打算で演技で遊びのつもりだった 宇随天元




 依織は、その里はひどく異質な存在だった。
 戦えるわけでも、諜報活動ができるわけでもない。むしろ、昔負った傷のせいで、普通に歩くことすら人の何倍もの時間を必要とする――要は、忍びの里でいえば、「役立たずな男」だ。
 それなのに殺されることもなく、村八分にされるようなこともなく生きているのは、その美しさのせいだろうか。
 宇髄は遠目に見えた依織の姿に目を眇めた。
 男臭さのない細面に、艶のある細く長い黒髪。里のくのいちのほうがよほど厚みがあるように見える、華奢な体――依織を構成する全てが、神が誂えたように全てが美しく完璧であった。
(人の死なんて目にしたことがねえような顔をしてる……)
 綺麗なものしか見たことの無いような、そんな清純な雰囲気が、天元を鼻持ちならない気持ちにさせた。
 こんな里に生まれて、よくもお綺麗な顔が出来るものだ。
 この里に生まれたからには、依織とて人を殺したことがない――なんてありえない。それなのに、自分だけが綺麗だとばかりにしずしずと歩く姿に、妙な苛立ちを感じた。
 それはきっと、天元が心底嫌っている父親が、依織に執着しているというのも要因の一つであろう。
 強くなければ。人を殺せなければ。里の――一族の役に立たなければその命に意味は無いと思っている、同じ人間とは思えないほど非道な父だが、なぜか依織にだけは至極丁寧な手つきで触れるのである。
(親父があれだけ入れ込んでんだ……上手く取り入れば使えるかもしれない)
 先日、天元の三つ下の妹が訓練中に死んだ。まだ七つだった。
 今年で十になる天元もだが、他の姉弟も大なり小なり死にかけたことがある。姉弟のなかでの死者は初めてだったが、これから苛烈になる訓練で、きっともっと死んでいく。
 姉弟の関係は希薄であったとしても、血の繋がった者が死んでいくのは心が痛かった。
(あいつの言葉なら、親父も耳を貸すかもな……)
 

 父のいない隙をみて依織と接触を繰り返すうちに、天元は不思議な気持ちになった。
「天元、こっちにおいで。怪我をしてるだろう」
 片足に負った大きな傷のせいで、立ち上がるのにだって長い時間を要する依織は、普段は屋敷の奥の自室にいる。
 畳の上で緩く足を伸ばした姿勢で、彼は細い手で天元に手招きをして呼び寄せた。
 最初は警戒していた天元だったが、今じゃ素直に傍に腰を下ろす。すると、ゆっくりと伸びた白い手がそっと頬を撫でてくる。
「顔にまで傷が……足のあとに見てあげるから……少し待っててね」
 それまで止血しておきな、と手ぬぐいを一枚差し出される。それを頬に当てながら、天元はじっと依織の動きを目で追っていた。
 天元の見てきた大人は、こんなふうに手当をしてくれたことはない。
 むしろ、傷つき、血を流し、ボロボロになっていくほどに、獣の死骸でも見るような昏い色の瞳で見下ろされる。
 それなのに依織はどうだ。
 その声に抑揚は少なく、一見冷たいようではあるが、彼は傷ついた子どもたちを見るとその静かな青い瞳に一瞬、痛みを走らせる。その刹那の感情の揺らぎだけで、天元たちはぬるま湯に浸かったような心地よさを覚えるのだ。
 隠していたはずの足の怪我を手当てされつつ、天元はチラリと依織を盗み見る。
 父に取り入り、自分の身を保障させている打算的な男かと思っていたこともある。しかし、実際に触れて言葉を交わしてみれば、この人がいかに忍びなどとは似つかわしくない存在かよく分かった。
 鳥の声や雨の音に情緒を覚え、子どもが怪我をしていれば痛ましそうに眉を寄せる。
 まるで市井の子どもが与えられるような親からの愛情を、天元たちにごく自然に与えてくるのだ。
(もしかしたらこいつは、本当に外の世界のことを知らないのか……)
 いつ頃に足に怪我を負って屋敷に引きこもっているのかは分からない。だが、天元が考えていたよりもうんと昔の小さい頃から依織は閉じこもっているのかもしれない。
 それこそ、あの厳しい訓練も人の死を眼の前で感じる任務も、すべて知るよりも前に彼はこの部屋で過ごしているのかもしれない。
 ――だからあんたは、こんなに綺麗なのか?
 まっさらで、汚れなど知らないような純真な美しい人。
 父のような人間にはなりたくない――常々そう思い、悩み苦しんでいる天元にとって、この部屋でこの人と過ごしていられるときだけは、まるで市井の子どものように穏やかでいられるのだ。
 
 


