きみは最初は一番じゃなかったこと 乙夜影汰


 サッカー部の朝練に合わせて家を出ると、駅のホームはまだ人影はまばらだ。
 これがあと三十分もすれば出勤ラッシュですごいことになる。
 以前、寝坊して乗り込んだ満員電車を思い出し、乙夜は苦い顔をした。しかも周囲はサラリーマンばかりだったので、なおさらに最悪だった。
(せめて可愛いコや綺麗なお姉さんがいたらなあ……)
 そうすれば見知らぬ他人と詰め込まれる満員電車でだって、気持ちよく学校まで行くことが出来るのに。
「いや、綺麗な子ならいたか……」
 ふと思い出して、呟く。
 といっても、そのとき近くにいたのは女の子ではなく、同級生の男だったのだけれど。
 同じクラスの依織は、乙夜とほとんど変わらない身長だし、特別に女らしい顔だということもない。強いて言えば、肉の薄い華奢な体に中性的な顔立ちの、雰囲気の柔らかい男だ。
(腰細かったっけ……)
 張りつくように彼の背後をとっていたサラリーマンから引き剥がしたときの感触を思い出し、なんだか急に落ち着かない気持ちになる。
 ――乙夜くん、ありがとう。
 ふいに耳の奥に、依織の言葉が返ってきた。
 腰を抱き寄せたまではいいが、そのあとさらに人が増えて動けなくなってしまい、ずっと腕の中に抱えるようにしていると、ふいに依織が囁いたのだ。
 あのサラリーマンがなにをしていたかなんて、なんとなくだが想像がつく。しかし、それを明言されるのも嫌だろうと思っていたし、本人から礼を言われるとも思っていなかった。
 だから、少し驚いた。
 見ると、恥じるように睫毛が震えていた。けれど、見つめてくる瞳があまりにまっすぐだったから、ドキリとした。
 結局、高校の最寄り駅に着くまで、身動きの出来ない依織は乙夜の体にもたれかかるようにしていた。
 ホームに降りると、わざわざ頭を下げて再びお礼と謝罪をしてくるので、物珍しいまでに律儀な姿に、乙夜は朝練に遅刻してることなんて忘れて立ち止まってしまったのだ。
 ――律儀だね。
 ここまですることでもないのに、と自販機でお礼のスポーツドリンクを受け取りながら乙夜が言えば、依織はちょっと考えるように視線を落とした。
 多分、車内でのことをどこまでハッキリ言葉にするか、考えていたのだと思う。結局考え末に、困ったように笑って、
「でも、本当に助かったから」
 と言われてしまえば、ふーんと頷くしかない。
 ほっと息をついて安堵する姿に、今さらながら顔も覚えていないサラリーマンに怒りに似た気持ちが湧いた。
 同じ電車に乗っていた学生たちの姿がとっくに消えたころ、二人で改札を出ると、そこで待っていた小柄な男子生徒が依織のもとに駆け寄った。
「依織! 遅い! なにしてたんだよ!」
「ごめんね、山田くん。ちょっとお手洗い行ってたんだ」
「そんなにトイレ混んでたのかよ? ずっと来ないから、俺のこと置いてさきに行ったのかと思った」
「そんなことするわけないだろ? 約束してるのに、破ったりしないよ」
 ほら行こう。穏やかに依織が言うと、山田はまだ不服そうにしながらも並んで歩き出した。
 高校までの道すがら、二人の背後を歩きながら聞こえてくるのは、自分がどれだけ待ったか、不安だったかという山田の愚痴ばかり。依織はそれに嫌な顔一つ見せずに頷いたり、ときには謝ったりしていた。
 それはなんだか、小さい子どもの駄々に付き合う親のようでもあった。
 そのときの二人の後ろ姿を思い出し、乙夜は視線を上げて線路の向こうに見えるロータリーの喫茶チェーン店を見た。
 その窓際で依織は今も勉強に励んでいるはずだ。ここからじゃさすがに見えないが、歩いてくるときに見かけたので彼がいるのは確かだ。それはなにも、今日に限ったことじゃない。ときどきふらっと眼を向けると、依織はあの喫茶店にいる。
 変なやつ。と乙夜は内心で思う。
 勉強なんて学校に行ってからやればいいのだ。なにも混む時間の電車に乗らなくたっていい。
 そこまで考えて、先日の依織と山田のやり取りを思い出した。
(あいつとの約束に合わせるためにわざわざ時間潰してんの……?)
