あなたのことばかり 糸師冴




 休日の静かな部屋のなか。依織が教材に向かう机の上で、携帯が通知を知らせた。
 テキストに眼を落としたまま、手探りで引き寄せて画面をタップする。明るくなった液晶に表示された通知をちらりと見た瞬間、依織は眼を剥いてすぐに両手で持ち替えた。
 どうせゲームアプリのイベント告知とかだろ、なんて思ってたのに。まさか、一番期待していなかった相手からのメッセージの受信だとは。
 驚きと嬉しさでドキドキしながらそのメッセージに眼を通す。
 ――パスポート切れるから戻る。明日空いてるか?
「冴くん、帰ってくるんだ……」
 しかも明日なんて……。本当に急な連絡しかしてこないなあ。
 ぼやきつつ、それが彼らしくもあって依織はつい笑ってしまった。
 高校三年生の土日なんて、受験勉強ぐらいしか予定は入ってない。まだ試験まで数ヶ月あるし、依織はコツコツ予習復習をするタイプなので、この時期にそこまで切羽詰まっているわけでもない。一日ぐらい勉強をサボったって問題はない。
「空いてるよ、と」
 打ち込むと、ちょうど冴も携帯を開いていたのかすぐに既読がついた。ピコン、と再び通知音とともにメッセージが追加された。
 ――昼ごろ迎えに行く。どこ行きたいか考えとけ。
 この「どこ」というのは昼食のことか。それとも出かける場所のことか。
 悩んだのなんて一瞬で、どうせ両方だろうなあと思い至る。
 片手を上げて了承を示すうさぎのスタンプを送ってから、依織はさっそくとばかりに近場の飲食店などを検索し始めた。
(デート久しぶりだなあ……)
 冴が普段は海外にいるので、デートなんて帰省時の少しの時間に顔を合わせるぐらいしかない。
 ときどきビデオ通話で話をしたりはするが、練習で忙しい冴の時間を取るのも心苦しく、そして依織も三年に上がって受験勉強に時間を割くようになったので、最後に顔を見たのは二週間ほど前だ。
 もう勉強どころの気分じゃない。浮かれるままに立ち上がって、ベッドに飛びこんだ。
 柔らかな布団の上で横になって、冴からのメッセージを眺める。
「まだ、俺と会ってくれるんだなあ……」
 口から滑り出た言葉に、ハッとして口を噤む。それは、ずっと依織の中にわだかまっている不安の欠片だ。
 十三の年に、冴はスペインに渡った。ちょうどその少し前に、彼から告白されて付き合いだした依織だったが、恋人らしいことといえばあの冴が適度に連絡をかかさずくれるぐらい。
 それだけでも十分にすごいとは思うけれど、世で言う手を繋いだり、キスをしたり……といった恋人同士の触れあいというのはほとんどない。
 デートだって、数えられるぐらいしかないのだから、当然といえば当然だ。
 果たして自分と冴の関係は恋人のままなのだろうか。
 ここ数年で何度も過ぎった疑問が、再び依織の胸を襲う。
 たまの帰省時に会うぐらい、仲の良い友人だってするだろう。
 好きや愛してるといった好意を示す言葉も、告白されたときに言われたきりだ。
 あれは子どもの戯れに言った言葉の一つであり、ままごとみたいなものだったのではないか。もしかしたら、子どもの言ったことだからと、すでに冴の中で依織は恋人という枠組みには入っていないのかもしれない。
 そんな不安がずっと胸の中で燻っている。
 携帯をベッドに伏せて、依織は天井をぼんやりと見上げた。
「冴くんて、向こうで俺のこと考えるときってあるのかな……」




 久しぶりの再会にドキドキして、夜明けと同じぐらいに目が覚めてしまった。
 数分に一度時計をみるようにソワソワして待ちわびていると、十二時を目前にしたところで冴からメッセージが入った。
 ――下にいる。
 それを見るやいなや、依織は窓から外を確認することもなく部屋を飛び出した。
 逸る気持ちのまま家の鍵を閉めて目の前の道路に出ると、塀に背中を預けて立つ冴がいた。
「冴くん! 久しぶり!」
 翡翠の瞳と眼を合わせながら微笑むと、冴は依織の飛び出てきた勢いにでも驚いたのか、静かに眼を瞠っていた。
