遭ったあの日。自分の腕に子どもを抱えて庇うように体を丸めながら、もう終わりなのだと悲しく惜しく思ってしまったのだ。
 体に加わった衝撃とともに体が崩れ、冷たい地面に横たわる。
 周りの人々が騒がしく動くのを横目に、そっと掠れた瞳を動かすと、雲一つない青空がうっすらと夕暮れに染まりつつあった。
 ――青空を見ると、自分の罪をまざまざと見せつけられているような気分になる。
 その日、もうこれで死ぬのだと思ったとき。ようやくアパルは晴れ晴れとした気持ちで空を見上げることが出来た。
 最後にゼファーの顔が見たかった。そんな叶わぬことを夢想しながら、アパルは眼を閉じた。そして、そのまま覚めない眠りにつく――はずだった。



 暗い世界でまず思ったのが、鈍い痛みが全身を包むような重苦しい感覚。
 ピッピッと規則的に耳に届く機械音に促されるようにゆっくりと瞼を押し上げた。ぼやけた視界は薄ぼんやりと明るく、明け方なのか白いカーテンからうっすらと光が入り込んでいる。
 喉の張りつく痛みに「ケホッ」と咳をすると、視界で大きな陰が動いた。
「アパル……?」
 ひどく弱々しい男の声だ。やけに聞き馴染みのある声だな……とぼんやり思っていると、その人物はアパルを覗き込むように身を乗り出してきた。
「ゼ、ファ……?」
 ひどい顔じゃないか。そう心配する声は、どうにも言葉にならなかった。こほこほとむせる。満足に咳き込むことも出来ない体は、肩を小さく揺らすだけだ。その薄い肩をゼファーの残った手が躊躇いがちに撫でてきた。
「す、すぐに医者を呼ぶ。すぐに来るから待っていろ」
 枕元の呼び鈴を押しながら、ゼファーは何度も「すぐだぞ」と励ますように震えた声を出す。
 肩を撫でていた手が、アパルの細腕を辿って投げ出された手を取った。ぎゅうと痛いぐらいに握られ、ゼファーの動揺がよく分かる。アパルはなんとか指先に力を入れて、彼の乾いた手の甲をそっと撫でる。
 ハッとしたゼファーはこみ上げる感情を堪えるように顔をぐしゃりと歪ませると、そのまま唇を噛みしめて顔を伏せてしまった。
 たくさんの管に繋がれ横たわる自分が言うことでもないが、どうにも心配してしまう。
 一体いつから寝ていないのか、目許にはくぼんだように黒い隈がくっきりと映り、髭だって無造作に伸びていた。少し痩せたような気もした。
「ど、したの? だい、じょぶ?」
 辿々しく問えば、彼は今度こそ目に浮かぶ光る物を隠しもせずにわっと嘆くように言ったのだ。
「……こんなときに俺の心配なんてするな! 死ぬところだったんだぞ!? 俺がどんな思いで今日まで……!」
 口を引き結んでボロボロと泣いているゼファーを慰めることが出来ないのがもどかしい。
 そのうち駆け込むように医師と看護師がやって来て、ゼファーは席を譲るように部屋の隅に下がってしまった。
 医師の言葉に頷きつつ、アパルは生きてる……と思った。
 とくとくと皮膚の下で動く自分の鼓動に、生きてると実感する。しかし、この鼓動の速さはそれだけではない。
 ――俺がどんな思いで今日まで……!
 耳の底で彼の叫びが蘇る。ふるりと胸が震えるような、そんな喜びがじわじわと体を温めた。
 ゼファーがあそこまで取り乱す様を、自分はみたことがあっただろうか。あんなに怯えるように泣く姿を、見たことがあっただろうか。
 ふと部屋の隅でアパルをじっと見つめるゼファーを眼で追いかけた。
 どうして、そんなに悲しんでくれたの?
 それじゃあまるで――まるで。
(まるで、俺のことがすごく大事みたいじゃないか)
 そんなはずはないと理性が否定するけれど、一瞬たりとも目が離せないとばかりに注がれるゼファーの視線に、アパルは肌が焼けるような熱を感じた。
 勘違いだと自身を戒めつつも、心の奥では可能性を捨てきれなくて。頭を悩ませている内に、アパルは医師たちに囲まれながら再び眠りについた。