 思い至った途端、なんだか胸がもやもやした。ちょうど来た電車に乗り込みながら、乙夜はひとりでに首を傾げた。
 
 


「乙夜みたいなタイプの男はさ、女なんてヤれればいいんだろうな。そんで飽きたら次だろ」
 クズだよなあ、と聞こえた声に、ロッカーを覗き込んでいた乙夜は思わず顔を上げた。
 すでに予鈴も鳴ってほとんどの生徒が移動した教室内は静かなものだ。多分、屈んでロッカーを漁っていた乙夜は、その発言した人物の眼に入らなかったのだろう。
 随分と不名誉な話題だな、と教材を手に眼を向けると、廊下に出ようとする二人の影が見えた。
(山田と……っ!)
 依織の姿を見た途端に、ギクリとした。廊下に出る直前のところで、隠れるように立ち止まる。
「ああいうヤツはさ、女はもちろんだけど俺らみたいなクラスの端っこにいる人間のことだって見下してるんだぜ」
(いや、そんなこと思ってないけど)
 随分辛辣な言葉に、思わず内心で突っ込んでしまった。
 前々から山田からの視線が痛いとは思っていたが、ここまで憎まれる覚えはない。面と向かって話をしたことさえないのに、この決めつけるような言い草はさすがに腹が立つ。
 出て行って驚かせて見せようか。山田は、普段は誰にも彼にも身を小さくして、警戒するように依織の後ろに隠れている小心者なので、ここで張本人である乙夜が出て行けばビックリして青ざめるだろう。
 そんな意地の悪いことを考えた。普段の乙夜ならば多分やったはずだ。こそこそ隠れてやり過ごすなんて性に合わないので。
 なのに、依織がいると思うとどうにも二の足を踏んでしまう。
(なんだ、この気まずい感じ……)
 こんな話題の中で姿を見せて、山田と一緒に驚かれでもしたらどうしようか。
 青ざめて、罰の悪い顔をされたら――依織にまで、山田の言うように思われていたら……なんだか想像しただけでショックな気がする。
 依織が律儀で真面目な男だと知っている。だから、そんな男にまでそんなクズ野郎だと思われているのがショックなのだろうか。
 頭の中であれやこれやと考えてみたが、しっくり来るものがない。
 しかし、いつもの調子であれば依織は、グチグチと文句を言う山田を、微笑んで頷いてあやしているはずだ。そこでふと乙夜は気づいた。
 そういえば、山田の声ばかりで一向に依織の声が聞こえないな。不思議に思った乙夜がそろそろと顔を覗かせようとしたとき、
「乙夜くんは、山田くんのいうような人じゃないと思うよ」
 いつもの穏やかさに凜とした響きが乗った依織の声が届いた。
「は? なに言ってんだよ、依織」
「乙夜くんが女の人にだらしないのは事実かも知れないけど、人のこと見下したり、女の人にそういうひどいことする人じゃないよ」
「なんだよ急に……なんであんなやつのこと庇うんだよ」
 ――依織は俺の友達じゃないのか?
