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あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
 今ひとたびの 逢うこともがな


 前にある黒板には、女性の先生の達筆な文字が記されている。
・土佐日記 紀貫之
・蜻蛉日記 藤原道綱母
・和泉式部日記 和泉式部
・紫式部日記 紫式部
・更級日記 菅原孝標女

 とあり、これらを中カッコでくくって平安時代の日記文学だとまとめた。それぞれの下にさらに特徴を加えていく話に耳を傾けながらも、千鶴は右から左にそれを流して国語便覧の該当ページを見ていた。
 和泉式部に割かれているページはとても少なく、四分の一ページしかない。佐多さた芳郎よしろうが描いた蛍と和泉式部の絵をそっとなぞってから、開き癖のついている少し後ろのページを引く。
 鎌倉時代初期 小倉百人一首とあるそのページの56番目の和歌。情熱的な恋愛を重ねて時には世間を騒がせていた和泉式部が病床から恋人に贈った歌とされている。

私の命はもう長くはない…ですから、あの世に行ってからの思い出に、せめてもう一度、貴方にお会いしたいのです。

 なんて切ない歌だろう。千鶴は病床にす事が少ないし、大病もしたことがない。だから和泉式部の気持ちは分からない。それを理解できたのは同じような境遇にあった母だけだ。強いて言うなら、和泉式部の娘である小式部内侍の気持ちの方がよくわかる。
 千鶴は意識を授業に戻して、ノートに取っている板書の横に小さく『あらざ』の歌を書いた。


 千鶴の通う学校 都立瑞沢高校は一学年およそ400人、全校約1200人のごく普通の公立高校だ。始業式からしばらくして葉桜になる前に散ってしまった桜の気が寒々しくて可哀想な四月、すぐさま始まった授業にげんなりしつつも友だちと過ごす学校生活は楽しいものだった。
 ただし、千鶴の容姿は端麗で、名前も知らない人から告白をされることが一年のときからしょっちゅうあった。元々口はあまりよくない千鶴なので、一部の人からは毒舌や女尊男卑が災いして絶対零度の女王なんて呼ばれている。その噂は千鶴の耳にも届いており、千鶴の苛立ちを煽るだけだった。

 放課後、今日出た宿題を片付けてから千鶴は教室を出た。日が少し傾いて、廊下に自然光が差し込む。昇降口に降りると掲示板に『競技かるた部』のポスターが張ってあった。1年2組 綾瀬千早。モデルの綾瀬千歳の妹で、千鶴と同じく容姿端麗で噂になっている一つ下の女の子。まあ、彼女は無駄美人でもあるともっぱらなのだが。
 やりたい。もう一度かるたを。その気持ちはあっても、現実的に無理だった。週に3〜4日はバイトがあるし、あまり帰りが遅くなると薙羽哉ちはやの晩ごはんが遅れてしまい、その所為で寝る時間まで影響してしまう。千鶴ははあ、と息を吐き出した。

「あのー、競技かるた部になにか…?」

 声をかけて来たのは綾瀬さんと同じ学年で顔よし頭良しの秀才だと噂の真島 太一だった。別に、そっけなく返して千鶴はくるりと踵を返して靴箱の扉を開ける。その手を彼が掴んだ。

「何か用?」

 掴まれた腕を振り払って、千鶴はローファーを置いた。一度ちらりと彼を見ても、彼は口籠ってなにも言葉を発しない。千鶴はしびれを切らせて上履きを脱いだ。ぱたんと扉を閉じて置いておいたローファーを履く。

「体験だけでも良いんで、興味あったら来てください!」
「気が向いたらね」

 千鶴は今度こそ彼に背を向けてバイトに向かった。自転車を走らせて通学路の途中、どちらかというと家寄りの場所にあるコンビニが千鶴のアルバイト先の一つ。ちなみにもうひとつは週に一日、土曜に入っている居酒屋だ。
 バイトを終えた帰り道。千鶴は夜道を自転車で駆け抜ける。弟の薙羽哉ちはやはまだ小学二年生で、本当は親を必要とする年齢だ。しかし特殊な家系である依田家に両親はいない。少し前までは祖父母が居たのだが、二人はもう他界してしまった。祖父母と千鶴と薙羽哉ちはやの四人で暮らしていた家は、今は千鶴と薙羽哉ちはやしか居らず、広さが物寂しい。だからこそ早く帰ってあげたかった。
 自転車を車のない駐車場に停め、玄関の鍵を回して中に入る。鍵を閉め、チェーンをしてから音を立てないように静かに二階に上って薙羽哉ちはやの部屋を覗く。部屋は常夜灯の小さなオレンジの光しかないので薄暗く、奥にあるベッドに薙羽哉ちはやが横になっているのが見えた。

「お姉ちゃんおかえり」
「ただいま、薙羽哉ちはや。遅くなってごめんね。おやすみ」
「おやすみ」

 千鶴は静かに扉を閉め、隣の自分の部屋に入る。入ってまっすぐ前に学習机があって、右手にベッドがある。部屋の真ん中辺りにローテーブルがあって、そこに荷物をどさりと置いて、そこに朝から置きっぱなしにしていたスウェットを持ち下におりる。薙羽哉ちはやがためてくれたお風呂を湧かし直して入る。熱めの湯船に浸かって上を向く。

「あー…」

 吐き出した意味もない言葉は風呂だからよく響く。今日も疲れた、とこうしていたわるのだ。LEDが眩しくて千鶴は目を閉じる。浮かんで来たのは競技かるた部の勧誘チラシだった。
 部活をやるとなると、千鶴は家事 勉強 バイト 部活。四つも両立させなくてはならなくなる。今の三つでそれなりに疲労困憊だと言うのに、これ以上頑張ったらきっと千鶴は過労で倒れることだろう。現実的ではなかった。
 それでも身体は素直なもので、自然と試合で序歌として読まれる『難波津』の歌を詠んでいた。二度目の下の句を詠んで、次に詠んだのは『あらざ』だった。『あらざ』の『ざ』を詠むと同時に千鶴の左手はヒュッと風呂の水面を弾いた。自陣左側上段。そこが『あらざ』の定位置だった。

「やめやめ。虚しくなるだけじゃない」

 千鶴は呆れたように自分への嘲笑を浮かべ、ざばんと音を立てて湯船をでた。
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