 半月も入院すれば、アパルは家に帰ることを許された。
 眼が覚めてからの検査では特に異常は見られず、弱った体に体力を取り戻すためにしばらくリハビリに通わなくてはならないが、おおむね以前のように動けるようになった。
 目覚めたあの日。つるたち三人もすぐに見舞いに訪れ、目を潤ませながら喜ばれた。ボルサリーノやクザンも仕事の合間に顔を見せてくれ、なにより驚いたのはあの真面目なサカズキが休憩時間といえど仕事の日にわざわざ見舞いに来てくれたことだ。
 驚くアパルを見ると、「意外と元気そうじゃのお」とすでにいっぱいになった花瓶に持ってきた薔薇の花を一輪さしてすぐに帰って行った。
 毎日誰かしらが顔を出してくれるおかげで、ベッドから動けない生活でも退屈はしなかった。
 そうしてやって来た退院の日だが、アパルは私服に着替え、困惑顔でナースステーションに頭を下げて病院を出た。
「ゼファー仕事は大丈夫なの?」
 前を行くゼファーの追いついて問いかける。彼は両手にアパルの荷物を持っていて、前を向いたまま頷いた。
「しばらく遊撃隊の任務はない。アインたちだってこの前見舞いに来ただろう?」
 数日前に病室に現れ、子どもみたいに泣きじゃくった彼女を思い出す。彼女はゼファーとともに遊撃隊として仕事をしており、任務ならば必ずゼファーとともに船に乗る。彼女たちがいると言うことは、たしかに仕事はないのだろうが。
「でもこの半月、一度も仕事に行かなくていいなんて……そんなことある?」
 そう。ゼファーはこの半月もの間、一日も欠かさずにアパルの病室に姿を現していたのだ。
 家が一緒なので、着替えや入院の準備が出来るのは彼しかいないため、諸々の手続きで顔を出すのは分かる。しかし、花を持ってきたり果物を差し入れたり。眠るアパルの横で本を一日読んでいたこともあった。
 おまけに退院当日に迎えに来るなんて――。
 それだけ心配したってことなのかな。真意が分からず、アパルは困惑するしかなった。
 本調子ではない体でどうにかゼファーについて歩いていると、ふいに彼はなにかに気づいたように足を緩め、義手のほうで荷物をまとめると、もう一方でアパルの腰に腕を回した。
 そのまま引き寄せられ、彼の巨躯にもたれるように体を預ける姿勢になった。慌てて押しのけて離れようとするが、腰の腕がそれを許してくれない。
 仕方なく、ゼファーの体にしがみつきながら慎重に足を運んで家まで帰った。