 信じられないとばかりに、依織の腕を揺さぶる山田の姿は、まるで親に見捨てられた子どものようだ。
 動揺した山田の言葉に、依織はわずかに傷ついたように眼を伏せた。と同時に、どうしてか乙夜の胸にも痛みのような怒りのような複雑な感情が湧いた。
 その心中に動揺しているうちに、山田は依織に捨て台詞を吐いて先に行ってしまった。
 どうにかして自分のほうを選んで欲しいと縋っていたが、依織が撤回しないと分かって拗ねたようだ。そんな山田の態度にも、乙夜はふつふつと煮えるような気持ちになった。
「わざわざ俺のことなんて庇うことなかったのに」
 気配を消して近寄って背後から話しかけると、依織は短い悲鳴を上げてへたり込んでしまった。その反応に乙夜も驚いてしまう。
「お、乙夜くん……?」
「ごめん。そこまで驚くと思ってなかった」
 目線を合わせて立てる? と訊くと、依織は自分の足元を見下ろしてから顔を青くさせた。
 白い肌からさらに生気が抜けていくようで、なんだかとっても悪いことをした気分になる。
「あー……抱えていい? それじゃあ授業行けないし、保健室行こ」
 訊いておきながら、遠慮するだろうなとも思ったので、有無を言わさず横抱きにして抱え上げる。驚いた依織が乙夜の首に腕を回すと、近くなったことでふんわりと柔らかな香りが鼻についた。
 いつも周囲にいる女子が使うような香水というほど強くない。柔軟剤かシャンプーかな……とそこまで考えて、いや男の匂いなんて気にしてどうすんだよ、と思い直した。
「ご、ごめんね……重いよね」
「いや、俺とタッパ変わんないのになんでこんなに軽いのか分かんない」
 それに鍛えてるから、と言うと、依織は少し表情を柔らかくした。
「乙夜くん、サッカー部だもんね」
「知ってたんだ」
「うん。いつも朝早くから朝練しに来てるでしょ? 俺、実は乙夜くんと乗ってる駅が一緒で……たまに見かけてたんだ」
「ふーん……」
 知ってる。とは言わなかった。これが女の子相手だったら、俺だっていつも見てたよ。とか知ってるよ、とか意味深に笑って見せるのに。
「意外? 俺がサッカー部なの」
 いつもローテンションで気だるげだからか、それとも女の子にふらふらしているからか、サッカー部でレギュラーなのだと言うと、意外な顔をされることが多い。
 乙夜がそれほどサッカーにのめり込んでいるとは思わないのか、付き合った女の子から、今日ぐらいは部活サボっちゃおうよ、なんて声をかけられたことだって一度や二度じゃない。
「え、どうして? 乙夜くん、すごくサッカー好きでしょ? 意外なんて思わないよ」
「そ? 意外って言われることが多いからさ」
「へえ……朝練に行く乙夜くんのほうが見慣れてるから、思わなかったかなあ……いつも朝早くから頑張っててすごいなってずっと思ってて……」
 腕の中で「みんなはそうなんだねえ」と依織が興味深そうに頷く。それを横目にみているうちに、なんだか乙夜は嬉しいようなこそばゆいような、落ち着かない気持ちになった。
 なんでだろうか。いつもより体が強張ってるような気がする。
(緊張してる……? 俺が?)
 女の子相手ならいざ知らず、なんだって男相手に?