 少し背が伸びた気がする。体だって前よりも厚みが増している。綺麗な顔は相変わらずだが、さらに男らしく成長している恋人の姿に、依織はほうっと数秒見とれていた。
 冴もわずかに見開いた眼でじっと見ていたが、ハッとしたように我に返ると、「久しぶりだな」と少し泳いだ視線で言った。
「おばさんたちとはいいの?」
「昨日家に帰って顔見せたからいいだろ。それより、行く場所決めたか?」
 振り向いた顔は表情が薄いけれど、見つめる瞳は柔らかい温度を纏っている。それが幼いころからの友人へなのか、それとも恋人に大してなのかは分からない。だが、それだけでも依織の胸はトクリと高く鳴った。
「いつも行ってる商店街のおそば屋さんかご飯屋さんはどうかなって思うんだけど」
 そろりと窺うと、冴は渋い顔をした。
「お前……本当にそこでいいのか?」
 いつも行ってるだろ、と訝しむ低い声が落ちる。
「うん。あそこのおじさんやおばさんなら冴くんに会っても騒がしくならないだろうし、お客さんも近所の人だしさ。せっかくの休日なんだから静かに過ごせたほうがいいかなって思って」
 この地域の人間であれば、大通り近くにある商店街には子どもの頃からお世話になっているものだ。自分たちが慣れ親しんでいるのはもちろんだし、店の人も訪れる客も、みんな小さい頃から冴を知っている人なので今さら「あの糸師冴」が現れたからって騒がしくなることはない。
 我ながら良いチョイスだな、と思っていたのだが、依織の言葉に冴はさらに眉間の皺を濃くしてしまった。
「……お前がいいんだったらそれでもいいが」
 素っ気ない声に、嫌だったかなと落ち込んだ瞬間のことだ。
 ――べつにお前が行きたいんだったら、騒がしいとこだって俺は構わない。
 ぽつりと隣から届いた声に、依織は息を呑んで顔を上げた。そのまま冴の横顔を凝視しているうちに、じわじわと胸の奥底から温かい感情が湧いてくる。
 と、不意に冴が眼も寄越さずに依織の手を取った。滑らせるような自然の動きで指を合わせ、そのまま強く握られた。
 硬い骨張った男の指の感触と、厚みのある手のひらの柔らかさ。
 急なことに驚いて思わず冴を見ると、その耳がわずかに赤く染まっていることに気づいた。
 繋いだ手を引かれるようにして歩く中で、それを眼にした依織は不意に泣きたくなった。
 ――ねえ、冴くん。
 心の中でそっと呼びかけた――つもりだった。しかし、不意に冴が振り向いて首を傾げたので、依織はようやく自分が声に出していたことに気づく。
 立ち止まって依織の言葉を待つ冴の瞳は静かで穏やかだ。
 それに後押しされるように、依織はおずおずと言った。
「俺ってちゃんとまだ冴くんの恋人……?」
「はっ……?」
 思わずと冴が呆けて口を開けた。信じられないことを聞いたとばかりに揺れる翡翠に、依織は傷つけたと思って慌てて弁解する。
「違うの! ほら、冴くんの前よりもっとテレビとか雑誌で見るようになってすごいなって思ってて……冴くんはこんなにすごいのに、こんな平凡な……それも男の俺なんかが恋人でいいのかなって……ちょっと不安になっちゃって……」
 メディア媒体で見る冴は、いつだってストイックすぎるほどにサッカーに対して真摯だ。サッカーがあれば他はいらないとばかりに世界へ羽ばたく彼の姿が、依織は誇りであり、淋しくも思っていた。
 冴にとってサッカーは必要なものだけれど、きっと依織はそうじゃない。
 いつだって彼の頭にあるのはサッカーで、そこにほんのちょっとでも自分の居場所はあるのだろうか。
 そんな女々しい疑問が、何度も頭を過る。冴が活躍を増やすほどに、今の彼の中に依織を思い出すことなんてあるのだろうかと。
「……冴くんがサッカーを大事にしてるのは十分わかってるつもり。ただ、向こうにいるときとか、たまには俺のこと思い出してくれてるかなあ、なんて思っちゃって……」
 視線は足元をうろつかせながら弱々しく言うと、しばらくの間、冴はだんまりだった。驚いて言葉を無くしているようだった。
 重たい沈黙が二人の間に横たわり、その空気になった依織が発言を撤回しようと顔を上げたとき――。
「全然分かってねえ」
「わっ!」