 二十年も住んでいれば、我が家とも言える彼との家は、やはり足を踏み入れるとほっと息がつけた。
「ごめんね長い間留守にしちゃって迷惑かけて……今日はゼファーの好きなもの作るね」
 静まりかえった空気にどうしてか心がソワソワして、それを誤魔化すように笑って言うと、いつもなら微笑んで返してくれる彼が随分と生真面目な顔で口を引き結んでいた。
「……ゼファー?」
 ひどく緊張しているみたいだ。どうしたのかと見上げると、ゼファーにそっと椅子を引かれて座るよう促された。戸惑いつつおずおずと腰掛けると、ゼファーはアパルの正面に膝をついた。
「アパル、聞いてほしいことがある」
 そっとかいがいしく手を取ったと思えば、弱ったような、けれど芯の通った男の声が囁いた。
「アパル、俺はこの長い期間、気づかない振りをしていた愚かな男だ。今さらとお前は思うかもしれない」
「ど、どうしたのゼファー?」
 心臓が嫌な音を立てる。もしかして自分の気持ちがバレているのでは? しかしこの口ぶり……もしかしたら彼も自分を?
 青くなったり赤くなったり。いい予感と悪い予感が忙しなく頭を巡っていく。
 逃げたい気分になって、つい眼を伏せるように下を向いた。
 らしくないよ。ビックリしちゃった。そう笑って席を立てば、きっと元に戻れる。ゼファーはきっとそれ以上なにも言ってこないはず。そう分かっていても、アパルは動けなかった。優しく握られた指先が、微かに震えていることに気づいてしまったからだ。
 どうして? 不思議な切なさに身を刈られ、ふと眼を上げると、ゼファーの真摯な瞳とかち合った。
「今までお前の好意に甘えてばかりだった俺がこんなことを言う資格はないかもしれない。他の男なら、それこそセンゴクやつるならお前のことを幸せにしてくれるだろう」
 続く言葉に、ごくりと唾を飲んだ。自分の気持ちがバレている。そのことにひやりとしたが、かさついた男の手の体温にじんわりと心がほぐれた。
「まだ間に合うなら、お前を愛してしまった俺のことを許してくれ。受け入れて欲しい。気づかないふりで長年縛り付け、お前の幸せを願いつつも手放せそうにない男の醜い願いを、叶えてくれないか」
 静かなリビングに響くのは懺悔のような真っ直ぐで真摯な告白だった。アパルには、時が止まったように感じた。
 ゼファーの低い声が耳の奥を震わせ、少しずつ身にしみていく。強ばった顔で見上げてくる男の睫毛がふるりと揺れたとき、アパルの瞳からはらりと涙が落ちた。
「おれの幸せは、ゼファーと一緒にいることだよ」
 だから離さないで。俺をそばに置いて。
 ぐずぐずと鼻をすすり、ボロボロと泣きながらなんとか告げた言葉に、ゼファーもこみ上げる物を堪えるように目許に力を込めた。
 そんなゼファーの頬に、アパルはそっと口づけを落とした。そのまますぐ近くで瞬く彼の瞳に、「本当に俺を愛してるの?」と訊ねた。
「本当だ。ずいぶんと前からお前を愛してた。だが、気づかなかったんだ。馬鹿な男だと笑ってくれ」
 随分と悔しそうに口をへの字に曲げたゼファーに、アパルはうれし涙を流しながらクスクスと微笑んだ。
「そんなこと言えないよ……」
 子どもを慰めるように鼻先にキスをすると、ゼファーは優しく目許を緩めた。その柔らかな視線に、ああ自分を愛しているのは本当なんだと実感して、喜びと感激で天にも昇るような気持ちで涙が止まらない。
「嬉しすぎて夢みたい。……かみさまに感謝しなきゃ」
「残念だがそれは俺の仕事だ。お前を俺の元に帰してくれたんだ」
 ――感謝したってしきれん。
 低く掠れた響きには、安堵と喜びがいっぱいに溢れていた。
 存在を確かめるように力いっぱい抱きしめられ、しばらくしてゆっくり体を離す。ふと視線が絡み合い、そのままどちらからともなく瞳を閉じると、体温を分け合うようにお互いの柔らかな熱が触れ合った。
 はっと吐息ごと飲み込まれ、アパルは幸せな息苦しさの中で、再びひっそりと幸福の涙を流した。



(えーついにアパルさんゼファー先生と結ばれちゃったの? なんだ俺もそろそろ本気でうちに誘おうと思ってたのに)
(クザンなんかと一緒に住んだら大変だろォ? わっしなら自分のことは自分で出来るし気も利くしおすすめだよォ?)
(クザン! ボルサリーノ! お前たちなにしに来た!?)
(そりゃアパルさんの飯食いに来たんですけど)
(気を遣ってゼファー先生のいないときを狙ってましたが、それももういいかなと思いましてねェ)
(気を遣ってだと!? 嘘をつくな! わざわざ俺のいない隙をついて顔を出していたくせに!?)
(なんだい快気祝いにきたらこの騒ぎは)
(あ、つる! いらっしゃい。ごめんね、今クザンたちがゼファーとじゃれてて)
(アパル、お前あれがじゃれてるように見えてんのかい?)
(……アパルさん)
(ん? どうしたのサカズキ?)
(なんかあった時ァ、わしの家に来ればいい)
(え? ……ふふ、なんの心配してるの? 大丈夫だよ。でもありがとね)
(サカズキ、お前が一番油断ならん! お前もこっちに来い! 全員鍛え直しだ!)
(わしゃぁ、今飯食ってるけぇのお。遠慮します)
(あ、おかわりいる? つるはなに食べる? 色々準備したよ)
(あんた自分の快気祝いの準備を自分でしたのかい? 全く仕方のない子だね。このあとガープとセンゴクも来るからそのときに追加で買ってこさせるよ。この勢いじゃすぐなくなっちまうだろう)
 
 
 ◆◆◆

 リクエストありがとうございました!
 ゼファーの短編で男主生存IFでした!
 ダイジェスト! みたいな感じになっちゃいましたが、楽しんでいただけたら嬉しいです。

 今度地上波でFILM Zやりますね!! 何回見てもZ先生かっこよすぎるし、ガープやセンゴクの渋かっこいい落ち着いたトーンの声が聞けるし、親父の若い頃の姿も見れる。クザンの風呂シーンでの顔面アップがじっくり見れて、ボルサリーノの戦闘シーンも見れる……いいところしかないですね!?
 
 ワンピにはイケおじが多すぎてほんとに困ります……ときめきで死んでしまう……