 今までになかった感情に、自分の中で理解が追いつかない。静かな沈黙が二人の間に横たわって、不意に依織が呟いた。
「……さっきの山田くんのやつ、聞こえてたよね」
 ごめんね、山田くん結構決めつけちゃうところがあって……なんて言われて、乙夜は気まずげに視線を上に向けた。
「べつに。ああいうこと言われるの、初めてじゃないし。大して気にしてない」
 少し素っ気ない声が出た。怒ったわけじゃない。山田のフォローをする依織に、少し面白くない気持ちになったのだ。
 辿り着いた保健室には、タイミング悪く養護教諭は不在のようだ。勝手に入り込んでベッドに依織を下ろすと、彼は居心地悪そうに視線を揺らしている。
 そんなに気にしなくても良いのになあ、と乙夜は内心で思う。
 乙夜の友好関係は悪いものじゃないが、全員に好かれるなんてことも出来ない。特に、乙夜の軽薄で女性にふらふらするところは、一部の男からすこぶる評判が悪いことも承知の上だ。
 張本人がかすり傷一つないのに、それ以上に気に病んでいる依織の姿に、なんだか愉快な気持ちになってきて笑ってしまった。
「あんた、そういう真面目なところ良いと思うけど、そのうち自分のことだめにしそうだなぁ」
 独り言みたいに呟いて、我知らず依織の横髪をすくって耳にかける。と、たちまち依織が顔を真っ赤にしてパクパクと口を動かした。
 自分の行動もそうだが、思ってもみなかった依織の反応に、乙夜が不思議に思った瞬間。
「……あの、彼女と別れたって本当?」
 依織が瞳を伏せて、囁くようなか細い声が落ちた。
「あ、うん」
 上目遣いに見てくる依織の真っ赤な顔に眼を奪われながら話半分に頷く。
 そういえば教室でそんな話をした。つい先日まで付き合っていた先輩とは、浮気が原因で破局した。そのときにビンタを思いっきり食らって泣いたと言えば、周囲の女子からは辛辣な言葉の数々を投げかけられたものだ。
「……俺にこんなこと言われても困るとは思うんだけどさ、」
 そこで言葉を句切った依織は、躊躇うように口を引き結んだ。迷うように揺れる瞳の動きを追いかけていると、じわじわと今の状況が客観的に見えてくる。
(あれ? この状況って、つまりそういうことじゃん?)
 ある可能性に思い至ったのと、依織が言ったのは同時だった。
「おれ、乙夜くんのこと好きです……あと、まえに電車で助けてくれてありがとう」
 告白だけじゃ恥ずかしかったのか、慌てたように依織がつけ加えた。
 電車のことを出されて思わず、あれからは大丈夫だったか、なんて問いかけそうになって、今はそっちじゃないだろと慌てて口を閉じた。
 うん。なんて気のない返事しか出てこず、男相手なんて考えたこともなかったくせに、嫌だと思わないのに驚いた。
「俺、女の子一筋なんだけど……」
 そのはずなんだ――と、呟いた独り言は、依織にはお断りの文言として受け取られたらしい。淋しそうな顔で彼は笑った。
「あ、大丈夫! それは分かってるし、付き合って欲しいとか困らせるつもりはないから」
 慌てたように言い募られると、なぜだか傷ついたようなムッとしたような気持ちになる。
「俺は大丈夫だから、乙夜くんは授業に戻って。運んでくれてありがとね」
 出て行くように促そうとする手を取り、気づけば身を乗り出すようにしていた。
「たしかに女の子一筋だし、浮気もするし、一番には出来ないかもしれないけど……それでもいいなら付き合う?」
 我ながら最低なことを言っている自覚はあった。これもビンタコースかな、とちらりと思ったりもした。だが、言われた依織は喜ぶように瞳を艶めかせて真っ赤になった。
 こくりと控えめに頷かれて、その顔が林檎よりも真っ赤だったから、それが乙夜にも移ってじわじわと頬が熱かった。




 数年後。
「一番に出来ないかもなんて言って、本当は最初から一番でした」
 と、土下座する勢いで乙夜に言われた依織が、泣きながら「じゃあ、乙夜くんて俺のこと好きなの?」って言って、めちゃくちゃ慌てて誤解を解いたし、いちゃいちゃした。



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 リクエスト
 お題「きみは最初は一番じゃなかったこと」で乙夜影汰でした! リクエストくださった方、ありがとうございました!
 短くまとめようとしていろいろ端折ってしまったところもあり、わかりにくいかもしれません泣
 しかも、お題とはなんか真逆の意味になっちゃって本当に申し訳ありません。お題から連想してって企画だったので、許して欲しいです!
 切ない感じのご希望だったらすみません泣

 このあと、付き合ったのにあんまりに普通で、接触がない男主に慌てた乙夜(無自覚)が連絡先訊いたり、男主に依存気味な山田とバチバチしたりして男主と親睦を深めていく予定なので……いつか機会があればまた書きたいと思います! ありがとうございました!