 依織が綺麗な世界しか知らないという天元の一方的な思想が思い違いだったと知ったのは、十五を迎えた年の冬のことだった。
 姉弟がまた一人、死んだのだ。これで生き残っているのは天元と、二つ下の弟だけになってしまった。
 任務に時間がかかりすぎていると苛立った父に促され、様子を見に来た天元が眼にしたのは、無残に朽ち果てた姉弟の姿だった。
 息すら凍りそうな寒い日で、地面には薄らと雪が広がっていた。積もり始めたばかりの柔らかい雪を、じわじわと赤黒い血が染めていく。
 まだ血が流れているところをみると、死んでからそう時間は経っていない。
 ――もう少し俺が早く来ていれば……
 頭を掠めた一つの可能性を、慌てて振り払う。たらればなど存在しない。死んだらそこで終わりだ。しかも任務を達成できずに敵にやられるなど……。
(親父が知ったら、また怒り狂うだろうな……)
 このあとの報告を思うと憂鬱な気分になる。そして血を分けた姉弟の死体を前に、そんなことを思う気分に吐き気がした。
 父ならば捨て置けというだろうが、なけなしの良心を振り絞って、天元は村の墓地近くへと姉弟だったものを運んだ。さすがに埋葬してやるだけの時間はない。早く行かなければ父にどやされるだろう。
 天元一人ならばいくらでも反抗できただろうが、少し前から嫁をもらった身としては、あまり眼をつけられることは避けたい。父の怒りの矛先が、必ず自分に向かうとは限らないのだから。
 依織に会いたい――。
 姉弟の死に悲しみも憐れみも湧かない空虚な心の中で、ぽつりと浮かんだ欲求。
 あの人は今ごろ、窓からこの雪でも眺めているだろうか。
 父への報告を終え、死んだ姉弟の尻拭いに任務に出かけているうちに雪は随分と深く降り積もった。
 日付も変わって随分時間がたった時分では、父も寝ているだろうと言い訳をつけて報告は翌日へと持ち越すことにした。
 疲れ切った体を休めようと自室に向かう道中、不意に姉弟の死体を思い出した。
(ああ、せめて埋めてやらなければ……)
 父にバレればまた反感を買う。ならば、里のものも寝静まったこの時間帯がちょうどいい。くるりと体を反転させて屋敷を出た天元は、そのまま里の外れの墓地へと向かう。
 と、そこで天元は雪の中で座り込む依織の姿を見た。
 陽の落ちた夜半に加え、雪が降り注ぐ中、その人は薄い寝間着に地味な色の羽織を纏っただけだった。
 長い黒髪が雪の中を舞うように風に揺れ、一瞬見惚れていた。ハッとして駆け寄ろうとしたが、依織が膝の上で大事そうに抱えるものを見て足が止まった。
 それは今しがた天元が埋めてやろうと思っていた姉弟の姿だ。
 すでに生気をなくした青ざめた顔は、今は依織の膝の上で優しく撫でられている。その表情が心なしか和らいで見えるのは、天元の錯覚だろうか。
「――」
 微かな依織の声が、風に乗って届く。あの姉弟の名前だ。
 父も、それこそ天元たち姉弟だってほとんど呼ぶことのないそれを、あの人は悲しみに染まった声で呼んだ。
 途端に、天元の胸が切なさで絞られた。
 眼球が熱を持ったように痛みを訴える。それでも、眼の前の光景からは眼が逸らせなかった。
 依織は自身の羽織が汚れることも厭わず、姉弟の血を拭い、幼い子どもにするような優しい手つきで髪や頬を撫でた。
 いつだって真っ白で傷や汚れの知らぬ手が、今は赤黒い乾いた血で汚れている。
 そのとき天元は唐突に理解した。
 この人は、汚れも苦しみも知らぬ訳ではないのだ。
 姉弟の死体を抱いてはらはらと涙を零す姿に、きっと他の姉弟が死んだときだって同じように泣いていたはずだと根拠もなく確信できた。
 ――依織、アンタは汚れていても綺麗なんだな。
 いや、汚い世界を知りつつも、人を憂う心を忘れず、人を受け入れる温もりを忘れずにいられるからこそ、こんなにも美しく感じるのだろうか。
 その彼の目映いばかりの精神の美しさに、闇の世界しか知らない里の者は引き寄せられるのだ。
 雪に体温を奪われながら、天元はしばらくの間立ち尽くして眼の前の光景に見入っていた。世界中どこを探したって、今天元が眼にしている光景以上に美しく、心打たれるものはないだろう。
(……打算だったはずなのにな)
 上手く信頼を得られれば、依織からの進言で父を止められると思っていた。だが、結局天元から父を止めるよう頼むことは一度もなかった。
(そんなこと、あんたはとっくにやってたもんな……)
 子どもの命をなんだと思っているのかと。部下の命をなんだと思っているのかと。妻をなんだと思っているのかと。
 あの人は再三父へ立ち向かっては、反感を買っていた。そのときだけは、父は依織を力の限り屈服させて手酷く抱いていた。
 本当はずっと、あの人が綺麗な世界しか知らぬわけではないと、天元だって分かっていたはずなのだ。
 だが、あの部屋にいるときだけは。依織の傍にいるときだけは、一族のことも忍びのことも忘れてしまいたくて、勝手に理想を押しつけていた。
 そのことをようやく今、ハッキリと自覚した。
 そして、地獄のようなこの世界を知っている依織が、それでもなお綺麗で柔らかな心を忘れない様に、天元のなかで決意が湧いた。
(……この里を出よう)
 嫁たちと手を取り、そして依織をつれてこの里を出よう。
 今まで奪ってきた命への贖罪を抱えながら、あの人の真似をして綺麗な心を育み生きてゆこう。