 繋がった手を思い切り引かれ、依織が体勢を崩す。正面から受け止めた冴は、そのまま細い路地に入って、塀に背中を預けた。
 寄りかかるように冴に身を預けた依織は、ハッと息を止めた。
 見上げた冴は、鼻頭に皺を寄せていて、細くなった翡翠の瞳が明らかに不満そうに歪んでいる。
「たまには? そんなわけないだろ……サッカー以外の時はお前のことしか考えてねえよ」
 唸るような声とは反対に、その言葉は依織への愛情でひどく温かかった。
「自分なんかがって言ったな。それは俺の台詞だ」
「え?」
「お前は誰にだって好かれるような、愛情深い人間で……サッカーしか取り柄がないような俺が独り占めして良いのかと思うときがある」
「……冴くん」
 苦しそうな彼の表情に、依織は反射的に腕を伸ばした。冴の横髪を耳にかけて頬に触れると、幾分か彼の険しい表情が和らいだ。
「俺、そんな大層な人間じゃないよ?」
 なんでそんな聖人みたいに思われてるのかな、と苦笑気味に言うと、冴はムッとした顔で言い返す。
「そういう無自覚なところが心配なんだよ」
 背中に回った腕の力が強くなり、冴の鍛えられた胸板に依織の体がピタリと寄り添う。
「俺がなんで毎週ビデオ通話すると思う? 数ヶ月に一回帰国すると思う?」
 ――全部お前に忘れられないためだ。
 吐息を含んだ言葉は、しみこむように依織の体に伝わった。
 耳元からじわじわと熱を持っていく体の衝動のまま、依織は背伸びをして唇を寄せた。
 ほんの一瞬だけ触れたキスに、冴はきょとりと瞳を大きく丸くしてしばたたいていた。
(あ……キスしちゃった……)
 今まで手を繋ぐぐらいしか触れ合ったことがなかったのに。大胆な行動をした自分に、遅れて恥ずかしさが沸き立って赤くなった顔を隠すように俯く。咄嗟に謝ろうとした依織の顎をすくい、冴が顔を上げさせる。
 あっと思ったときにはすでに唇が重なっていた。
 しっとりと吸い付くようなキスは、随分と長い間依織の呼吸を奪った。
 控えめに差し込まれた冴の舌が依織の舌先を撫でてから離れていく。
 震えながら瞼を上げると、爛々と昏い色で輝く冴の瞳と交わって、ゾクリとした感覚に腰が震えた。
「あ、冴く……」
 か細く口をつくと、冴は正気に戻ったように大きく瞬いてからそっと顔を背けた。
「悪い……こんながっついて」
「ううん。俺も、その……嬉しかったから」
 はしたないかな、なんて思いつつも、素直な気持ちを微笑みながら告げると、再び冴にキスをされた。今度は一瞬の触れあいで離れていったが、冴は自分の行動に驚いているようで、唖然と眼を見開いたと思えば、顔を覆って「クソ」と吐き捨てる。
「……嫌になるだろ。こんな余裕なくてかっこわりい……」
「ううん。冴くんはいつもかっこいいよ」
 冴の背中に腕を回し、こてんと肩に頭を預けて微笑むと、彼はまた小さく「クソ」と悔しそうに吐いた。
 その頬が髪と変わらず真っ赤になっていたから、そんな余裕のない珍しい姿に依織はクスクスと笑ってしまった。
(なーんだ……冴くんちゃんと俺のこと好きでいてくれてるんだ)
 嬉しくなった依織は、この機会にと冴に目一杯抱きついてその温もりを感じていた。


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 糸師冴で「あなたのことばかり」でした! リクエストありがとうございました!
 冴くんサッカーばっかりだったあまり、恋愛経験は乏しそうだな……と思ったのが始まりでした。内心はいつも余裕ないしめっちゃ好き好き思ってるくせに、こんなのかっこわりーって勝手に思い込んでポーカーフェイス決め込んでそうだなって思います。
 この男主くんとは近所の幼なじみで、冴くんはひっそりこっそり救われてるし初恋奪われてる感じで、海外行く前にどうしても自分のものにしたくて告白したという裏設定があります。
 今回、こんな自分でも男主が離れていかないって分かったので、これからは甘え倒して愛情表現多めに接していく糸師冴がいると思います。
 リクエスト本当にありがとうございました!