 ◇


 春の近づいてきた日のことだ。
 珍しく里の長である男が、屋敷を留守にしていて随分と静かだった。
 依織は部屋につけた蝋燭の明かりに照らされながら、ぼんやりと真っ暗な森を眺めていた。
 少し前ではあれば、当主である男のいない夜には、子どもたちの誰かが遊びにきていたものだ。しかし、もう子どもを二人しか残っていない。ある程度大きくなったあの子たちは、めっきり依織の元へ来ることが減っていた。
(元気にしてるだろうか……)
 怪我はしてないだろうか。
 きっと当主の男が聞けば鼻で嗤うだろうことを、依織はそれこそ真面目に心配していた。
 生き残った弟のほうは、ひどく冷たい瞳をするようになってしまった。それが依織には悲しくて切なくてたまらない。
 しかし、天元のように善悪の基準を真っ当に備えた健全な精神の人間には、この忍びの世界はとてつもなく苦しいものだろう。そう思うと、いっそ冷酷な人間に育ったほうがあの子たちのためなのだろうかとも思ってしまう。
 窓から入り込んだ夜風で、蝋燭がひときわ大きく揺れてふっと消えてしまった。
 月明かりだけになった部屋の中で、風の冷たさにぶるりと体を震えさせた。
 片足の傷跡が、冷えた空気でツキンと痛む。そっとさすっていると、不意に依織は部屋の中に人影があることに気づいた。
「……天元?」
 おそるおそる問えば、「ああ」と最近になってさらに低くなった声が返ってくる。
「どうしたの、こんな時間に」
 足を滑らせ、手の力で体を浮かせるようにそっと傍に移動すると、暗闇の中で彼の昏い赤が光る。その光りが依織を見下ろすと、不意に天元は跪いて依織と眼を合わせた。
「俺は……いや俺たちは里を出る」
 静かな声に、依織は言葉を呑んだ。しかし、すぐに胸に広がった安堵とともに柔らかく微笑んだ。
「うん。それがいいよ……お前は優しすぎる子だから、外の世界で暮らした方がいい」
 すでに精悍さを出した天元の顔をそっと撫でれば、彼は苦いものを噛んだように顔をしかめてしまった。どうしたのかと問うよりも早く、撫でていた手を取られて引き寄せられた。
 鼻先に迫った瞳が、一心に依織を射抜いてくる。
「……あんたも一緒に行くんだ」
「え、」
 戸惑いの最中、そのままひょいと抱え上げられる。いつの間に来ていたのか荷物を抱えたまきをと雛鶴が傍らを固め、須磨は涙ぐみながら「今のうちです!」と小声で叫んだ。
 眼を白黒させているうちに、依織は四人とともに森を抜けていた。天元の腕の中、困惑してきょろきょろと見渡していると、須磨と眼があった。彼女はふにゃりと嬉しそうに笑った。
「へへ、良かったです。無事に連れ出せて」
「ああ、親父がいない日を狙って良かったな」
「でも、あの人のことだからすぐに追っ手をかけてくるわよね」
 不安そうなまきをに、雛鶴が微笑む。
「そのために出来るだけ距離を稼ぐのよ」
 そして依織に眼を合わせると、ふわりと温かく笑った。
「依織さん、大丈夫ですよ。今度は私たちが守りますから」
「大きくなってからあんまり会えなかったので淋しかったです! でも今度からはずっと一緒ですね!」
 里抜けの真っ最中とは思えぬ須磨のとびきりの笑顔に、依織はやはり頭が追いつかずに呆けて首を傾げた。
 そんな依織の様子を見ていた天元は、依織を抱きかかえる腕の力をそっと強くした。


(あの、みんな……里抜けなら俺は足手まといになるだろうし、置いていっても)
(ダメだ)
(ダメです)
(ダメですよ!)
(なんでそんなこと言うんですかあ!? せっかく一緒にいられるようになったのに!)


 ◆◆◆


 お題「打算で演技で遊びのつもりだった」で宇随天元でした! リクエストいただきありがとうございました!
 ダイジェストになってしまいましたが、本当は遊郭編での後方支援とか、鬼殺隊に入ってからの宇随家の日常とかいろいろ妄想してました。
 基本男主はおうちでの家事専門で、みんなの母兼嫁ポジですね。
 足が悪くて一緒に任務にはいけないから、家で温かいご飯を作って待ってる係で、ほかほかのご飯と一緒に笑顔の男主に出迎えられて家庭の温かさを実感する宇随さんたち四人とか、みんなで川の字で寝る中で誰が男主(ママ)の隣で寝るか争いになったり、家族四人の中に俺がいるのは迷惑なんじゃ……って身を引こうとする男主を、四人で心も体も愛情で囲う宇随家の姿とか諸々考えてました。
 いつか機会があればまた書きたいなあ、と思います!
 いろいろと宇随さんの過去にねつ造が多かったですが、楽しんでいただけると嬉しいです! リクエストありがとうございました!